爆ぜる血液――ブーストブラッド
身体に激痛が走る。それは手足を万力で固定、そのまま無理矢理に潰していくような感覚。
(痛い、痛いよっっっ)
更にミシミシ、と巫女の全身が軋みをあげた。
その原因はあの音だ。あの嫌なノイズが強まった。それは、さっきまでとは段違いの不快感を彼女の心……精神に与える。
さっきまでがプチ、プチ、と鋏で身体と心を繋ぐ糸を一本ずつ切っていくものなら、今のは糸そのものを手で掴んで纏めて力任せに引き抜く様な感覚。
≪オマエノノノ……カラダダダヲヲヲヨコセ……セセセセ≫
聞こえて来る誰かの声、いや音は徐々に言語能力そのものを喪失していく。代わりに聞こえて来るのは”感情なき悪意”だ。
ウネウネとしたその悪意はまるで生き物であるかの様に形を取っていくのが分かる。
それは、真っ黒な粘土の様に徐々に見た事のない人物へとその形を変えていく。
(ダレ、あなた)
その人物は女性だった。顔は分からない、だがその丸みを帯びたシルエットは紛れもなく女性だった。
≪%#&◇@§£¢¢♀≧∞*&#≫
彼女が何かを言うがそれはもう言語ですらない。
何か、とても不快で、それでいて何故か心地のいい音。それがとても怖い。
(だ、駄目…………負けちゃ……)
だが音は彼女の意思などお構いなしに覆い被さる。彼女の全てを何もかもを押し潰す様に。
そこで彼女の意識は深く、深く沈んでいった。
「てめェ……何をしやがった?」
零二の目に映る巫女の目からは血の涙が流れている。
それだけではない。
彼女の顔に、腕に、首筋に、肌の見える全ての箇所に異常が起きているのが一目で分かる。
血管が浮き出ている。はっきりくっきりと。血の流れが克明に、かつ鮮明に。まるで今にも破裂しそうな様相だった。
「くはは、言っただろ? 躾をしたのだ。飼い主の言う事を効かないいけない子供にしっかりとな」
藤原慎二はようやく自身の優位を確信したらしい。すっかり薄汚れた白スーツの埃を手で払いながら敵の様子を観察する。
零二は全身から血を噴き出していた。普通の人間であれば間違いなく即死であろう傷だ。流石に軽傷ではなさそうだった。
(とは言え、油断は禁物だ……)
次の瞬間。
藤原慎二の黒き拳が零二の顎を突き上げていた。
「くはははッッッ」
白スーツの男は冷笑を浮かべつつ攻撃を続ける。
零二の両肩を掴むとそのまま膝を突き出す。何度も幾度も繰り返し繰り返し。膝が突き刺さるその都度、零二の身体に強烈な衝撃が走る。
「くは、くははっっっっ。愉快だ、実に愉快だよ」
掴んでいた両肩を放すと、零二は力無く後ろへとよろめく。それはまるで糸の切れた操り人形の様に。そこに、そのがら空きの心臓へと――!
「死ねッッッッ」
藤原慎二は渾身の右の貫手を繰り出した。
その強烈な一撃を零二は最早防ぐ事も出来ないらしい。あの熱の壁も発動する事もなく、寸分違わずに貫いた。
「があっっっ」
呻き声と、大量の吐血。だが、終わらない。その目は相手を睨みつけていた。
「ほう、流石に死なんか。……ならば、これはどうかな?」
藤原慎二は口角を吊り上げる。同時に相手の胸部を、その心臓を貫き通した右手に意識を集中──右手を一気に引き抜いた。
その刹那。
バシュウウウ。
まるで噴水の様だった。
ただその噴水は普通とは違う点がある。
噴き出したのが、それが真っ赤な鮮血だった事。そしてそれは口に目、鼻、耳、挙げ句には皮膚の汗腺に至るまで────あらゆる人体の穴という穴から放たれた物であるという事だ。
「…………」
零二の身体はゆっくり崩れ落ちていく。膝を付き、辛うじて前を見ようと試みる。
「頭が高いぞ小僧」
藤原慎二は掌で押す。もう抵抗する気力も無いのか、零二は後ろへ倒れた。
「くくく、くはははははははぁぁぁ」
込み上げる感情を抑え切れず哄笑をあげる藤原慎二。
あの鮮血の噴水こそ、この白スーツの男の切り札だった。
彼のイレギュラーは中途半端な”ボディ”に同じく”ブラッドコントロール”。ボディのイレギュラーはその個人差が大きく、変異の出来ない彼に可能性は低かった。だからもう一つのイレギュラーであるブラッドコントロールに焦点を向けた。
ブラッドコントロールは文字通りに血液を操作するイレギュラーの系統を指す。
血液を用いて人形を作る者、他者の血液を飲み、体力を回復する者等所謂”吸血鬼”の様な能力を有している。
藤原慎二には人形を作る事が出来なかった。これは適性の問題らしく、どうしようもない、そう知人には言われた。
だから可能性は絞られた。
その切り札に気付いたのは、きっかけは偶然の事だった。
ある依頼で藤原慎二は要人の護衛をした。
