激変
その夜。
九頭龍に於いて異変は静かに始まろうとしていた。
「こちら【暗躍者】。各員準備は整ったか?」
インカム越しに指示をするのは笠場庵。
かつてはWGのエージェントであり、今はWDの戦闘部隊のリーダーを務める男。
年齢はまだ二〇代であり、本来であればその中性的な顔立ちからさぞや女性を惹き付けたに違いない優男なのだが、顔には無数の刀傷のようなモノが深く刻み込まれ、何よりも凍り付いたようなその目によって、彼の美丈夫は完全に損なわれている。
彼自身は未だ九頭龍にはいない。
何故なら九頭龍には厄介極まる相手がいる。
″平和の使者″こと九条羽鳥。
WD九頭龍支部のトップにして、WD、という組織紛いの存在に於ける実力者である″上部階層″の一人と目される淑女。
イレギュラーは不明。
だが一説には戦闘能力は著しく低い、と言われている。だが彼女の恐るべき点はそこではない。
WGとですら平然と休戦出来るその政治的手腕こそが彼女を平和の使者、と言わしめている理由であり、彼女を忌み嫌う多くの者達がそれでも手を出せない要因である。
だがそのバランスは数時間に崩れた。
九頭龍に於けるギルドの顔役であったシュナイダーの死。これが微妙なバランスによって保たれていた九頭龍のパワーバランスを崩した。
──問題ないですよぉ。もうすぐ【連中】が施設に突入するはずですよぉ。そうすれば【絶対防御】が解き放たれるから何とでもしますよぉ。
返信を返してきたのはこの作戦に於ける実質的な責任者であるリチャード・銛童。コードネームは″偽者″
金髪に青い目をしたイギリス人で、その背丈は一八五センチ、体重は九〇キロ。
笠場庵率いる部隊に於いて潜入任務を受け持つ工作員である。
絶対防御とは、そのコードネームを持つWDに所属するマイノリティであり、かつて九条羽鳥の抱えていた対策チームのメンバー。今はとある隔離施設にて薬物投与による長期拘束中である。
リチャードもまたこのチームの一員でもあり、絶対防御こと椚剛とは友人であった。
今回の一件を始めるに当たって、まず事態を急展開させるのに必要な椚剛という存在を誘導するには最適な人選である。
そもそもリチャード自体、笠場庵の率いる部隊の一員であったが、その実は九条を快く思わない他の上部階層の指示による派遣なのである。
その為に彼は椚剛達チームのメンバーの中で唯一何の危険にも遭遇してはいない。
政治的なバランスに配慮され、粛正から無傷で生き延びた男。それがリチャード・銛童という男である。
改めて結末を言えば、対策チームの大半は九条の決定で解散、という名目にて粛正の憂き目にあった。
理由は単純で、任務達成を積み上げる事にメンバーが増長していったからである。
九条羽鳥にとって、いやWD九頭龍支部にとって対策チームは切れるナイフでなくてはならない。
だが、その切れ味を保つには存在は出来うる限り、秘匿しておくのがいい。
存在を知られれば対策を打たれる可能性が高まる。そうなれば任務達成のリスクは高まり、余計な犠牲も出かねない。それが彼女の考えである。
だが椚剛を始めとしたチームメンバーはそれをよし、とはしなかった。
自分達は強い、正体が知られたからといって何か問題があるのか? それが彼らの理屈主張。
そしてそれは九条羽鳥の求めるチームの有り様ではなかった。
「それでリチャード。その男は扱えるのか?」
──そこは問題ないさぁ隊長。ぼかぁあいつがそういうヤツだって知ってたからこそ、仲良くしてたんだよぉ。
「ヤツを増長させ、功名心をくすぐりチームと九条羽鳥の間に溝を作った、……そういう訳か?」
──だって隊長が言ってたじゃないですかぁ。潜入任務の基本は如何に目立たないか、だって。その為に一番有効な手段は誰かの【日陰】に潜む事だって。
ぼかぁそれを実践しただけさぁ。
