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呪詛講義

 

 パチリと、

 ソレは目を見開く。


 ″む…………う″


 意識は朧気で、頭痛のような鈍痛にクラクラとしためまいを覚える。


 だがそれはおかしな話である。

 ソレはもはや人間、そもそも生き物ですらない存在になりつつある。

 ソレに頭痛やらめまいといった観念など無縁のはずなのだから。


 であれば理由は何に起因するのかは、ソレには理解出来ていた。


 ″どうやら人であった頃の感覚がまだ残っているらしいな″


 ソレはとうに人などという卑小な存在からは脱しつつはあったのだが、数日前までの自分という存在、つまりは藤原右京、という唯一にして固有の存在であった頃の感覚がまだ残っているらしかった。


 ″超越したはずだが、感覚や精神の方はまだその段階にまで登り切ってはいなかった、という事だろうか″


 考えればそれは至極当然の事だ、とソレは合点する。そもそもこの数日間、ソレは言うなれば夢うつつ、のような状態であったのだから。

 ソレ、には幾つもの異名が付けられている。

 やれ牛頭天皇、はたまたそれとも素戔嗚尊スサノオとも。

 そのいずれもが正しく、そして同時に違う。


 だから、当初藤原右京はソレに問うた。

 ″ではお前は何者なんだ?″と。

 結果として回答はなく、ただソレに飲み込まれ、いや飲み込む事で彼は理解出来た。


 少なくとも、この八坂神社にいたソレはそういう存在ではなかった。

 この場にいたのは神、という概念。

 そうあって欲しい、という人々の願い。


 いくつもの大きな災いがおきた際に祟りだ、と恐れおののく民心を収める為、または時の為政者が自身の行いの後ろぐらさから目を背ける為に祭り上げた神、という身代わりへの形ばかりの鎮魂の象徴。それがこの地にいたソレである。


 経緯はさておいても時代を経て、ソレは多くの人々から信仰の対象として崇められ、様々な願いをかけられた。

 恋愛成就、合格祈願、出産願望、家内安全。こうした陽の願いの念がこの神社に貯まっていく。

 それに等しく、或いはそれ以上に恐れ、怖れ、畏れといった陰の願いの念もまた貯まっていく。


 同じ願い、願望であるにも関わらず、陰陽の蓄積量は徐々に変わっていく。

 陽の願いは、それが叶う事で解消して消える。

 だが陰の願いは、時にそうした願いを叶えても消えない。


 ″そう、呪詛とは消える事なく積み上がっていくのだ″


 藤原右京がこの地に目を付けたのも、そうした陰の願いのように蓄積が危険水域にまで達しようとしていたから。

 彼に接触してくる赤い魔術師、我楽多がこの場所を以前から注視していたからでもある。


 あの魔術師はこうも言っていた。


 ──ネぇ、右京くん。この世で一番恐ろしいモノとは何か分かるかい? それは死ぬことじゃない。死ぬとは次の命へと繋がる事象なんだから。

 別に輪廻転生、とかそういった概念を信じている訳ではないよ。

 我々が死した後、その肉片は大地に還り、塵となり宙を舞う。それらは小さな虫や植物に喰われ、取り込まれる。それらを糧にする何か、またそれをも喰らう何か、と食物の連鎖は繋がり、命は還元されていくのだからね。


 元々よく喋る人物ではあったが、魔術師はいつもよりも饒舌だった。

 それは彼にとっても自分の話をキチンと聞く青年はなかなかに好ましい存在であったからか。


 ──イち番怖いのは、【忘却】だよ。自分、という存在を忘れ去られる事。何の為に自分がいたのか分からなくなるじゃないか。

 そうそう話は変わるけれど呪詛、というのが何故蓄積されて周囲をも淀ませるのか分かるかね?


 右京はいいえ、と言葉を返す。

 答えが分からない、そういう訳ではない。おおよその推測は付いている。

 だが目の前の魔術師は答えを言いたくて仕方がない事を車椅子に座る青年は理解していた。それだけの理由である。

 実際、魔術師は教え子からの返答にも怒る様子はなく、鷹揚に頷くと回答を口にする。


 ──ソも呪詛とは他者への憎悪や嫉妬などから生じるモノだ。陽の願いはそれが叶う事で消失する訳だが、陰の願いはそうそう叶う事はない。

 それは当然だろうさ。だってその怨恨の対象が死ぬなり何なりとした目に見える不幸を被らなければ願いが叶った、とは思えないのだからね。

 そもそも、だ。他者を本気で憎悪するのであれば自分の手を汚せばいい。それが出来ないからこその、神頼みなのさ。

 陽の願いが自分で精進する事で解決する類であるのに対して、

 陰の願いとは表沙汰には、自分では行えない行為。だからこそ神に頼み、……祈願するのだ。

「それは分かりました。ですが分からない点もあります。陰の願いもまた呪詛する対象が偶然にせよ必然にせよ死ねば願いが叶ったという理由で消えるのではないのですか?」


 その右京の疑念はある意味至極当然だった。

 陽の願いが自力で叶えた結果消えるのであれば。

 陰の願いとて自力ではないこそすれ、叶えば消えるのが当然なのではないのか?

