歩と零二
「…………ン」
ざ、ざしゃ。
深い深い森の中を少年は歩く。
ここに来るのは昨晩から数えて二度目。
寺を出るとすぐにこの森に入るのだが、昨日とは異なり冷静さを保った今ならよく分かる。
この森が異様な場所である、と理解出来る。
見回せど、この森には一切の光も入らない為にまるで深夜の様な有り様。
まだ日中の、午前中だと言うのにここでは夜行性の生き物が闊歩している。
梟が目を光らせ、リスが駆け巡り、ムササビらしき生き物も木の上には見える。
「う、おっと」
思わず歩みを止める。目の前をもの凄い勢いで走り去った生き物がいたからだ。
それは小さな身体を精一杯動かしつつ、ついぞ先程見かけたリスへと襲いかかる。
バタバタ、とリスも抵抗を試みるが、根負けしたのかやがてだらり、と力が抜けていく。
そうして獲物を得たそれは何事も無かったかの如く、素早くその場を立ち去っていく。
「ふむふむ、そりゃイタチだ。すばしっこいだろ」
「!!」
「ソイツそんな愛らしい見た目だけどさ、肉食なんだよなぁ」
零二は思わず後ろへと大きく飛び退く。
一体いつの間にそこにいたのか。
気配を全く感じなかった。
春日歩、は零二からほんの二、三歩先の、一本の大木の幹に身を寄せていた。
その服装は昨日同様であり、赤のライダースジャケットを羽織っている。
ぼお、とした様子には緊張感の欠片も感じさせず、隙だらけにすら思える。
(だけど、コイツは油断ならねェ)
脳裏に浮かぶのは昨晩の自分の敗北。こちらからの攻撃を悉く受け流され、そうして反撃を受けた姿。
歩はと言えば、零二の警戒した様子に「おいおい、そんなに警戒すんなっての」と思わず苦笑する。
「一応言っとくけどさ、俺は一応お前の味方なんだからさ。もう少しばっか信用してくれでもいいんじゃねぇのかよ、……な?」
へらっ、としたその笑顔。零二はどうにも苛立ちを覚えてしまう。
一般的には充分好青年風に思える笑みなのだが、昨日の今日という事もあってかどうしても腹立たしく感じてしまう。
「はぁ、ったく。こンなのオレらしくないよな──」
パチン。
そう独り言を呟くや否やで零二は両手で自身の頬を叩く。
そうして「ふしゅう」と大きく深呼吸をしつつも、己が身体のリラックスを図る。
強張った表情を緩めると、いつも通りの不敵な表情を浮かべる。
身体も不必要な力みを無くす。構えた手を下ろし、一見無防備にも思える程に脱力──弛ませる。
それは丁度目の前にいる相手の様に。
「へぇ、思った以上に──」
歩は零二の所作を目にすると嬉しそうに笑う。
くっく、としたその声音に零二は一瞬眼光を光らせるも、心底から愉快そうに笑う相手の様子を見るとどうも挑発する意志はないらしい、とすぐに理解。小さくちっ、と舌打ちを入れると、
「でアンタが味方だっつうのはとりあえず理解したけどさ、具体的にオレに何をしてくれるンだよ?」
と問いかけながら丁度いい高さの岩に腰を下ろす。
ふああ、とあくびをする姿勢はとても真面目に話を聞くつもりなどなさそうで、この少年が普段学校でもこんな調子なのだな、と思うと、歩は何だかおかしくなった。
そうして、
「くっく、ははははっっっっ」
大声をあげて大笑いし始めた。
「ああ悪い悪い、さっきは笑いすぎたって」
「……ちっ」
零二は言葉とは裏腹に相変わらず笑ったままの相手の顔を見て、全然反省しちゃいねェな、コイツと舌打ちする。
(にしたって、何でだ?)
何故こうも目の前にいる相手を見ていると腹立たしく思うのか?
(なのに、何で気になる?)
それが髪の毛ツンツンの不良少年の本心であった。
「ほい、これでも食って機嫌直せ」
そう言いつつ歩が投げてよこしたのは、一個のリンゴ。
「毒とか入っちゃいないから心配するなよ」
くっく、と笑いつつ歩はもう一個リンゴを足元の果物かごから取り出すとシャリッ、とかじる。
「…………へっ」
その様子を見た零二も続いてリンゴを口にした。
真っ赤なそのリンゴは思ったよりも甘い。
「な、結構イケるだろ?」
「まぁまぁだな」
そんな言葉を返しなつつ、二人はそのままリンゴを口にする。
「さってと。いい加減本題に入らなきゃなぁ。
武藤零二、俺はお前の兄貴だ」
「…………………………は?」
零二は思わずキョトンとした表情を浮かべる。
目の前の相手の話の意図がちっとも分からない。
「いや、だから俺はお前の兄貴──」
「──いやいや冗談キツいぜ。オレに兄弟なンて……あれ? いるって聞いてたな、そういや」
「だろう? それ。それが俺な訳よ。一応補足しとくとだな、俺の春日っていう名字は母方の姓な──でさ」
そう言いながら次々と色々な話を切り出す、というか続々と投げつけられ、零二の脳内容量は処理現界を越えてしまいそうになる。言ってる事は理解してはいた。だが、その内容を前に完全に困惑の極地に陥っていたのだ。
そうした一方的な会話、というか情報提示はこの後数分程続いて。
「う、要するにアンタはオレのアニキで。本名は武藤歩ってコト、そういうコトだな?」
「おお、そういうこった。……意外と素直だなぁ」
「何か文句あンのかよ?」
「いやいやねぇよ。思ってたよりもいい子に育ったみてぇで兄ちゃん嬉しいぞ」
「うわちょっ。男同士だぞオレらは、抱きつくなっつうの!」
「何言ってんだ。単なるハグじゃないか、アメリカとかじゃ普通だぞこんなのは」
「いやいや、ここは日本だから。ヤロウに抱きつかれるのなンざお断りだっつうのさ」
「ほっほー、うむうむ」
そう言いながら歩は顔を近付けてくる。
しげしげ、と弟の顔を眺め、何やら考え込むような仕草を取る。如何にも意味ありげな兄、とやらの所作を零二が訝しげに見つめる事およそ一〇秒後。
「ところでだが……零二君には何ぞ好きなおなごでもおる訳でしょうか?」
兄貴とやらは唐突に爆弾を投下し始めた。
「いやいや意味わかンねェ。おなご、って何だその古くせェ言い方。オレはコウハなンだぜ、オンナなンているわきゃねェだろーが」
「何だDTか……あー、つまんね」
「オイこら誰がDTだ、ああン!」
「じゃ彼女いんの?」
「か、いるわきゃねェだろーが、ンなメンドイもの」
「うわ、ちょっ。マジですか、君何歳だっけ?
