悪意の伝播
京都の闇はいつにも増して深い。
街のあちこちでネズミなどの小動物が大移動している様を複数の人が見かけたらしい。
他にも普段なら街にいるはずの野良猫の姿も見えない。はたまたカラスだけはいつも以上に街を飛び交っているのが見えた。上空から電柱から見下ろすその様は、これからここで起きる事態を見越しているかのようでもある。そう、この場所に漂う死の匂いを嗅ぎ付けでもしたかのように。
だがそれもそのはず。
彼らには分かるのだ。これから、いや、既に起きつつある異常事態が。
この地に留まっていらば自分達の身が危険にさらされる、という事を本能的に察知していたのだ。
そう、今や京都全体が異界と化しようとしている。
そこは普通の、この現界の理など通じない場所であり、自分達はそこで生きていくのは不可能であろう事を理解していたのだ。
「ふう、やれやれですね」
真名はそう呟きつつ、袖口からの手ぬぐいで顔の汗を拭う。
じとり、とした暑さを感じる。
まとわりつくような湿気に満ちた不快な暑さ。
だが特段、気温が高い訳ではない。
この時期の京都としては平均的な気温であろう。
だと言うのに、この場の誰もが憔悴しつつある。
その理由は単純で、彼らの目の前の存在の影響である。
八坂神社、の周囲を真名を始めとした防人や退魔師達が囲むようにして結界を展開したまま、間もなく二日目を迎えようとしていた。
状況は刻一刻と悪化している。
確かに悪意の主、または牛頭天皇、藤原右京とも言える存在を結界内に閉じ込めてはいる。
確かに彼、といってよいのか分からないその存在は神社の境内にてその動きを止めていた。
下手に動かば結界に己が力を削られ、奪われるのを彼はよく知っている。
だからこその現状である。
しかし、それでも周囲に何の影響も出ないかと言えば、決してそうではない。
確かに悪意の主、はあの結界から微動だにしない。
しかし彼の存在はその場に留まるだけで、異常事態を引き寄せ、招き寄せている。
結界を展開してからかれこれ間も無く丸二日。
この場を守りし異能者達にも徐々に脱落者が発生し始めていたのだ。
「あ、がああああああ」
叫び声が聞こえる、どうやら新たな脱落者が出たらしい。
真名が横目で確認すると、脱落者は確か防人の一員だったはず。その顔色は土気色であり、胸の辺りを押さえながら悶え苦しむその様は明らかに異常である。
原因は悪意の主、つまりは牛頭天皇が何を司っているのかを知っていらば明白である。
牛頭天皇とは古来の京都にて多発した数々の疫病、水害を引き起こしていたとされ、人々から恐れられた存在。
また、権力者達の政治的主導権を巡る幾多もの政争や暗闘、その末路として変死や急死を遂げた者が大勢いた。その為に用いられたのが呪詛。
一〇〇〇年、或いはそれよりも古来より呪詛というのは権力者たちにとっては極々身近な”手段”であった。
様々な方法を以て己が一族の躍進を。
また己が障害と成り得る政敵やその一族の没落を。
その為の手段として呪詛を用いたのだが、そうした事を一般の民草もまた知っていた。
その為であろうか、時の権力者が謎の死を遂げる度に彼らはこう思ったのだ。
”誰かに呪殺されたのだ”と。
そして次いでこうも思うのだ。
”祟られるぞ”と。
そして何がしかの天災が起きたらこの事態は先に死した誰かの祟りに違いない、と思ったのだ。
そしてその考えは権力者とて同様であり、彼らはその誰かを神として祀る事でその収束を願った。
こうした考え方が長く根付いてきたのだが、牛頭天皇とはそうした呪詛の元締めとされた。
仮に牛頭天皇なる者が存在したとして、そしてそれが事実であったのかは問題ではない。
この八坂神社がそうした様々な災いを鎮める為の聖地であり、人々の中でそうした一種の”呪術的な信仰”が脈々と受け継がれてきた事実こそが大事なのだ。
元来の地脈などによる力、それから一〇〇〇年を越える人々からの信仰が牛頭天皇という存在を構築したのである。