その人物が誰で何をしているのか等は別にどうでもよく、彼に大事なのは自分の実績を積む事だった。その要人は一般人だったが、殺し屋に狙われていたらしく、その殺し屋はマイノリティだったらしい。そこで共通の知人からの紹介でこの仕事を依頼されたのだ。
そして殺し屋が襲撃をかけてきた。
その殺し屋はブラッドコントロールのイレギュラーを用いるマイノリティで、藤原慎二は苦戦した。
相手は無数の人形で周囲を取り囲み、獲物を徐々に追い詰めていく戦法を用いる強敵だった。
何とか勝てたのは、皮肉にも中途半端ながらもボディのイレギュラーによって肉体自体が強化されている事ともっと相手に比して、明らかに中途半端だったブラッドコントロールによる切り札、正確にはその原形となる能力の為だった。
相手がトドメを刺さんと手にした特殊仕様のコンバットナイフで喉を裂こうとした際。もう身体は動かず、彼は無我夢中で願った。
(砕け散れっっっ)
すると、目の前が真っ赤に染まった。
気が付くと相手の四肢が弾け飛び、無惨な姿を晒しつつ絶命していた。それで気付けたのだ。自分が相手の血液そのものをも操作する事が出来うるのだと。
考えてみれば単純な理屈だ。血液操作とは文字通りのイレギュラーなのだ。
それから幾度となくこの血液操作を試みた。自分にとっての最強の手札、切り札とする為に。
そうして手に入れた。
(これならば、あの男にも通用し得る)
この切り札は、どうやら自分が相手に触れる事で使えるらしい。
初めての時はナイフが届く直前に自分の手が一瞬早く相手に触れたのだ。だから助かった。
あの藤原新敷、忌々しい大男のイレギュラーは間違いなく”ボディ”だ。それも自分よりも数段完成されたレベルで。
マトモに戦っては返り討ちに遭うのが必定だろう。
(だがこの切り札さえあれば……届く)
この切り札の便利な点は触れてしまえばいい、という一点に尽きる。それまで如何に相手が無傷だろうとも関係は無い。
手で触れてさえしまえばそれで発動出来る。
あの大男、藤原新敷が如何に頑丈な肉体的強度を誇ろうが”内部”まではどうも出来ない。全身の血液を血管を、臓物を、器の全てを爆ぜて殺す。
だが欠点もある。
この切り札、名付けて”爆ぜる血液”はどうやら半日に一度しか使えないらしい。恐らくはこの内部破壊が相当の精神的な消耗を促すからだろう。
だが充分だ、チャンスは一度で充分だ。
(深紅の零にも深手を与えたのだ。これであれば間違いなく殺せる)
彼も武藤零二の事は知ってはいたし、調べもした。
詳しい内情までは分からないが、あの生意気な少年に藤原新敷が重傷を負わされた事は知っている。目の前の不良少年はあの男に届く力を持っているのだ。
彼にとってはこの事実こそが最重要。
藤原新敷を殺せる確信を得る事、という事実を。
(へっ、ざまぁねェな)
零二は何故か笑う。
全身からは夥しい出血。その出血があっという間に血溜まりとなっていくのが分かる。
全身が激しく痛む、かなりの深手なのは間違いないだろう。
そもそも、彼はそれ以前に重傷を負っていた。
巫女の放った音の波は、零二の全身を引き裂いたのだ。
不意を突かれた事で防御が間に合わず、まともに喰らった事が原因だ。これが所謂、”音使い”の厄介な点だ。
彼らの音は”見えない”。だから零二の”熱の壁”が上手く発動しない事があるのだ。
熱の壁は自動防御ではない、傍目からはそう見えるかも知れないが、そんなに便利な物ではない。
この防御は、彼が意識、無意識に関わらず、視認もしくは”認識”する事で発動するのだ。
その為、零二の認識外からの攻撃に熱の壁は発動しない。
だから零二は音使いとはあまり相性が良くはない。
これがあの”桜音次歌音”が自分の相棒である最大の理由だろう。”首輪”としてはまさにうってつけだ。
零二の認識外から致命打となり得る”音”を放てるのだから。
(さて、と。久々じゃねェか? こんなにボロボロなのは、よ)
自嘲する様な笑みが自然と浮かんでいた。
手足は動く。傷も塞ごうと思えば塞げるだろう。リカバーと代謝促進で零二の回復能力は尋常ではない。
しかしそれは今ではない。
何故なら、その回復に伴う消耗で、彼が”戦闘可能な残り時間”が確実に縮まる事は必定だから。
ここまでの戦闘と、今からの決着を考慮すれば、まだだ。
(なーーに、まだ死なねェさ)
だから、立ち上がる。
「ば、バカなッッッッ。何故立てる?」
藤原慎二は驚愕する。
それはまるで死体だ。自身の血で真っ赤に染まった死体が起き上がったかの様に見えた。
手応えはあった、間違いなく。
現に、相手の身体はズタズタ。あれだけの出血をしている。
(奴の中身はもうボロボロだ、間違いない)
それは貫手を喰らわせた時に、相手の血液に触れて理解した。
