始まりの日
ジリジリとした熱気が場を包み込む。
温度計測をしようにも、既に機器が耐久限界を越えてしまった以上、何も分からない。
それは例えるなら、まるで活火山の中にいるかのよう。
耐火耐熱スーツを着た男達ではあったが、あまりの熱気に今にも倒れそうだった。
しかも、信じられない事にこのスーツが焦げ始めている。
このスーツは”彼”と同質とされる炎熱系の異能に対応する為に男達が開発した特別製なのだが、彼の”焔”は開発者達の想像を絶していた。
これ迄の実験で、こんな事態に陥った事など一度もない。
確かに、この実験体の操る焔は、並の能力者よりも遥かに強力ではあった。
しかし、今、こうして目の前で起きている光景は、そんな比較自体が無意味。
この施設内でも、特にこの実験室は”彼”の為に増築された場所だ。
おおよそ、四〇〇〇度という超高熱にも耐えうる規格を誇り、これ迄は何事もなく機能していた。
にも関わらず。既に、彼と同じ部屋にいた研究員達は、身体が内部から燃え尽き、無残な姿を晒している。その上でスーツも燃え出している。
そして、壁を隔てたこのモニタールームの彼らにも、その時が迫りつつあった。
「──ば、バカな? 実験室とここの間にも耐熱処置は済んでいた。なのに……我々まで燃える……のか?」
壮年の男は、燃え出した自分の手を見て驚愕する。
この研究施設は、スポンサーであるWDの意向や多大な投資により、およそ考えられる限りの最先端のイレギュラー対策が立てられていた。
世界は密かに、だが確実に変化しつつあった。
まるでアニメやゲームの世界の様な超常の異能、すなわち”イレギュラー”を扱う新たなる人類とでも言うべき存在、マイノリティが世界中で続々と覚醒し始めていたのだ。
実は古来より存在していた少数派ではあったが、近年の急増は世界の有り様を大きく急速に変貌させつつあった。
世界中でイレギュラーを用いた犯罪が頻発する事態に陥ったのだ。
総じて常軌を逸した能力を持つ彼らマイノリティによる事件の急増は、結果として二つの組織の膨張と勃興を招く。
それこそがWDとWGである。
WDとはワールドディストラクションの略。
”世界の破壊者”という意味を持つ、分かりやすい呼び名で呼称される、一言で言えば”巨大犯罪組織”否、正確には犯罪者”集団”だ。
その正式な設立を知る者は殆どおらず、ただいつの頃からか、存在していたと言われる。
以前より世界で起こる様々な出来事の裏側で蠢いていたとも言われ、近年では某国での大統領選に於いて暗殺事件を実行。それに伴う内戦に際しても戦闘の激化に様々な形で関与したとされる……云わば社会の敵。
彼らの目指す理想は自分達”少数派”が自由に生きられる世界。
その為に必要とあらば、邪魔である全てを排除してもいいという考えの集団だ。
世界の変化を望み、様々な国々に影響力を増している。
一方のWGとはワールドガーディアンの略。
”世界の守護者”を名乗る組織であり、マイノリティによる事件を少しでも減らすべく活動する。元来は世界各地でひっそりと存在していた大小様々な”守護者”の集団が結束して誕生した組織である。
WDの様な自由を彼らは認めない。
自分達の持ってしまった力を制御し、人々を守る為にこそ行使するべきという考えを持つ。
彼らの目指す理想は、自分達の人類との共存。
急激な世界の変化よりも、今の世界を維持しながらゆっくりと一歩、一歩と共存可能な道を探るべく活動している。
この二つの組織は互いに不倶戴天の敵。
その為に世界中で彼らは激しく衝突を繰り返していた。
この研究所は、WDがあるスポンサーの協力によって設立した極秘研究所。表向きは、次世代の人類史に残る様な様々な研究開発を実施する場所となっており、ここでこれからの世界を担える”人材”の能力開発をする、というのがその表向きの目的だ。
だが、実際にはそれは虚実。
この研究所で行っているのは、次世代のWDの為の人材育成、及びに開発。
様々な非人道的な実験を行い、多くの子供達を犠牲にしている悪魔の研究所である。
こうした施設である以上、ここは多くのセキュリティを導入している。
スポンサーの敵対組織、特にWGから攻撃される事をも予め想定し、要塞の様な、鉄壁とも言えるセキュリティを誇り、いざとなれば数日間は外部からの侵入を完全に遮断出来る様になっている。
さらに、当然の事ではあるが、内部からの攻撃。破壊工作や、実験体の暴走にも対応出来る様なシステムが構築されており、これ迄も幾度となく複数の実験体の暴走を食い止めるという実績もある。
しかしその完璧だとされたシステムは今、目の前の実験体、それもたった一人の少年の前に破綻しようとしていた。
少年の全身は紅蓮の炎に包まれ、まるで一本の松明の様だった。
それはまるで、太陽そのものの様な鮮やかさを放ちつつ、ゆっくりと歩み出す。
一歩、また一歩、と先へとその歩を進める都度、床が溶解する。
彼が向かうのは部屋の出口ではない。
この一面真っ白の小箱は、完全なる密室だった。
理由は簡単で、実験体の暴走に対する、いざという時の為の備えである。
この小箱の出入りは、モニタールームからしか操作出来ない。
だから、彼らがその気でさえあれば、暴走や、指示に従わないマイノリティをここに閉じ込める事も可能であるし、空気を抜き、窒息させる事も、餓死させる事も可能である。
だからこそ、絶対の安心を研究員達に保証してきた筈であった。
だが────。
その安全は脆くも崩れ去った。
今、現実として、安全だったはずの小箱に実験体はいる。
出る事は不可能だ……そう考えていたのに。
彼はあろうことか壁を突破していた。
何かをした、そういう感じではない。
極々自然に、ただこちらへ真っ直ぐに歩み寄っただけ。
彼の全身を覆う炎の色は、鮮やかなオレンジから、赤に、黄緑と不安定に変化していく。
彼が近付いただけで、みるみる内にまるで熱したバターのように”壁”は溶けたのだ。
そうして今。
その実験体は目の前に佇んでいた。
その二つの双眸からは、何の感情も読み取れない。
だが、微かに口元は釣り上がっている様にも見える。
ゆらり、ゆらり、と全身を揺らしながら誰かを、何かを探している様にも見える。
恐らくは、彼と共にこの実験に参加したもう一人の実験体を探してるのだろうか?