 それに神社仏閣にてそういった″穢れ″が蓄積されていくのであれば浄化しようとするはずだ。


 であるなら、八坂神社の淀みとは何に起因するのであろうか? それが右京には分からなかった。


 ──ナる程。君は賢いが、やはり苦労知らずだね。

 確かに君の疑問は正しい、だが分かっていない。

 呪詛、とは呪われる対象は無論、それを行使したモノもまた呪われるのだよ。

【人を呪わば穴二つ】という言葉があるだろう?

 他の言葉であればそうだね、【剣を使う者は剣で死ぬ】という例えもあるが。他者を呪う、という行為は結局は自分にも同等の呪いとして返ってくる、という意味だが、これは正しい物の見方だ。分かるかい?


 魔術師はあくまで、生徒に接する教師のような口調で藤原右京へと問いかける。


「つまり、呪いはかけられた相手は当然、同時にかけた者にもかかる、という解釈でしょうか?」

 ──ソの通り。だが、これだけならプラスマイナスゼロでしかない。

 むしろ問題なのは、願いが叶わない場合だよ。

 呪詛、とは負の感情の発露だ。

 そうした念、情念が解消されない場合。

 呪詛の念は蓄積されるのだよ。そしてそうした願望のろいは泥のように底へ底へ溜まっていく。

 八坂神社とはそもそも当時の京都で起きた様々な災厄を沈めんとして作られた。

 設立の際、一体どれほどの無念や虚無を一心に受けた事であろう。

 誰もが、そういった大きな災厄によって生じた穢れには気付く。だからソレに対しては歴代の神職やら僧侶達も対処してきたであろうさ。

 だが一方で、個々人レベルの呪詛にまでは手が回らない。そんな些事にまでいちいち関わっていれば、発狂しかねないからね。

 だからこそ、それらは徐々に場を侵食していき、気が付いた時はもう手の施しようもなくなった。

 怨念とはよく言ったものさ。で、そうした念の総意を一身に背負うのが【牛頭天皇】という事だ。

「つまり、八坂神社にある牛頭天皇、とされる物にはそうした途方もない怨念、呪詛が込められている。そういう事なのですね」


 魔術師は生徒の言葉を受けて満足そうに頷きながらも話を続ける。


 ──サて、話を少し戻そう。ここで忘却が如何に恐ろしいモノなのかを補足しようか。

 叶わなかった呪詛は、時が経つにつれて変容する。

 元々は誰か一個人だけを対象としていたソレは、時の経過と共に個人への願いという元々の願いではなく、単なる呪いへと変わる。これは実に恐ろしい事なのだが何故か分かるかね?

「…………それまでは誰か明確な標的だけを狙っていた狙撃手が無差別に狙撃を始める。こういう事ですね」


 魔術師はただ笑う。満足げに笑う。

 用事が入っているらしく、それ以上話は続かなかった。





 ″忘却、か。確かに恐ろしいモノだな。意味合いを喪失したのろいは、もはや誰をどうこうしよう、ではなくただ全てを呪うだけ。滅ぼし、腐らせ、狂わせるだけの【概念】に成り果てるのみ″


 ソレはその時の話を反芻し、納得した。

 実際、自分自身を牛頭天皇、とされる存在と融合した事により、如何に多くの呪詛がこの地に蓄積されていたのかを実感した。


 叶わなかった呪詛、または叶った事で自身の末路をも終わらせた者。呪詛返しにより自分だけ死した者。数多くの者が人生を狂わせ、その事自体を呪いながら死んでいく。無念が蓄積され、怨念となり、汚泥となって淀んでいき──やがてまたその淀みが次の、心に闇を抱えた者を引き付け、呪詛は続いていく。


 それはまるで汚水を濾過して真水を得る際、その過程で出る不純物のようなモノ。


 そうして沈澱する不純物に個々の、かつての願いが誰に対するモノだったかなどもう分からない。

 ただの呪詛であったモノは全てを殺し得るモノへと変わり、ソレがまた更なる餌を取り込み、肥大化していく。


 そうして今、


 藤原右京、という存在は生まれ変わった。

 牛頭天皇、と呼ばれた災厄の担い手。

 その姿を象ったモノとして。


 ″時は来た。我は全てをただ呪おう。それこそが呪詛の主たる我の唯一無二の存在理由なのだからな″



 かくして呪詛の主は、己が姿を得た。

 それはかの存在を囲いし八坂神社の結界が壊れる決定的なキッカケ。


 灰色だった空は、急速に闇に包まれようとしていた。



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