囚われの美影
「ん、ううう」
そう呻いて美影は目を覚ます。
まず感じたのは酷い倦怠感。全身に無数の重りでも取り付けたのではないのか? と思う程に酷い感覚だった。
「う、くっ」
次いで自覚したのは吐き気と視野のぼやけ。ぼやけは彼女が眼鏡をしていないからではない。何故ならいつも着けてる眼鏡は伊達であるから。
本人としては真面目そうな印象を与える為のツールとして用いているつもりである。
もっとも、実際には、少なくともクラスメイトにはしょっちゅう隣の席にいる武藤零二との最早恒例化したケンカを目の当たりにしているので完全にその目論見は頓挫しているのだが。あくまでも美影本人は上手くやっているつもりであり、周囲からは言わぬが花と思われているとは露ほどにも思っていない。
「ふうう」
美影は呼吸を整え、周囲の状況の把握に務める事にする。ジメジメとした薄暗い室内にあるのは、自身が寝ていた簡素なベッドにトイレ。あとは机と椅子のみ。まるで刑務所か何かのような部屋である。
コンコン、と壁を叩いてみるがかなりしっかりとした、堅牢そうな造りである。
「……イヤな感じね」
ゆっくりと立ち上がりながら、ジトジトした湿気を感じる。そもそも今着ているものが紐で結ばれた布で前と後ろだけを隠しただけというような服と言うには心許ない代物である。
「ジメジメ気持ち悪い」
そもそも熱操作能力者である美影が、じっとりと汗をかいている事自体が異常である。
零二程ではないにせよ彼女もまた外気温には強い。
その為に、日常生活に於いて汗だくになる事などこの数年では皆無であった。
(何があったっけ?)
思い出せる最後の記憶と言えば、自分が捕らえられた光景である。実行者は誰あろう味方であるはずのWG九頭龍支部の面々によって、である。
(あれからどうなったんだろう?)
心配なのはあの際、守る対象であった自身の親友。
西島晶、である。
彼女のイレギュラーは″世界″に干渉する事すら可能であり、それを狙ってWDやそしてWG九頭龍支部までもが襲いかかってきたのだ。
(酷い目に合っていませんように)
ただ祈るしか出来ない自分の無力さが歯痒い。
だがイレギュラーを使おうにも、全く発動しない。
(何らかの薬、でしょうね。じゃなきゃ)
自身の閉じこめられている場所を改めて確認する。
壁は確かに分厚く、窓には格子がかかっている。だが特段特殊なものではない。あくまでも一般的なモノ。イレギュラーを使えれば何とでもなるそんな程度の素材でしかない。
「はぁ、今は何も出来ない。悔しいけど」
そう呟いてお世辞にも寝心地いいとはいえないベッドに身を投げ出す。
ギシ、とした不快な音だけがこの部屋で軋みを上げた。
「…………」
思わず無言になる。
その脳裏に浮かぶのはかつて自らの身に生じた数々の非人道的な実験の日々。
様々な研究施設をたらい回しにされ、それぞれの場所で彼女は幾度も幾度もその命の危機に瀕した。
切り刻まれ、薬物を投与され、そして命を奪わされ、奪われそうになった。
(あの人はどうなっただろう?)
脳裏に浮かぶのは一人の少年の姿。
あの白い、全てが真っ白に彩られた研究施設に於いて対峙した一人の、圧倒的な焔を纏った少年。
その研究施設では投薬と共に幾度となく戦闘実験を行わされた。
実験、とは呼ばれてはいたがそれは間違いなく″殺し合い″だった。
二人のマイノリティがその全てを用いて戦う。
敗北は即ち死に直結。実際、美影自身もまた幾人かの、恐らくは自分と似たような境遇であろう、同年代の少年少女達と対峙。それらを美影は燃やした。ただただ生き残る為に。何かが崩れていくような感覚を覚えながら。生きる為に何かを失っていく日々。
無数の研究施設を転々とした彼女にとっても、そこは格別な場所。日々がまるで地獄のように思えた中で、彼女は″死″に直面した。
その日はいつもより研究者達が妙に優しかったように思えた。
だがそれは多分違うのだろう。
彼らからすればその日、美影、つまりは実験体ナンバー″13″と名称された少女が今日死ぬのを知っていたからであろう。
そしてその日。
実験と称した殺し合いで対峙した相手は自分と同じ焔使い。
ただその焔の色は青い、青い焔を纏った相手。
瞬間で理解した。
相手は自分とはモノが違う相手なのだと。
まともに戦っては万が一にも勝機など見出す事は叶わないであろう事を。
そしてその予感は現実として突き付けられた。
「く、は、はぁはぁはぁ……」
それは文字通りあっという間の出来事。
実際にかかった時間はほんの数秒足らずであっただろううか。
