スペクターpart2
「気を失った、か」
歩は横目で倒れ伏した弟の、零二の様子を確認する。もっとも、ここはあくまでも零二の精神世界。
倒れた、気絶したと言っても実際に気を失う訳ではない。
もしも零二が目を覚ませば現実世界へと戻るのも容易い。そういう意味では普通であるならば、危険性は低いはずである。あくまでも普通であるならばだが。
歩の目前にはウゾウゾと蠢くモノがいる。
不定形の、だが生き物とは思えない。
例えるならばそれは影のようなモノであろう。
「ま、これはこれで都合がいいか、」
歩は一人頷くと、
「で、いつまでそうやってウゾウゾしてるつもりだ? 言いたい事があるってなら言ってみろよ」
と、得体の知れない影のようなモノに問いかける。
すると、
ウゾウゾと蠢く影のようなモノはにわかにその形を造り始める。
そうしてそれはまるでごく自然に人のカタチになる。
顔形は分からない、だが、その身体の輪郭は肉感的であり、まるで全身にぴったりとしたラバースーツを纏っているかのよう。左右の豊かな胸部に、くびれた腰、そして腰までかかる髪の毛らしきモノを見るにつけ、相手はどうやら女性らしいコトだけは分かる。
「へぇ、コイツは驚いたぜ。アンタかなりの美人みたいだ。是非、もっと前に会ってみたかったな」
その軽口はあながち嘘でもない。春日歩、という男は良くも悪くも人が、特に美女が好きであったのだから。夜な夜な違う女性の元へと通う姿をいつだったか見浦堅に見られて呆れられた程である。
《…………》
対して相手は何も言わない。正確には言おうとはしている模様ではあったが、その口から音は出ないらしい。
耳を澄ますと、ゾゾ、ザザ、というノイズの様な音が聞こえる。
それは徐々に変わっていき、そして。
《オ……マエハ、ダレ、ダ?》
はっきりとした声、へ切り替わる。
それは間違いなく、先程の何者かの声であり、目の前の誰かが歩の見立て通りの相手である証左。
そう、その相手を歩は知っていた。
「俺の名前は春日歩。これでも裏側じゃあ色々な呼び名があるぜ。
【ウォーカー】とか【フェレット】とか【残忍】とかな。一番のお気に入りはやっぱウォーカーだけどよ。それで、……アンタは【亡霊】さんでいいんだよな?」
その問いに相手は答えない。
だが、明らかな殺意を放つのは、相手からの、問いかけに対する何より明確な回答であった。
《オマエハナニヲシニキタ? ジャマダ、キエロ》
「そう言われてもなぁ、回答に困っちまうよ。
何せココに来たのはそこでスヤスヤとお寝んねしてる世話のかかる弟の力を取り戻す為なんだ。
だからさ、──つべこべ言わねぇで弟から失せろ」
その眼光には相手からのそれに勝るとも劣らない殺意が向けられる。
《クク、オマエガダレデアロウトモモンダイハナイ。ココガドコカワカッテイルノカ?》
「ああ知ってるよ。ここは弟の世界だ」
《バカメモウチガウ──!!》
スペクター、はクヒヒ、と乾いた、恐らくは笑い声をあげる。
そして、彼女の声に呼応するかの様に。
この世界は一変した。
それまでは、無数の零二の記憶の断片が辺りを覆い尽くす空間だった。
そうした記憶の断片は、一つ一つがまるで映画館のスクリーンのようにその内容を映し出しており、それが三六〇度全方位で一斉に公開されていたのが。
今や、それら全てが一切合切が閉幕。
周囲はただの暗闇へと移り変わり、影はその姿を溶け込ませ、一面の暗闇と同化する。
「ち、なるほどな。気配が絞れないって事かよ」
思わず舌打ちする。
さっきまで目前にいたはずの、目前から発せられたはずの殺意が今や上下左右全周囲から放たれ──迫り来る。
「これじゃ手も足も出ない、な。まさしくお手上げ状態ってヤツだよ」
《オロカナ。センダッテサンザンニ、イタメツケタトイウノニ、コリナイトハナ》
「ああ、昨日はどうも世話になったな。今日は弟もいるから何とかなるかな、と思ったんだがこりゃ大分見通しが甘かったかな」
迫る殺意に囲まれながらも歩はなお苦笑している。それは決して余裕から来るモノではなく、単に達観しているから。
今、この場に於いて。全ての主導権は相手にあり、自分には何も出来ない事を理解しているから。
《ズイブントアキラメガイイナ》
「そりゃそうだろ、……何せ今の俺は全くの無力だからよ」
そう、ここは現実世界ではない。
武藤零二、という少年の精神。内側の世界。
本来ならばここでの主導権はその世界の主である零二にある。
