渦の中へ
月夜の中。京都の街並みを零二は一人静かに眺めていた。賑やかさに入り混じって、静謐さも感じる街の光景を零二は気に入っていた。
「────」
正直、九頭龍の方が眩いとは思う。
だがそれは何処か歪な眩さだとも思える。
京都の煌めきには何処か心が落ち着く物を感じる。
その一方で、九頭龍ではこんな感覚は覚えないだろうとも思う。
僅か二〇やら三〇年だかの年月で急成長したその街は、その異常な発展の代償として大事な何かを失っているのではないのか? この街を見ていると、ついそんな事を考えてしまう。
「ったくさ、ガラじゃねェよな。あらよっ、」
自嘲しながら、零二は何を思ったのか手摺りを掴むや否や、ビルから飛び降りる。
周囲のビルより頭一つも二つも低いとは言え、他人が見たらその行為は自殺にしか見えない事だろう。
マイノリティである上に、そのイレギュラーの性質上鍛えられたその身体能力及びに筋力から怪我などしないにせよ、以前なら着地の際にドスン、という派手な音と共に地面に大きく亀裂を走らせたに違いない。
今の零二にとってこの程度の着地は何の問題もない。
実際零二は驚く程に滑らかに地面に着地。
その理由は着地の寸前で自身から焔を一瞬だけ噴射したから。逆噴射により勢いを殺したからである。
「さて、────ボチボチ行くかな」
軽いおどけたような口調で、ツンツン頭の少年は世話になった探偵事務所から立ち去っていく。
「じゃあな、楽しかったぜ」
そんな独り言を漏らしながら、歩き出す。
「────」
途中、彼は何の気なしに街をぶらついてみる事にした。時間はまだ少しある。
向かうべき場所は分かってる。焦る必要はない。
京都駅周辺下京区。
七条通りを歩くとその先には二つのお寺、西本願寺に東本願寺が左右にある。
「ン、」
零二は何となく興味を惹いたのでこっそりと忍び込む事にした。
夜中、という事もあり流石に周囲は静まり返っている。
ただし街中にあるだけはあって、耳を澄ませば流石に静謐、とまではいかないものの、それでも気分を落ち着けるには充分。
「まぁオレのガラじゃないよな」
軽く笑いながら、少年はただ何の気なしに歩き続ける。
◆
それは四時間前の事。
零二のスマホにメールが届いた。
差出人は加藤秀二、つまりは零二の後見人にして師匠であり、武藤の家の執事から。
その内容は、
″若、そろそろ九頭龍へ戻ってはいかがでしょうか?
もう、九条殿からは処分も解除されたと聞き及んでいます。″
というもの。
そう、そもそも零二が京都に来たのは先日の一件、つまりは藤原新敷との戦い等の後始末が原因だったらしい。
藤原新敷、がではなく藤原一族が零二の存在を疎ましく思ったらしく、そこでWDに圧力をかけ、九条羽鳥が手打ちとして一定期間の九頭龍から放逐する、という形で折り合いを付けたのだと、先日秀じいから知らされた。
だが今回の一件、つまりは藤原右京と三条左京の暴走により京都に於ける藤原一族の力は減退。
そもそも九頭龍を基盤にした今の藤原一族にとってはもう大した存在ではなかったのだが、結果として京都、という古都は藤原一族から離れてしまった。
そしてその力の空白を埋めたのは、防人の元締めである妙。彼女は僅か二日足らずでこれまでの方針を一転、WGへの参加を表明した。
寝耳に水の展開に多くの防人や、余所者を嫌う退魔師達の何割かが反対をしたらしいが、
──今回の一件で、これまでのやり方ではもう守り切れない、それが分かったのと違いますか?
そもそもウチらがもっとはようこうしてれば、京都だけじゃなく全国の人達にも微力ながらも助けられた人がいたん違いますか?
確かに一〇〇〇年以上の歴史は誇ってもいいと思います。けど、その古いしきたりに縛られ、ウチらは置いてけぼりを食らってる事も知ってるはず。それに対する考えが他にあるんなら今すぐ言いなはれ。ちゃんとウチが聞きますえ?
