呪詛
酸鼻を極めし″食事″を終え、力を得たソレは、ゆっくりとした足取りで動き出す。
ノソノソ、とした鈍重な歩み。
遠目から、それも背後から見る分には、これほど歩みの遅い相手ならば、少し考えればどうとでも仕留める方法がありそうに思えてしまう。
だがもしそう思いながら相手へ近付けば、それは大いなる勘違いだとすぐに理解するであろう。
「んあ、何だアレ?」
「おいここいらには人がいないんじゃないのかよ」
「そのはずだぜ。住人やら舞妓とかはガス管の破裂で一帯から出入り禁止でいなくなったはずだ」
「……じゃあアレは何だよ?」
「知るかよ」
その姿を見つけたのは、黒のジャージの上下に同じく黒のバラクラバを付けて顔を隠した二人組。
見るからに怪しい彼らの正体は見ての通りの、泥棒である。
いわゆる火事場泥棒を働こうとして立ち入り禁止区域となった祇園界隈へと忍び込んだのだ。
とは言え、仮にも祇園は防人、の長である妙の庭先である。大事な物は既に残さず運び出していたが、それでも無人と化した界隈にて火事場泥棒を目論む者が入り込めないように″結界″を張って人払いをしていたのだが、彼らはいずれもマイノリティ、であった。もっとも、無自覚のではあったが。
『…………』
ソレ、は二人には気付いていない。
ノソノソ、とした足取りでただ前へ前へ進むのみ。
「何だか知らねえけど、変なヤツだ」
「全くだぜ。おうっっ」
思わず二人は物陰へ飛び込む。
慌てていたにも関わらず、物音一つ立てなかったのは流石、なのかも知れない。
「どうだ?」
「さぁ、見られたかどうかまでは分からんな」
二人は顔を微かに出して相手の様子を確認する。
ソレ、はいつの間にかまえへんかった振り向き、またゆっくりとした足取りで歩いている。
「ああ。しゃらくさいぜ、やっちまおう」
「おいおい見られたかどうかも分からないんだぞ?」
「だからこそ、だろ? 万が一の事があったらどうするんだ?」
その言葉に二人組は決意する。
目撃されていようがいまいが関係無い。
おめおめと逃げるよりは、唯一の目撃者をさっさと始末した方が早い、との判断からである。
すす、とした忍び足は流石、といった所であろう。
相手はこんなにも不気味な夜に、一人出歩いているのにも関わらず全く警戒心もなく、ただ歩くのみ。
最初は遠目から見て、単に随分と背丈が高いんだな、と思う程度だった。
しかし、その距離を近付けていく内に、相手の異様さにも気付かざるを得なかった。
その姿は単に背が高い、などと一言で言える大きさを優に越えている。
そびえ立つようなその背丈の程は、五メートルはあるだろう。
その背丈にも引けを取らない程の重量感のある体格はまさに他者を圧する程の威容を放っていると言えよう。
距離は一〇メートルを切った。
ここまで来たらもう覚悟を決めるしかない。
二人組の火事場泥棒は手にしたバールを握ると襲いかかるべく速度を速め────られなかった。
「え?」「は?」
二人同時に、前のめりに倒れる。
起き上がろうとするも、力は入らない。
何故なら…………二人の手足は跡形もなく、無くなっていたのだから。
「う゛ぶうヴュウウウウウ…………」
ただそれだけで事は全て終わった。
二人はその場で腐り、瞬時に消え失せ、何一つ残らない。
牛頭天皇たる存在は、全く気付かない。
それはまさに象には蟻の事など見えない、という事でしかなかった。
『はぁ』
ソレが呟いたのはたった一言だけ。
だがその嘆息は疲労に起因するものではない。
それは自身が引き起こした光景に対する感嘆から洩れ出でた言葉だった。
もはや京都全体に異変は起こりつつある。
空模様は灰色から、黒く、それもドス黒く染まり始める。
月明かりなどもう全く窺えない。
漆黒、という言葉すら当てはまらない。
深い、とても深い底無し沼のよう。
その沼のような闇の中心こそが今や悪意の主にして、牛頭の怪物であるソレである。
呪詛、が溢れ出る。
一歩歩む度に呪詛が溢れ出す。
呪詛、が溢れ出る。
それが呼吸をする都度に漏れ出す。
ソレ、とはつまりはそういう存在。
ただそこに存在するだけで周囲を呪い、腐らせる。
ただその視線を向けるだけでその視線上にいる全ての生き物が死に至る。
ソレ、はゆっくりと歩んでいく。
中核になっている藤原右京にとっては、幾度も見たはずの慣れ親しんだはずの景色なのだが。
だが今やまるで別の、初めて訪れた場所かのようにさえ思える。
閑散とした、いや人の気配など全く感じられない無人と化した祇園の大通りをソレ、は歩く。
『なるほど、周囲に人は誰もいない、らしい』
ソレ、は意識を周囲へと飛ばし、周辺の状況を即座に把握する。
その索敵範囲はおよそ数十キロ四方。
そしてその範囲こそがソレ、の″間合い″でもある。
確かに妙にしろ真名にせよ両者の懸念は正しかった。
ただ、見積もりが甘かった。それだけの理由である。
しかし、誰がそれを以て二人を糾弾出来るだろう?