零二の内蔵、血管、ありとあらゆる物が限界だった事を。
それで尚もリカバーを使わないのが気にはなったが、それはもう立っているだけで限界。もしくはまだ戦う事を優先し、回復を後回しにしているかだろう。
(落ち着け、どちらにせよ奴の限界は近いのだ。こちらの方が遥かに優位なのだ)
手を胸に当て、自分にそういい聞かせる。
そう、いざとなればディーヴァに操られた神宮寺巫女がこちらを手助けする。負ける要素など皆無だ。
「らああアっっっ」
彼の自信を後押しする様に零二の動きは不様だった。
さっきまでの様な圧倒的な速度も無ければ、ボディのイレギュラーにも比類する程の膂力も無い。
今の零二にとっては渾身の力を振り絞ったであろう右ストレートにもまるで鋭さが足りず、彼に届く前に足元が乱れ、その場に倒れる始末だった。
「愚かな、もう終わりだな深紅の零ッッッッ」
辛うじて起き上がった零二の懐に潜り込み、狙い澄ました痛打を叩き込む。零二の身体が九の字に折れ曲がり、藤原慎二に寄りかかる様に崩れた。
「おおっと、まだだ。折角の機会だ……お前にディーヴァ本来の使い道を教えてやろう」
白スーツの男は満足気な笑いを浮かべると、パチン、と指を鳴らす。巫女の側にいた黒服の最後の一人は巫女の前に一本マイクを設置する。
「よく見るといい、彼女の【歌声】を聞いた愚者共がどうなるかをな。お前のお陰で本来の場所でのライブは間に合わなくなったが……」
まあ、問題ない、と藤原慎二はそう言い、巫女を立たせた。
「ここからディーヴァが始まるのだ……光栄に思え」
満足そうにそう言うとディーヴァが歌い出す。
それはとても美しい音の羅列。
心地よさすら浮かぶ音の潮流。
それがマイク越しに響いていく。
「くはははは、一体どれだけの愚者が影響を受ける事かなぁ」
藤原慎二の哄笑に満ちた声が響く、目的を達したとばかりに。
だが……
「へっ、ソイツはどうかな?」
血塗れの零二は不敵に笑う。
「何?」
「一体何処に愚者とやらがいるンだよ?」
「バカめ、すぐ向こうの足羽川の河川敷に用意された……」
そう言いかけて、彼は言葉を失う。
すっかり日も暮れ、夜の帳が落ちた街。このビルが建つ浜町の向こうに見える野外ステージにいるはずの観客がいなかった。それも全くだ。
「な、何だと?」
驚愕する藤原慎二が我を忘れ、呆然とした隙だった。
「う、らああアっっっ」
零二が全身を跳ね上げ──渾身の頭突きを顎先へと叩き込んだ。
「ぐわばらっっ」
呻きながら転がる藤原慎二は今の鮮やかな反撃に、相手が余力を残していたと理解した。
「き、貴様ッッッッ、何を……」
「……したかって? 別にムズい事じゃねェさ。ちょっとした【トラブル】ってヤツを演出したンだよ」
「トラブルだと?」
「ああ、ちょいと匿名で、会場に【爆発物】があるって通報があったらしいぜ。あーあ、怖いよなぁ」
何て事のない様子でさらりと言いのける零二に対し、藤原慎二の表情には青筋が浮かぶ。
「だ、だが何故だ? ライブ会場が何処なのかはごく一部の人間以外には一切教えていない。ここ以外にも怪しい場所は無数にあったはずだ。なのに……」
そう、それが彼には分からなかった。
ディーヴァのライブを何処で行うのかの情報は箝口令まで強いて塞いでいたのだ。それが功を奏し、今日までWGにもWDにさえも知られずに動いてこれたのだ。そこにいるあの小娘が逃げ出すまでは……。今の彼女には無駄だと分かっていたが思わず睨み付ける。
「何で、ねェ。へっ、アンタ思った以上にアホだなぁ。今日ここいら一帯の警備を担当してるのは誰だと思ってンだよ?」
「バカにするな、当然知っている。WGとWDが共同で……!」
そこで、あ、と声を漏らした。そうこのイベントの為に九頭龍駅前周辺での万が一のトラブルを防止する為にWGとWDはそれぞれに分担して警備に当たっていたのだ。
もしも彼らが一斉に動けば確かに、人員は足りるだろう。
だがそんな事は九頭龍だけだ。
他の地域でこんな事はまず有り得ない。そもそもWGとWDとは不倶戴天の敵なのだ。個々人レベルならともかく、組織として手を結ぶ事など他の地域では有り得ない事だ。
だからその常識に囚われすぎたのだ。
九頭龍という場所の特異性を彼は失念してしまった。
しかし、それでも分からなかった。何故、何故……。
「何故、ここにお前が来た? 他の場所とて怪しいはずだ。にも関わらず、何故ピンポイントでここに来れたのだ?」
そこが一番の謎だった。
自分の名義でここいらに幾つもの不動産を購入したのは、今日の事態に備えての事だ。万が一、計画が漏れても簡単に潜伏先を特定されない為に。最悪でも時間さえ確保出来れば、マイク越しにでも声を届けられるのだから。なのに──!