その言葉を前に誰も言い返せなかったらしく、そのまま押し切られたらしい。
実際、活動に限界を感じていた異能者も多く、結果として京都にWGの支部が作られる運びになったらしい。
もっとも反発する者もやはり多く、彼らはWDに協力するつもりらしい、のだが。
だが結果として、零二にとってこの地は中立地帯ではなくなりつつある。
深紅の零こと武藤零二がWDに所属するエージェントである以上、WGがこの京都に立ち上がるのであれば間違いなく要注意対象となる。
つまりは中立地帯、という名目でここにいる彼はこの地を去らねばならないのだ。
「ま、だからって恨むつもりはねェケドさ」
零二にとって妙もまた恩人であるのは間違いない。
今後の関係は流石に友好的とはいかないまでも、敵対するつもりもない。
「だからさ、丁度いいキッカケだったのさ」
京都駅の駅ビルの、長階段の中間で零二は一人呟く。
ふと見上げると空に月が浮かんでいる。
いつの間にか雲一つない月夜。
「ま、何だなお月さンってのはキレイだよな」
その言葉は独り言ではない。階段の最上段にいる人影に向けての言葉である。
「そうだね、武藤零二」
同じく月を見上げながら、ピンク色の髪をした士華は言葉を返した。
その格好はと言えば、黒のタンクトップにホットパンツとサンダル履き。夏とはいえ珍しく涼しい風が吹く今夜、外を出歩くには少しばかり寒さを覚える格好に思える。
「で、何か用かシカ?」「そりゃ随分な挨拶だね」
階段の上下から二人はゆっくりと互いに近付く。
一段一段、とゆっくりと。
「帰るんだ?」「ああ、用事が出来ちまったンでね」
上にいる士華は零二をじっと見据えている。
零二は、少しばかりバツが悪そうな表情を浮かべ、目を逸らす。
「どうしてちゃんと言わずに出たんだよ?」
その言葉尻から、彼女にしては珍しく相手を咎めるような響きが聞き取れる。
「そう、……だよな悪かったよ」
零二は言い返す事なく、苦笑する。
そして互いの距離は階段一つ分となる。
「結構、君の事気に入ってたんだよ」
「ああ、オレもだ」
「そのさ、…………僕も一緒に行こうか?」
「ダメだ」
有無を言わさずの即答。
何故なら今から零二が九頭龍へ戻るのは、戦う為だから。
京都での出来事は巻き込まれた形であったが、今から関わろうとする戦いはそうではない。
それは零二自身の意思で決めた事。
云わば私戦であって、そこに士華を巻き込みたくはなかったのだ。
士華もまた、それ以上言葉を返しては来ない。薄々は分かっていたが、彼女は今確信した。
(武藤零二は僕と一緒にはいてくれない)
士華は零二に対して、他者とは異なる感情を抱きつつあった。
それは親愛の情。零二との僅かな期間だけの生活ではあったが、何だか放っておけない、弟がいるならこんな感じなのだろうと思い始めていた。
それは零二もまた同様だった。
もしも自分に姉がいるなら、目の前の少女みたいな相手がいい、と思っていた。
(だけど、だからこそだ)
だからこそ、零二は士華を巻き込みたくはなかった。
家族みたいな彼女を危険な場所に連れ出すのは憚れる。それに、真名に既に釘を刺されてもいた。
──零二君、士華さんは君を本当に気に入っているみたいです。彼女はああ見えて誰にも本心は見せないんです。君にもあるでしょうが、色々な事があったのでね。
彼女にはやがて果たすべき目的があります。それまでまだしばしの猶予が必要なのです。
だから、彼女はまだ少し京都にいなければならない。
だから、お願いします。士華さんを思うのなら、彼女がもしも一緒に行こうとするなら断って下さい。
理由を聞く事も出来たが、それを零二はしなかった。
聞くまでもない、と思えた。
真名の目には強い覚悟と決心が窺えたから。
ヴウウウウウウ。
それはスマホの振動。零二を迎えに来たであろう、後見人が来た事を知らせる合図。
「じゃな、シカ。オレそろそろいくわ」
「うん、そだね。じゃあ武藤零二、また」
士華はそれだけ言うと、タタッと階段を飛び降りる。
優に数十メートル以上はある高さを彼女は持ち前の身体の軽さとしなやかさで難なく着地すると、そのまま走り去っていく。
「じゃあな、シカ……いいや、──士華姉ちゃん」
零二は誰に言うでもなくそう言うと待ち合わせ場所へと走り出す。
ガチャ。
車のドアが開き、零二はそこへ乗り込む。
「お待ちしていましたぞ、若」
運転席には秀じいの姿。
いつもであれば車の運転は皐月のはずなのに。
「悪い状況ってコトか?」
「ええ、かなり」
それだけ言葉を交わすと車は走り出す。
「しかし若、何かあったのですかな?」
「ン?」
「ついぞ先程まで、九頭龍へ戻るのを渋っていたではありませんか?」
「そ、か。そうだったっけか? いや何でもねェよ」
◆
今からほんの、二時間前。
ぼんやりと外を眺めていた零二のスマホに一本の電話が入る。
それは、登録してから一度もかかって来なかった番号。何の気なしに零二は通話ボタンを押す。
──別に特に用事なんかないけど。まぁ、退屈だろうから電話してみただけ。
それは″相棒″からの電話だった。
桜音次歌音、いつも素っ気なく態度はデカく、おまけにすぐキレる、という非の打ち所もない相棒。
これまでも散々声は聞いた事があるが、それは彼女自身が零二を監視しながらの声。
こうして電話口から聞くのは初めての事で、どうにも新鮮である。
「ン、どした? 何か用かよ?」
──別に何もないってば、で、そっちはどうなの?
「ン、ああこっちはこっちで結構色ンなコトがあったぜ。どうも情報規制がかかってるみたいだけどな。
今回の一件でWGのそういう手際がスゴいってのはよっく分かったぜ」
──そか、ならいい。
零二は相棒の言葉の節々に違和感を覚える。
いつものような毒舌が飛んで来ない事に妙な予感を感じる。
「なぁ、…………何かあンのか?」
何故かは分からない、だが何かがあった、そう思ってしまう。
──別に何もないってば。じゃあ、切るよ。とりあえず当分帰ってくるなよ。
そこで通話は終わった。
その会話に零二は確信した。何かが起きているのだ、と。相棒は誤魔化そうとしたが、伊達に一年間あの毒舌混じりの罵詈雑言を受け続けたからか、分かる。
不安、そして心配。
そういう印象を受けた。
だから、零二は後見人に連絡を取ったのだ。
「ったく、オレのコトをアイツも分かってねェよな。
帰ってくるなって言われたら、帰っちまうってのによ」
そして、零二は戻る。
九頭龍へ、全てが一変しつつある混沌の街へと。




