実験──潜行
まるで戦車の主砲から発せられたかのような勢いを持った椚剛の突進の前にして、美影には抗する手段など皆無かと思われた。
確かに彼女には零二程の防御力はない。それに異常なまでの回復能力もない。
そんな彼女の肉体などこの突進を受けてしまえば文字通りに五体がバラバラになりかねない。
そう、以前の彼女であればこの攻撃で終わっていた事であろう。
だが今はもう違う。
ピシピキ、という奇妙な音が椚剛の耳朶に聞こえる。
それはまるで何かが、氷結していくような音。
「う、あ、ふがっ?」
何故か速度が落ちた。まだ獲物へ届いてもいないのに、である。
そうして気付く。いつの間にか自分の足が青ざめている事に。
「ぐ、あ、ぎゃっ」
足を踏み出そうと試みて激痛が襲う。思わず見ると足の裏が血まみれになっているのが分かる。皮が剥がれ、肉が剥き出しになっていたのだ。
「う、あぐ、?」
そうして椚剛はさっきまでは感じなかった寒気を感じ始め、鳥肌が立っている事を自覚するのだった。
◆
「くわばはははは、これは面白いねぇ。まさか、」
道園獲耐はモニターの先で起きた事態に好奇心を強く刺激され、喜色満面といった様子である。
そもそも彼にとってこの実験は余興であった。
ここに至って既にペルソナはほぼ完成していた。
これを導入すればフリークをも一定水準でコントロールする事も可能となる。
「椚剛、なかなかに役だってくれたねぇ。君は実にいい実験動物だったよ」
美影にぶつけた椚剛はこの枯れ木のような痩せぎすの老科学者にとって本来であればもう不要品とも云えた存在であった。
「最初は本当に弱いイレギュラーだったというのにねぇ」
かつて道園獲耐はある実験の一環として極々弱いイレギュラーを持つマイノリティを幾十人程抱え込んだ事がある。
その実験内容とはマイノリティはその精神面の操作によってどの程度イレギュラーを強化出来るのか?
通称″種の起源″と呼称されたその実験はWDのみならず後にWGに協力する有力者からも援助が行われた一大プロジェクトであったのだが結果的に失敗。様々な非人道的な実験は頓挫して、今では完全に機密事項となっている灰色の案件。
そして今や殆ど残っていないその実験の生き残りの一人こそが絶対防御こと椚剛である。
(もっとも彼が生き延びたのも出来損ないだったからだけどねぇ)
椚剛はその実験で集められた多くのマイノリティの中で失敗作との烙印を押され廃棄処分となるはずだった。
それを拾い上げたのが道園獲耐である。
無論、人道的な見地からの行為ではない。そんなモノをこの科学者は持ち合わせてはいない。
彼にとってはそこにいくら壊しても何も問題のない実験動物があり、それを限界まで使い切る、それだけの事でしかないのだから。
「ぐ、あ、ぎゃああああ」
叫び声が聞こえる。
これまでこういう叫びを何度耳にした事であろうか。
最初は怖かった。そうだったと思う。
だが倫理観などに囚われてなどいられなかった。非常時には常識的観念などに縛られては何も為す事など出来ない事をこの老科学者はよく知っている。
(くわばはははは、そうだ。物事を為す為には犠牲がいる。多くの事を達成する為であれば尚更ねぇ)
そう、そうして今まで様々な事を為したのだ。
今もそう。これまで同様に実験の完遂、そして新たな実験の開始。これこそが道園獲耐にとっての日常なのだから。
◆
椚剛の動きが鈍くなったのは勿論偶然ではない。
美影の周囲に明らかな異変が生じる。
さっきまでの炎ではなく、チラチラ、と空気中で結晶化した水分が雪となっている。
それは紛れもなく氷雪能力。以前のような偶発的、または感覚的ではなく意図的に使った瞬間である。
「悪いケド一気に終わらせてもらうわよ」
美影は椚剛へそう告げると間合いを詰める。椚剛も相手の動きに気付き壁を展開、一気に突き出す。
美影はそれを容易く躱してみせる。
「く、あがっっっあ」
さらに壁を変化。避けた先へと壁を伸ばす。
「ふ、うっっ」
だがそれすらも美影は躱す。身体を後ろへ傾け、倒れ込むように。
「な、あたらない、アタラナイッッッッッ」
椚剛は怒りを露わにし、相手に対して壁を展開するもその悉くが躱される。
(ここまで上手くいくなんて……)
一方で美影自身もまたこの状況に驚きを隠せなかった。
この状況を狙った上で周囲を氷結させたのは事実だ。
(何でだろう、初めてやったのに)
そう、意識的にやったのは事実だ。
出来るだろうとも思ってもいた。でも、ぶっつけ本番でここまで思い描いた通りの状況に持ち込めた事に戸惑いを隠せない。
(分かる、ハッキリと)
不可視の壁が向かってくるのが分かる。そして美影が感じるのは、その壁が持つ失望、絶望、渇望などの様々な激情。そして熱量。
(不思議だ。自分でもビックリするくらいに頭が冴えているのが分かる)
美影は自分がどんどん冷静になっていくのを実感する。
「く、あ、あたれえええええええええ」
相手の咆哮と共に放たれる激情が分かる。観えるのではなく、感じ取れるのだ。
(来る、槍みたいに先端が鋭くなったモノがコッチに向けて。狙いは──)
それがどうやって何処に向けられているのかまで美影には察知出来る。
「【スイッチ──オン】」
勝負処だと見なした美影は意識を集中。
深く深く、沈み込ませる。
これもまた先日、あの、魔術師摩周という怪人との戦いにて知った、いや会得したモノ。
まさしく自分の中で何かを、カチリ、と切り替える感覚、というのが妥当な表現だろうか。
世界がゆっくりになっていく。
少しずつ、だけど間違いなく緩慢になっていく。
そう、────世界がコマ送りになっていく。
◆
《ふうん、来ちまったか。案外はやかったなぁ》
声が聞こえる。
聞き覚えのある声。忘れようもない声。
そう、初めてこの感覚を知った際に聞いた声。
「悪いケド今はアンタの相手なんか相手なんかしていられない」
《おいおい自分からこちらに潜ってるくせに冷たいじゃねぇか。
ま、仕方ないか。ここに来るってこたぁそういう事なんだろうからな》
「随分と物分かりがいいのね、意外」
《うはは、こっちゃここに来る奴とこうして話せるだけでもラッキーだからな。贅沢は言えないわな》
「悪かったわね無愛想で」
《お、何だ自覚あんのかよ。うはは、別にいいぜ。お前さん結構べっぴんさんだからなぁ》
「ハァ、そうですか」
《ま、もっとも今のお前さんならアレにゃ負けないだろ。
だけど言っとくぜ。◆■◇◯とは絶対に戦うな。今のお前じゃ勝ち目はないぞ》
「え、何?」
《いや、悪かったな。まだ知る必要はないか。それに多分、いや案外…………いやいいや。さっさと行ってこい。で、勝ってこいよ》
飄々とした誰かの声はそこで途切れる。
◆
時間に換算するとそれはほんの一瞬の事。
まばたきする程の僅かな逡巡。
美影は止まったかのような世界にて動き出す。