それとも、彼を徹底的に心身共に虐げ続けたあの、教官か?
だが、そうであるのなら、それは無理だ。
二人はもういない。
教官は彼が暴走し、その片目を抉り、全身を焼いた。
そうして、重傷を負わせたのだ。
それを見た当初はモニタールームの全研究員が、驚愕と同時に喜んだ。これ迄で最高のデータを取れた、と。嬉々としたのだ。
そして、もう一人の実験体。
その存在を対とする彼は、既に死んだ。
実行したのは、誰でもない、目の前にいる少年だ。
今日、ここで行われたのは、WDとは別のスポンサーが管理するある極秘実験の最終テスト。
二人の実験体同士を実戦でぶつけ、その戦闘データを記録。その上で、教官が生き残った片方も始末。
残った肉体をサンプルにする、そう聞いていた。
つまり、最初からこの実験の被験者は、今日この場で死ぬ事が決まっていたのだ。一般常識から考えるならば、非道極まりない実験だと言えた。
だが研究員達は、もうこうした実験が日常化し、特に心が揺らぐ事も無かった。
あの少年にしても、もう一人にしろ、今日の最終テスト迄に、実戦研修として、別の実験体や、暴走の危険性の高いマイノリティを無数に殺してきたのだ。燃やし尽くし、凍てつかせ、命を奪い、喰らってこうして生きてきたのだ。
だからこそ、少年がここまで暴走するとは、想定外だった。
(我々は、甘く見ていた)
壮年の研究員は初めて、マイノリティと呼ばれる怪物を見た時の事を思い出した。その異常なイレギュラーを目の当たりにした際に感じたのは、好奇心ではなく”恐怖”だった事を。
彼らの事を、人の姿をした別の生き物だと考えて、今日まで生きてきた。そう思わなければ、とてもじゃないが正気を保っていられなかったから。
だが、目の前の少年を含め、被験者全員もまた紛れもなく人間であったのだ。
いくら、感情について教える事を敢えてしなかったとしても。
彼は今日、人生で初めて感情の発露を爆発を知った事だろう。
(その結果がこれか……愚かな話だ)
もう、言葉も無い。
炎を纏った少年はすぐ目の前に迫る。
男の全身がスーツも、身体の内部も燃えていく。
燃えて、黒ずんでいく。
不思議な事に痛みは感じない。
ただ、感覚が麻痺していくのが実感出来る。
そうして、男は自身の身体が消えていくのを眺めながら存在をこの世から消し去っていく。
少年は、ただ歩く。
ただ本能のままに。
彼を支配するのは、純然たる”殺意”。
ただ、目に映る全てを燃やしてやりたい。
動く者全てをこの世から消し去ってやりたい。
何故、そう思うのか?
そんな事は知らない。
それが出来るから──出来るから実行してみせたに過ぎない。
心の奥底で彼は気分が良かった。
嬉しかった。全てを燃やし尽くせるこの力の感覚。
全部を消し炭に出来るこの炎を、もっと行使してみたい。
(燃えろ、全てを、焼き尽くせ────!!!!)
その思いに応じるかの様に彼の全身から、炎が解き放たれた。
その色は、緑から青に。青から紺色に。次々と色を、その本質を変えていき……やがて黒へと変化した。
その黒き奔流は、白く巨大なその箱を包み込み――全てを消し去った。文字通りにたった一人その場に立ち尽くしながら。
そうして、少年はその日、世界へと投げ出された。
彼に名は未だ無い。
ただ、実験での呼び名があるだけ。
”02”
人間ではなく、かと言って実験動物ですらなく、ただ最厄として恐れられていた。