如何に強大な存在だから、といってまさかその力の、呪詛の届く範囲が自分を中心とした、周囲数十キロ四方だと想像出来もしない。
そして仮にその範囲を把握していたとて、今京都で起きている異常事態には対応出来なかった事であろう。
ずる、ずる、と足を引きずる。
和装の青年に出来るのはただ前へと歩を進める事のみである。
真名は理解していた。相手がその気であればとうに自分が死していた事を。
そう、相手は自分を殺すつもりはない。付け加えるのならば意識を刈り取らなかったのも同じ理由であると。
(あくまでも私に見せようという事ですか。自身に備わった力を)
立会人、それこそが牛頭の怪物であり、悪意の主たる存在の中核となったモノが異能探偵に与えた立場なのだと理解せざるを得なかった。
「ですが、ま、だです」
真名を突き動かすのは僅かなれども″希望″があったからである。
ついぞ先だって、比叡山に逗留していた妙から連絡が、式が送られてきた。
伝言はただ一言だけ。
目的は達した、と簡潔に。
(まだ可能性が残っている。まだ、何とかなる可能性がある)
詳細は省いてあったが、武藤零二は自身の焔を取り戻せたらしい。
今、協力者が彼を運んでいる。
(妙さんの見立て通りであるのならば、いやそうでなくては意味はない)
零二の焔にこそあの存在を打破する可能性があった。妙には確信があったらしい。だからこそ先日、真名は彼女に零二と、それから士華を託したのだ。
(まだ、終わっていない。ならば何かあるはず)
今やその思いだけが彼の足を辛うじて前へと動かしていた。
だが、彼は目にしてしまった。
それはまさしく希望、期待などするだけ無意味であるのだと思わせるに充分な光景であった。
「な、んて事だ……っっ」
力を奪われ、為す術を持たない真名は絶句するしかなかった。
彼の視線の先にいるのは牛頭の怪物。
一見すると動きを止め、ただそこに立ち尽くしているだけにも見えた。
だがそれは間違い。ソレは事を為していた。
「これは、【生気】で、すか」
膨大な数の小さな光が上空を照らす。
それら一つ一つは小さく儚げであり、まるで蛍の光のようにか細く、それでいて幻想的であった。
だがこれが蛍の光でないのは明々白々。
数え切れない程に無数の光が漂う。
そして、さらに無数の光が浮かび上がっていく。
ゆらゆら、と漂う光が向かって来る。
さっきまでの風にたゆたうかのような動きとは明らかに違う、凄まじい速さで向かって来る。
その命の光が一斉に向かう先にいたのは、牛頭天皇たる存在。ソレはただそこに立つのみ。
そこへ無数の光が入り込んでいく。
一つ一つ、小さな光が身体に染み渡る都度に、牛頭の怪物の巨躯は僅かに震えるのが見て取れる。
ビクン、ビクン。
幾度となく小さな脈動を繰り返しながら、同時にソレの身体から発せられる気配は強くなっていく。
「な、んて事だ」
真名はさっきと同じ言葉を、それしか口に出来ない。
だが、それも仕方ない。
牛頭の存在が発する気配、死の気配が一気に膨れ上がったのだから。
そうして、その行為を終えた呪詛の主は、『邪魔はさせん』と言うとその両の手を高く掲げる。
同時に京都の街は黒い、ドス黒い霧に覆われ、隔絶されるのだった。