それに隊長がもしもの為に協力者を用意してくれたじゃないですかぁ。だから大丈夫じゃないですかぁ。ああ、そろそろみたいですんでこれで。オーバー。
ぷつり、と通信はそれで切れた。
「よく喋る奴だ」
正直好きになれるタイプの男ではない。
イレギュラーも含め、偽りだらけ、何かと口八丁手八丁で乗り切る姿勢も好ましいとは言えない。
(だが長期に渡る潜入任務に際して、あいつ以上の適任者を俺は知らない)
それが笠場庵のリチャードに対する評価である。
個人的な思惑などは捨て置けばいい、大事な事は金髪のイギリス人が結果を出している、その一点のみであるのだから。
「まぁいいじゃないのかねぇ。仕事が出来る、……それだけで充分じゃないかねぇ。
無能なる忠義者より、有能なる不埒者。結構結構」
と、そこへ声がかけられる。
しわがれたその声からはおよそ生気が感じられない。
「ドクター、もう来たのか?」
「それは来るさ。何せずっと待っていた被験者が遂に見つかったのだからねぇ」
ヨタヨタ、とした足取りと共に暗闇から姿を見せるのは、一人の小柄な老人。身長は一五〇にも満たず、体重も四〇キロを切ったその姿は枯れ木にすら思える。
だがその二つの双眸、それだけは異様なまでのギラギラとした光を称えている。
「笠場君、期待しておるよ」
「ああこちらも受けた仕事はこなそう。任せろドクター」
笠場庵は腕時計を確認する。
時刻はまもなく────。
◆◆◆
耳を澄ませば、微かな銃撃の音がした。
サプレッサーは完全に音を消せる訳ではない。
「んん、時刻ピッタリだぁ。流石は世界の警察官を自称するだけの事はあるじゃないかぁ」
熱探知装置を装着した金髪の男が声をあげる。
この男こそリチャード・銛童。
今日、これから起きるであろう災厄とも言えるであろう何か。その最初の一歩を目の当たりにする為に彼はここにいる。
某国の特殊部隊の面々が施設に突入してより、およそ三分が経過した時だった。
腰まで届こうか、という調髪をたなびかせ、その男は姿を現す。
「やぁ親友。何年振りかなぁ」
リチャードの口元は大きくつり上がる。
椚剛が何をするつもりであるかは明白だ。
彼はこの数年間の代償を支払わせるつもりであろう。
そして無論、その標的は九条羽鳥のはずだ。
「さって、急いで先回りしないとなぁ。こっちでピースメーカーの動きを牽制しないと。任せていいかなぁ?」
その視線は自身の背後にて目を閉じている男に向けられている。
「ええ、問題ありません」
それは静かで穏やかな声だった。
今、まさに数年振りに外へ出て来た椚剛が破壊と復讐に殺気立つのであれば、リチャードのすぐ背後に控える男からは何の気配も感じ取れない。
「しかしどんな取引を隊長とかわしたんだい?
あの人は生半可な事じゃああんたみたいな余所者となんて取引なんかしないんだが」
その顔こそ笑ってはいたが、金髪のイギリス人のその目は真剣そのもの。値踏みするかのようである。
「細かい経緯など関係ないはずだ。大事なのは互いに目的があり、その達成に際して九条羽鳥が障害となる、という事実じゃないのですか?」
その男は淡々とした口調で、だが有無を言わせないつもりらしい。
中肉中背。顔立ちから察するに彼もまた優男の部類に入るはずなのだが、不思議な位に印象は残さないし、残させない。
「まぁいいさぁ。仕事が長引いて朝を迎えるのはお互いに避けたい。そうだろう?」
西島迅。
九頭龍一帯を守護する防人の責任者の一人。
リチャードは彼が何を考えているのか知らない。
いや、それは笠場庵も知らない。
二人にとって彼の思惑など、別段どうだっていいのだからそれも当然であろう。
「無論だ、では先回りしましょう」
だから西島迅が何を目論もうとも興味などない。
ただ互いに利害の一致があるだけの関係、それだけの事であった。