それはつまるところ”神”である。
神とは人々からの信仰から力を得るのだから。
藤原右京がこの地を狙ったのはまさしくそうした膨大な力を得る為であろう。事実、今やかの存在はそこに顕在化しつつある。
神などという存在を人間が受け入れるのは普通であれば一部の例外を除き、不可能である。
藤原右京もそれを理解していた。
だからこそ彼はオオグチに端を発する一連の騒動を引き起こさせたのだろう。
大勢の異能者の血肉を喰らわせ、オオグチの細胞を活性化。
その一部を器、つまりは″魂蔵″と化し、そこに神を宿らせる。
妙にも、真名にも想定外であったのは、藤原右京が既に己の肉体からも魂の一部を魂蔵に宿らせていた事であろう。彼が異能者であった事を察知出来ていれば対処も可能であったかも知れないが、相手がそれだけ巧妙に隠してきたのである以上、それももう過ぎた話だろう。
「しぬ、しぬうううう」
「急げ、結界を維持するんだ」
また新しい脱落者が出た。
慌てて運び出し、その陣地に交代要員の異能者が立つ。
これでかれこれ何十人目であろうか。
この場にいる異能者達はいずれもが真名から糸を貰っていた。
糸の持つ″魂繋ぎ″という起源は確かに呪術に有効ではある。
だが如何にその守りがあろうとも、相手から際限なく呪詛が向かってくる以上、それにも限界は存在する。
今、この辺りに蔓延しているのは言うなれば無差別な呪い。誰でも構わないからとにかく呪ってやる、とでも言い換えれば良いのか通り魔的なモノだ。
それは本来であれば然程脅威ともならない類の呪詛ではあるのだが、ひっきりなしに、しかも呪詛の主から送られて来ているのだ。
神にも比類する存在からの呪詛に異能を持ったとは言えど人間が対抗するのは困難を極める。
更に付け加えるのならば、そもそも…………。
(糸がどの位持つかはその人次第なんですよね)
それは真名が今、この場では決して口には出来ない事実。もしも今、それを口にしたらばこの状況をすらもう維持など不可能かも知れない残酷な事実だ。
真名の異能である″起源遣い″は強力ではあるのだが、扱う道具自体は基本的に普通の物だ。
今回の糸等も事前にお清めをしてもらったり、知り合いに作ってもらった特注品ではあった。だが、あくまでも万物には期限がある。
起源を引き出すというのは万物の秘めたる力を最大限に引き出す、という事。そんな力をいつまでも発揮する事など不可能なのだ。
「くそっっ来たぞ!」
警戒を促す声が聞こえる。
その声はこの場にいる全身へ聞こえる。
周囲の偵察に出した退魔師が置いていった人形を介しての一種のテレパシー。
「迎撃態勢を取れ」「結界を維持する者を守れ」
場に緊張感が漂う。
そして、姿を見せたのは。
《キキキ、美味そうな匂いがする。臓物の匂いがする》
巨大な猿。
その目は真っ黒で、大きさはおおよそ九メートルはあろうか。
当然ながら自然界にいるモノではなく、妖の類だ。
それが真名から視認出来ただけでも五体。
一斉にこちらへと突進をかけてくる。
あっという間に戦闘が始まる。
それはまるで戦場のような有り様。
しかもこれが最初ではない。
恐らくは悪意の主の影響であろう。
京都中で無数の妖が跋扈している。
そして、その大半がここへと向かってくるのだ。
日中こそ然程ではないが、夜になればまさにこの場は戦場のような有り様と化する。
今までは何とかこちらにも数が揃っているので対応も出来ているのだが、それもいつまで持つか。
周囲の誰にも聞こえないのを確認して、
「あと、せいぜい粘って二日……か」
真名はそう呟いた。
もっとも何とか持ちこたえるつもりでこそあれ、状況次第でそれも叶わないだろう。
(やるだけはやらないと。じゃないと、私は士華さんに顔向け出来ませんしね)
深呼吸をすると、真名は再度結界へ向かう。
勝ち目のない、だが、避けられぬ戦いへ彼、彼らは挑むのであった。