あ、もしかしてキスとかもまだなのかなーDT?」
「う、なンだっよ、問題あっか」
続々と投下される質問攻めを前に零二は完全にタジタジに、後手に回っていた。
『兄君殿は、それはそれは真面目なお方でした』
秀じいには兄弟がいることは聞いてはいたのだが、まさかこんな人物だとは全く思わなかった。
「全く話と違ェじゃねェか、嘘吐きジジイ」
思わずこの場にはいない後見人の悪口が飛び出すのであった。
「くっく、いやぁ楽しいなぁ。おい」
「ちーっとも楽しくねェ」
「拗ねるな、って。ウブい奴よの」
「あー、だからやたらと触ってくンなっつーの」
ああもう、と言いながら頭を撫でようとする兄貴から弟は逃げる。
ここに至って零二は理解した。
自分の兄貴は、自分とは正反対の性格だと。
さっきの会話の端々に彼女はいいぞー、とか、または髪型の変化やリップの変化がどーのこーの。とかいった話が続々と出てきた。それに、やたらと馴れ馴れしい。とにかく隙あらば頭を撫でたりしてくる。
これじゃまるで、子犬扱いだ。
そう思うと腹立たしい事この上ない。
(それにコイツ、メッチャ笑うしよ)
何がそんなに愉快なのかサッパリなのだが、歩はちょっとした事で笑うタチらしく、その表情筋は緩みっぱなしである。あまりにもケラケラと笑うので。
「あーーもう、いい加減笑うなっつーのさ」
思わず一喝、ようやく止まる事など無いのでは、とさえ思い始めた相手の声音は収まった。
「ったく調子狂うぜ、アンタよぉ」
「お兄様な」
「うっせクソ兄。オレらの……その、兄弟交流ってヤツよりも優先しなきゃならねェコトがあるンだろ?」
「おお、遂に兄弟と呼んだな弟よッッッ」
「うぜェッッッ、ほンっとううにうぜェ」
まるで美人な悪女に飛びかかる某怪盗三世のように、勢いよく向かって来る兄に思い切り拳を叩き込む弟であった。
それからしばらく間を置いて歩は咳払いをしつつ、何度目かの話を切り出す。
「さってと。いい加減本題だ」
「さっきも聞いたケドな」
「うっさいそこ、とにかくだ。要点は簡単、お前が焔を使えるようになればいいのさ」
「簡単に言ってくれるよな、オレは封印したンだぞ。それに分かってンのかよ? アレがどンなにヤバいのかを……」
「──知ってるぜ、色々とな。お前の事は秀じいから聞いてたからよ」
にわかに歩の雰囲気が変わる。
さっきまでのような、おちゃらけた様子は何処へやら。まるで別人の様に厳しい表情へ変化する。
「なンだよ急にさ」
突然の重苦しい空気に耐えられず、思わず零二は話を逸らすように軽い調子で話をしようと試みる。
が、
「俺はお前に会ったら謝らなきゃって思ってた。
ずっと弟がいるって知らなかったんだ。知ったのは武藤の家を出てからしばらくしてでな。言い訳にしかならねぇが……本当にすまなかった」
その口調は彼が本気で謝っているのだ、と零二に理解させる。
「よ、よせよ」
本心ではずっとぶん殴ってやりたい、と思っていた。
自分が武藤の家にきた二年前にはもうとっくにいなかった兄弟。話は何回も聞いた。
当初は興味など全く無かったのだが、武藤の家にいれば嫌でもその存在は無視出来ない。
部屋はそのまま残されていた。
かれこれ四年前に突然家を出たソイツを零二はいつの頃からか、意識し始めた。
(誰か知らねェがソイツがいなくなったからオレはこンなに窮屈なンだ、そうに違いない)
そんな事を何度も考えた。
だからもしも兄貴ってのに出会ったのなら一回ぶん殴ってやる、といつしか思っていた。その機会がまさに今目の前にある。
ググ、と拳を握り締める。あまりにも強く握り過ぎて爪が肉に食い込む。だけども、それでも握り締める。目の前の相手が兄、だと理解した瞬間。彼の中で何かが狂った。
今の今まで気付かなかった、気付けなかった。
自分だけが迷惑を被っているのだと、思い込んでいた。だけど違うのだと理解した。
自分とは違う、だけども目の前の兄貴もまた、何かを背負っているのだ。
それが何かは分からない、だけども。
そう思った瞬間、自覚した瞬間。
「うぜェよ、ったくさ」
自然と目頭が熱くなり、左右の目からはつつ、と何かが流れ出でる。
それは不器用な二人の兄弟の出会い。
そして、青年にとっても、少年にとっても今後の人生に大きな影響をもたらす出来事であった。