だが、例外もある。
それはその他人の精神、内側の世界に、自分自身を溶け込ませて一体化。そこから逆に浸食していく、という方法。まさしくスペクターが自身のイレギュラーで獲物を乗っ取り、支配し自滅させる手法そのもの。
《ワカッテイルナラ、ナゼココニノコノコトキタ? オマエハバカナノカ?》
「ああ、そうかもな。確かに俺は少しばかり抜けてたかも知れないなぁ。ここまで、世界の主である零二をこうもあっさりと無力化しちまうんだからな。どうやらアンタの事を見くびっていたかもな」
歩はあくまでも軽口を崩さない。
自分の足元に得体の知れないモノがまとわりつこうと迫っているにも関わらず。
絶体絶命の窮地にも関わらず、彼はヘラヘラとした笑顔を浮かべたまま──影の攻撃を無防備に受けた。
◆
目の前が真っ白になって目蓋を閉じる。
けど眩しい、のとは少し違う気がする。
ゆっくり、と目蓋を開く。
すると一面の世界が真っ白になっている。
白、とは言っても雪化粧とかじゃねェ。本当に何もない真っ白な空間、てのがありのままの現実だった。
「あ、──」
足が震える。
変だ、何故かここは怖い、と思った。
何の根拠もなく、ただ怖いンだ。
ここにいちゃマズい、何故思うのか、理由とかそーいうのは知らねェし知りたくもない。
「とにかく、……ココは何処なンだ」
キョロキョロと辺りを見回すけれど、やっぱりただただ真っ白の空間がひたすらにどこまでもどこまでも見えるだけ。
「クソ、とにかく動き出さない、とな」
脚を動かす。
すると前へ踏み出した足に違和感を覚え、視線を傾ける。
すると、オレの右足が沈み込んでいる。
ズブ、ズブズブとすねまで沈む。
「くっそ、何だっつうンだよ」
右足を引き抜こうと試みるが、足は全く抜けやしない。まるで足そのものが棒っきれにでもなっちまったてェのか、ビクともしない。
「オイオイマジかよ────!」
さらにもがけばもがく程に、オレの身体はその真っ白の地面へと沈ンでいく。いや、引き込まれる、呑み込まれるってのが正しい表現なのかも知れねェ。
その勢いは徐々に増していき、
そうして、オレは完全に沈ンでいく。
よく分からないままに、オレは視界を奪われた。
「ウ、ン」
気が付くとオレはまた白い世界にいた。
大の字になっているその身体は既に地面に沈みつつある。ち、分かってるよ。ムダだってな。
今度はゆっくりと、沈む。だが妙なコトに別段怖くないと思った。
さっきみてェにあがこうとは思わない。
沈み切った身体はまた何処かへ行くらしい。
「またか」
そして白い世界にいた。
この繰り返し、ただひたすらに愚直に。
幾度も幾度も、数回、数十回、数百回、数千回。
終わり等なく延々と同じコトの繰り返しだ。
ズブズブ、ズブズブと沈む。
白い、何も分からない空間を上から下へとただひたすらに。
ズブズブ、ズブズブ、ズブズブずぶずぶ。
「…………」
沈む、ただ沈んでいく。
数えるのも億劫ってヤツだ。
これで何度目だろうか、流石に同じコトの繰り返しにももう慣れた、というより飽きてきた。
もう驚くコトだってないし、当然無口にだってなっていく。
確かに気が滅入りはする。だが、それだけだ。
特に息が苦しいってのも、沈んでいくタイミングさえ掴ンじまえば何てコトもない。
窒息死にさえ気を付けていればとりあえずば死にはしねェみたいだ。
もっとも、ココが普通の場所なら、だけどな。
たしか、オレは自分の精神、内側の世界とやらにいたはずだ。
いくつものオレ自身の過去の断片ってのが、まるでミニシアターみたいに公開されてやがった。
そんな中、薄気味悪いナニカが姿を見せ、ンで今はこうなっちまってる。
正直よく分からない。
「ったく、死ぬなら死ぬでハッキリしてくれねェか。
これじゃ、ワケ分からないじゃねェかよ」
誰に言うでもなく言葉を発する。
いつまで続くのか分からない繰り返しの中、オレはただただ沈ンでいく。
くっだらね、だが仕方ない。
いつまでもこンな場所にいるのも飽き飽きだからよ。
「しゃあねェ。ならよ、オレが諦めるか、世界が諦めるかの根比べだぜ。
言っとくケド……オレはしつこいからな」
もう目は閉じない。閉じずに全て観てやる。
死なないのかどうか、これに終わりがあるのかどうかを見極めてやる。
そうしてまた際限ない繰り返しの中。
『ふうん、お前面白いヤツだぜ』
誰かがオレに話しかけてきやがった。




