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狂った世界――The crazy world  作者: 足利義光
間奏──インタールード
281/613

激流

 

「…………」


 夜中のオフィスには人気はなく、カンカンカンカン、という規則正しい靴音だけが場を支配していた。


(まさに無人の野を行くが如し、か)


 そんな事を思いながら、西島迅はフロアを歩く。

 ここは九頭龍、超高層ビルが無数にそそり立つ通称″塔の区域″その中でも一際大きいWD九頭龍支部である。表向きは民間警備会社で、近年九頭龍を中心に設立され、今や周辺地域で最大のシェアを誇るまでになっている。


 大多数の一般社員は普通の警備員であるが、一部の社員がマイノリティであり、様々な活動を支部長の九条の命令で行っている。これは個々人の活動の自由を標榜するWDとしては異例であり、異質である。


 そうした経緯から戦闘を予期して、覚悟はしていたのだが、今フロアには文字通りに誰の″出迎え″もない。


 そうして何の抵抗にも会わないまま、エレベーターに乗り込み、最上階へと到達する。


 普通ならばここに入るのにも、生体認証がなければならないのだが、迅は外部コンサルタント、という肩書きで認証登録されているので問題ない。


 カツカツカツカツ、相変わらず靴音だけがフロア内に木霊する。



「お入りなさい」


 社長室、つまりは支部長室の前に着いた途端そう声をかけられた。


(やはり筒抜け、か)


 だからといって、今更退く訳にはいかない。

 迅はノブに手を伸ばし、ドアを開く。



「ようこそいらっしゃいました」

 口上こそ歓迎するかのようであったが、声音は実に淡々としたもの。

 その面ばせからは、動揺している様子は全く見受けられない。


「いつから気付いていました?」


 西島迅は、全てが相手の想定内であった事を再認識。彼女さえその気であったのならば、自分はここに来る前に力尽きていたに違いない。


 そもそもここに至るまでに、オフィスが完全に無人だった時点で、お見通しだったのは間違いなかったのだ。

 地域の治安を守るのが業務の民間警備会社、に休日はない。むしろ夜間こそ警備にとってもっとも重要な時間帯。人がいないはずがないのだ。


「私も全能ではありません。大まかな予測は出来ますが、全てに対処は不可能です。目下の脅威は貴方ではなく、椚剛ことアブドリュートプロテクションです」

「つまり私に対する脅威を貴女は認識していない、そういう事ですか?」

「ええ、貴方に私を害する意図がない事は明白です。

 その為、目下の脅威度から椚剛への対処に人員を割いています」

「随分と見くびられたものですよ。ピースメイカー。

 そもそも椚剛を止められる人材などそうはいないはずです。足止めにしても、些か杜撰ではないのですか?」

「いえ、妥当な選択です」


 実際、迅には九条に勝ち目がない事が確信出来る。

 様々な状況が今、この場に於いての自分の優位を確信させる。


(そうだこの状況にする為に、打てる手は全て打った)


 なりふりなど構わない。

 悪名高いWDエージェントである笠場庵に協力を要請した。

 WGの前支部長である小宮和生にも協力を取り付けもした。

 そして挙げ句に、椚剛を解放させ、外に解き放った。

 あれがどれだけの被害を引き起こすのか、それを予測出来ない迅ではない。



「西島迅、いえ【夢現ゆめうつつ】。私は貴方の目指す世界には特段何も思う所はありません」

「な、に?」


 九条羽鳥の言葉に迅は一瞬、我を忘れそうになる。

 目の前の淑女は確かにこう言った″目指す世界″と。

 一体何処から知ったというのか? 今、何をする為に動いているのかを、彼女は看破している、そう理解せざるを得ない。


「私には貴方の気持ちが少しは分かります。妹さん、西島晶の件は残念な事になりましたね」

「──貴女に何が分かるというのだ? 

 この一〇年間隠し続けたモノが溢れ出した。もう隠し切れはしない、だからこんな策を弄して、ああ僕は外道と呼ばれたって構わない」

「理解しますよ。ですが私の目指す世界は違います。

 ですからこうしましょう、互いに不干渉という事でよろしいではありませんか?」

 九条羽鳥は、あくまでも表情を一切変えないままに提案した。


「な、に?」

 迅は今度こそ完全に絶句する。今、この状況に至り、何を言うのか? 正直言って正気の沙汰とは思えない。


「どうしました? ──返答を願えますか?」

 だが淑女の視線は真っ直ぐに迅を見据えている。まるで突き刺さるような鋭利な視線を向けてくる様はまさしく勝者の余裕とすら見える。


「く、」

 身体が知らず知らずに後ずさる。

 絶対的に不利な状況が嘘のようだ、と思える。


 ビルがガタガタと揺れるのは、戦闘が始まった証左である。間違いなく椚剛の仕業であろう。

 耳を澄ませば、銃撃も聞こえる。

「────」

 支部内にどれだけの戦力があるのかは正直未知数である。だが、あの絶対防御を打破出来るようなイレギュラーを持ったマイノリティはそうはいないはず。

(そうだ、シャドウさえ打破すればそれで片はつく)