「あ? ンなもン知るかよ、ここが怪しい。……そンだけだよ」
零二のその回答はまさに一番聞きたくない物だった。彼はこう言ったのだ、当てずっぽうだったと。入念に下準備までした計画を、その仕上げを単なる勘で妨害した等とは、藤原慎二には到底受け入れられる物ではなかった。
「ふっ、ふ、ふざけるなッッッ。ディーヴァッッッ、この小僧をブチ殺せ――!!」
その怒りに満ちた怒号を受け、巫女を乗っ取ったディーヴァが零二へと向き直った。放つのは不可視の砲弾。それは間違いなく零二の息の根を止める筈だった。
「あー、もういいぜ」
零二はボソリとそう言った。
「独り言か? バカめ、死ねッッッ――」
その時だった。
ガオオオオオン。
ビルの屋上を何かが通過した。
その何かが通り過ぎた直後、衝撃波が襲いかかる。
零二は素早く藤原慎二へと詰め寄るとその身体を突き飛ばす。
「だりゃッッッ」
そうしておいて、零二自身は熱を纏うや否や、一気に相手へと猛然とダッシュ。目の前で遅いかかった衝撃波によってその華奢な身体を吹き飛ばされた巫女を受け止める。
「うがああああああっっっっっ」
哀れな黒服は衝撃波に耐えきれず、まるで風に舞う葉っぱの如くに屋上から飛び出していく。
「く、ぐっっっ」
藤原慎二は何とか踏ん張って耐えた。
全身を殴られた様な痛みが駆け巡る。
「い、今のは?」
呆気に取られる藤原慎二の様子に零二はニヤリとタチの悪い笑みを浮かべて見せる。
「よく見なよ、誰かがいンだろ? 向こうによ」
零二の言葉に思わず藤原慎二は、本来のライブ会場である河川敷へと視線を向けた。そこには人がいない、いや違う。誰かが会場前に立っていた。たった一人だけ、恐らくは少女らしき人影が。
それは零二の相棒たる桜音次歌音だった。無愛想な彼女にすれば珍しく、能天気に手まで振っている。もっとも頭に血が昇っている藤原慎二はそこまでは見ていなかったが。白スーツの男の青筋がいよいよ、今にも破裂しそうな程にピクピク、と震えていた。
「ディーヴァ、何をしているか? この小僧を捻り潰せッッッ」
「ディーヴァ? ……ンなヤツ何処にいるンだ?」
巫女が付けていたヘッドフォンは、まるでガラス細工の様に粉々に砕け散っていた。それを目にした藤原慎二の顔色はいよいよ蒼白になる。
零二は満面の笑みを浮かべて、更に挑発の言葉を吐いた。
「さーて、頼みのディーヴァちゃんはもう働かないぜ──どうすんだよオッサン?」
「き、貴様ッッッッ、おのれ、おのれおのれッッッッ」
藤原慎二が怒り心頭に相手へと猛進する。
「殺す、殺す、殺す……殺すッッッッ」
「へっ、上等だ。今度はお前の全部を見せてみな、オレは──」
零二はそう言うと巫女の身体を横たえさせる。そして……全身から熱を、蒸気を纏い、放つ。
「──それをまとめてブッ飛ばす」
そして腰を落とすと右拳を白く輝かせる。目の前に迫る敵と決着を付ける為に。