力無く地に伏せ、息も絶え絶えになりながら″13″と呼称された少女は相手を見上げていた。
全ての力を使い果たし、もう身体一つ、指先一つ動かず余力もない彼女とは対照的に焔遣いはまるで息一つ切らす事なく相手を見下ろしている。
(ダメだ、…………もう助からない)
避けられない死を現実として突きつけられ、美影はそれを受け入れる他ない。目を閉じ、その時を待とうとしたその時である。
《もっと強くなれるさ、君なら。だから今日はもうやめておこう》
その言葉は全くの予想外の人物から発せられたモノ。
青い焔を纏った少年の口から発せられた言葉であった。正直一瞬、たちの悪い冗談か聞き違えかとすら思ったのだが、焔使いの少年はそのまま場を立ち去っていく。
本来であれば実験の終了はどちらかの死を以て、が前提であったが、結果として13はその命脈を繋いだ。
その後、13は白い研究施設から出た。
各地を転々として、更なる実験の日々を送りながらも、彼女は決して諦めなかった。
その心中にあったのはただ一つだけ。
あの時に、彼女の命を助けたであろうあの少年に礼を言う事。
少し前にあの研究施設は二年前に灰塵と化したと聞いた。詳しい話は機密事項らしく分からない。
だが″13″と呼ばれた少女は確信を抱いていた。
あの少年はきっと生きているに違いないと。
あれだけの強さを持ったマイノリティが、そう容易く死ぬはずがない、とそう今も尚思っている。
◆
「……何を思い出してるのかしら、今更」
我に返った美影は深呼吸を入れる。
確かに今のこの状況は、かつての自分を想起させるモノでこそあれど怒羅美影はWGのエージェント。
(どんな状況になったって冷静に、焦りは禁物よ)
そう思って、平静であろう、と心がけようとした時である。
──おやおやぁ、お目覚めのようだねぇ。
キィンとした耳障りな声音が狭い室内に響く。
不愉快に甲高く、まとわりつくような音。
「え────」
美影の中で何かがざわめくような感覚があった。
「この声、は…………?」
美影にはこの声に聞き覚えがあった。
記憶の片隅にある数々の人の姿を思い返していく。
それらが片隅にある理由は簡単で、そうした連中が美影、つまり当時は″13″と呼ばれていた少女に何をしたのかを思い返すのが不快であったからに他ならない。
(だけど今はそんなの関係無い。思い出せ、この声は一体誰のモノなのかを)
脳裏に浮かぶ数々の、様々な研究施設にいた研究者達の姿。
非人道的、残虐かつ凄惨極まりない実験。
数多くの血を流し、命を奪い、だが彼らは平然とした表情で、その行為を実行していた。
本当に気分が悪い。
(アイツらを絶対に許さない、アタシがこの手で)
幾度となく繰り返される実験の最中、命の危機に瀕するその都度、″13″と呼ばれる少女はそう思う事で、踏ん張り続けた。
だがそんな連中がまるで単なる有象無象にしか見えないような相手がいた事を美影は思い出す。
その老人は、まるで枯れ木のような男だった。
子供だった自分でも本気で叩けばポキンと簡単に折れてしまうのではないのか、と思えるような弱々しい印象を与えたに違いない。
だがその印象はすぐに打ち払われる事になる。
──さぁさぁ、見せてもらいましょうかねぇ。君たちのその未来の可能性をねぇ。
嬉々とした声をあげながら、老人は笑いながら、子供達を死地へと追いやる。
傷を負えば即座に治療を施す。そしてすぐさま実験を継続。一見すると人道的に思える行為。
だがその行為の裏にあるのは、限界まで実験を断行させる為でしかない。
どんな瀕死の状態であっても諦めずに治療を試みる、そう言えば聞こえはいいが、その実はマイノリティの解剖である。助かればそのまま実験再開。助からないのであれば解剖し、どのような身体をしているのかを把握したいが為である。研究だの科学の発展だのという名目であらゆる非道を正当化するあの枯れ木のような男。
あの老人の下で、一体どれだけ多くの自分と同じ境遇の子供達が死んでいった事であろう。
(アイツの名前は────)
その事に思いを馳せた時であった。
ガチャン、という恐らくは檻を開く音が聞こえる。
次いでプープー、とした子供用の靴か何かの音。
老境に達した者とはおよそ思えぬ他者を小馬鹿にするようなその音をこれ見よがしに鳴らしながら近付くその人物。
(この音は────)
もう疑いの余地はなかった。
今からこちらに来るであろうその人物は間違いなく、あの枯れ木のような老人、そうその名前は。
「やぁ久しいねぇ、被験者No.13。いやぁ、今は確か【怒羅美影】クンだったかねぇ」
「道園獲耐」
それこそがその研究者の名前であった。