「構いません、援護に向かうのでしたらこちらとしては止めませんので」

 九条の言葉はまるっきり迅の心中そのもの。完全に読まれている。


「九条羽鳥、貴女は一体どういうつもりなんだ?」

「どうとは?」

「貴女にとってこの状況は想定内だというのか?」

「いいえ、ここまで様々な条件が付くのは想定外です。見事なまでの根回し感服しました」

「なら何故焦燥した様子が見受けられない? 椚剛は間違いなく貴女を殺すつもりだ。仮にそれが失敗したのだとしても──」

「【シークレットパーソン】が九頭龍に潜入しているはず。尚も、……いえ、それ以上に苦境にたたされるだろう、でしょうか?」

「そこまで把握しておきながら、何故だ? 何故貴女のその面ばせには未だ一向に変化がない? その言葉の端々に変調がない? ……貴女は本当に人間なのか?」


 普段、冷静沈着にして物事に動じない男、それが西島迅という防人に対する周囲の見解。

 だがそれは正しくない。彼のイレギュラー、夢現は相手の精神誘導能力。

 その発動と操作には担い手である迅の強い集中力が必須である。

 自分とは違う他者の精神を誘導する、というのは針の穴を通すような作業であり、集中力の欠如はそのまま誘導失敗に直結する。


 故に西島迅は、日常に於いて常に心を穏やかに保つ事を意識した。あらゆる状況下で、どのような窮地であっても誰であれ精神誘導を可能とする為に、そうあらんとした。


 いつからか周囲の誰もが彼の本質を見誤っていた。


 常に冷静沈着で、穏やかで涼しげな笑顔を浮かべた青年。それが西島迅なのだと誰もが思っていた。


 しかしそれは違う。

 西島迅は決して冷静沈着ではない。あくまでも、あくまでもそうあらん、と自分を律していたに過ぎない。


 本来の彼は、怒りもすれば、笑い転げ、泣きもする何処にでもいるような、そんな普通の男でしかない。

 自分のイレギュラーをいつでも、どのような状況下であっても正確に精微に手繰る為の、誰にも知られぬ努力の賜物でしかない。

 その事を知っていたのは今までたったの一人。

 今やWG日本支部の支部長である菅原だけ。


 それとて菅原のイレギュラーである″サトリ″が相手の心を読む能力であったから。


 それ以外の同系統のマイノリティがいても、決して心を読まれたりはしなかったし、させなかった。


 だと言うのに。

 九条羽鳥の前で彼は完全に無防備にされていた。

 決して直接的な命のやり取りをこの場で繰り広げているのではないのに。ここで今起きているのは駆け引きではあるが、命を懸けているのは迅ではなく、九条羽鳥の方こそ命の危機に瀕しているはず。


「ならば何故だ! 想定していたのならば何故私が蠢動するのを黙認していた! 貴方程の者であればいくらでも手の打ちようはあったのではないのか?」


 そこには冷静さなど微塵もない、怒声。そこに含まれるのは相手に見下された、という侮蔑に対する怒り。


「貴女にとって全てがチェスや将棋の駒だというのか? ならばこう言ってやるさ。私を、いや人間を馬鹿にするなよ九条羽鳥!!」


 ありのままの感情を何も取り繕う事もなく吐き出す。

 彼は既に覚悟を決めていた。

 最早、無事では済むまい。命を賭して戦わねば生き残れない。九条羽鳥のイレギュラーは全くの未知数。勝ち目は薄いであろう。


 だが九条羽鳥の面ばせには変化が生じていた。

 あの能面の如き、表情には微かながら笑みが浮かんでいる。


「私は人間ですよ。ただ、少しばかり他の人とは違う部分を持っただけの存在──それだけのモノです」


 その口振りからは、微かに、物悲しさをすら感じさせる。いつものような超然とした印象とは違う声音。


「いいでしょう、──少しだけ見せてあげましょう」

「──な、」

 と、目前に彼女はいた。

 いつ動いたのかなど皆目見当もつかない。自然に、極々自然にそこにいる。そして何事もないかのように彼女はその手を自身の身体へ向けると、何の躊躇もなく──その首を刎ねた。

 ゴトリ。

 まるで冗談のような赤い飛沫が飛び散り、その頭部は床に転がり…………。

 異変は起きた。



「────あ」


 西島迅は、ただその様相を黙して見ている。


 椚剛が上に上にと向かって来るのが、分かる。

 銃撃や爆発が近付いている。

 このままでは遭遇する可能性すら生じる。

 そうなれば計画はまた修正だ。

 なのに、動けなかった。


 九条羽鳥は己の首を刎ねたはずなのに。

 そこには血の海どころか一滴も垂れていない。


 それどころか、

 彼女は何事もなくそこに在った。


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