敗走
「それにしても暗い空だね」
僕は空を見上げながら言う。
時刻は午後二時。
目覚めてから大体四時間程経過したらしい。
ここに運び込まれてから一晩が経過したそうだ。
「ああ、そうだな」
武藤零二は気のない返事を返した。
目を覚ましてから、あいつはずっとこの調子だ。
心ここにあらず、とはまさに今のあいつに相応しいと思う。
でもそれも無理はないんだ。
だって僕らがここにいるのは……観光だとかじゃないんだから。
そう、僕らが負けた結果なのだから。
「いい加減、自分を責めるのよしなよ」
分かってる、こんな言葉じゃなんの慰めにもならないって事は。
だって僕らが負けたのは、決して負けちゃいけない戦いだったのだから。
そう、今。京都は変わってしまったのだ。
あそこは今、違う世界に変わりつつあるのだ。
「…………」
武藤零二は何も言わない。
ただその目は遠くを、灰色の空の下に広がる京都の街を見通そうとしていた。
「いいさ、もう少しだけ待つよ」
僕もまた、目を閉じ沈黙する。
今は、今だけはそっとしておこう。
僕達にはまだやるべき事があるのだから。
◆◆◆
「くああああああ」「う、ううううう」
零二と士華の全身から力が急速に奪われていく。
ただし二人から生命力を奪っていく元凶である黒いモノの動き自体は緩慢そのものであり、少し走れば簡単に、ましてや身体能力の高い両者ならばまず捕まる事などは有り得ない。
本来であれば捕まるはずの無い二人がこうも易々と捕らわれ、力を奪われる理由は両者が陣の上にいたから。
そう、零二にせよ士華にせよ彼らは今、結界を維持するのだけで精一杯であったからに他ならない。
今、八坂神社を囲む結界はたったの三人で維持されている。
本来であれば数十、数百で発動させる結界をたったの三人で維持、これはまさしく異常と言える。
その内、妙の生命力自体はそれ程でもない。異能者とは言えど、生存力は多少高いとは言えども同類の中で比べれば彼女のそれは決して高くはない。
つまりは残る二人の生命力が桁違いなのだ。
零二の場合は彼自身が巨大な燃料庫。
その血や汗、自身の全てを燃焼させる事で爆発的なエネルギーを扱う。
士華の場合は少しばかり特殊だ。
彼女自身も自覚はないのだが、彼女には秘密がある。
零二とは違う意味で彼女もまた、膨大なエネルギーを秘めている。
それらを以てして結界を支えていたのだ。
その上で、黒いモノの侵食である。
「う、ぐうううううう」
「負けないよ」
歯を食いしばり、生命力を奪われながらも懸命に耐える二人。
分かっていた。
今、陣地から離れれば二人は何の問題もなく逃げられる事は間違いないと。
だが……それは出来ない相談であった。
今、この場から離れれば間違いなく悪意の主は弱まった結界を破砕し、突破するであろう。
そうなればもう終わりだ。
あの存在が外に出てしまえばそれで終わりだ。
あれは怪物だの鬼などという生易しい存在ではない。
敢えて例えるならば、あれは″悪魔″、或いは″悪霊″であろうか。
そんな存在が結界から脱すれば何を起こすかは明白である。
今、目の前で起きている惨状が今度はもっと広い範囲で起きるに違いない。
あの黒いモノが街中を蹂躙し、大勢の人々が死ぬ。
そうして廃墟となったこの地に残されるのは、数え切れない骸に廃墟のみ。
「負けるかよ、こンなモノは……屁でもないぜ」
全身に無数の痣が浮かんでいく。
同時に激痛が襲いかかる。
少しでも気を抜けば、意識が飛びそうになる。
それでも零二の目は死んでいない。
「だよなぁ、シカッッッッ」
その目は側にいるもう一人の少女へと向けられる。
「とーぜんだよ。こんなの何でもないし」
士華もまた、同じ苦痛を味わっている。
だが、屈しない。
目を見開き、歯を食いしばって耐える。
《くく、耐えますね。しかしいつまで持ちますかね?》
悪意の主は哄笑する。
確かに、未だに自身がこうして結界に閉じこめられているのは予想外であった。
彼の能力の効き具合には個人差が大きい。
だから一度に全員を制圧は出来ない事も理解はしていた。
それがたったの三人、実質的には二人の少年少女によって閉じこめられるとは全く想起していなかった。
黒い塊、とでも言えばいいその姿はさながら卵の様ですらある。
彼自身、己がどういう姿をしているのかは分からない。
神、として畏れ奉られる存在。
それがかつて藤原右京、と呼ばれた男の今。
最厄、疫病、呪詛を司る存在。
まさに自分に相応しい、そう思っていた。
《実にいい、実にいい》
今こそまさしく己の絶頂期。
人を越え、異能者も越え、今や神。
誰もが自分には抗し得ない。
下手な抵抗も無駄でしかない。
《いいぞ、もっと私を楽しませてもらおうか。
足掻き苦しみ、悶えながら死するといい》
それよりも自分自身で驚いたのは、こうも多弁になった事である。
神様と比する存在になるのだから威厳があって然るべきと思っていた。
だが、実際の所はどうだ。
愉快だった、ただただ愉快だ。
″力″を持つという事がこうまで愉しいとは思い至りもしなかった。
これまで、……こうなる前の己は本当に脆弱極まりなかった。
裏で画策するのは嫌いではなかったが、実の所は結局、己の微力さの裏返しでしかない。
本当に力があれば、例えばせめて兄程度の力があれば、例えば今、苦しんでいる少年少女位の力があれば。
零二や士華の力がどの程度のモノかは知らない。別に知る気もない。しかしながら、羨ましくはある。
彼らは結界を維持する為に陣地と、かつ自身の放った呪詛にも生命力を奪われている。
異能者であっても普通ならば、もうとっくに干からびてもおかしくはない。
だが、どうだ。
彼らは未だに生きている。
イレギュラーとは担う者の精神力、体力、精神性により能力も威力も大きく差異が出るらしい。
それを一〇〇%鵜呑みにするのであれば、かつての自分の貧相さは何処に起因するのであろうか?
そしてあの二人を見るにつけ、一体何がこうまで苦痛に耐えさせるのか、何が元々縁もゆかりもない京都の為にここまでするのか、好奇心を抱かざるを得なかった。
《もっともっと見せてもらおう。君達のその姿をね。
何処まで神に抗えるのかをたっぷりと時間をかけて、試させてもらおうか》
それは呪詛の主でもある彼には拷問であり、何よりも娯楽であった。
「よ、よおシカ、調子……どうだよ?」
「僕かい? ぜ、んぜっんへい……きさ」
二人は互いに明らかな強がりを言い合う。
もう声を出すのも億劫だった。
だが互いに弱音は吐かない。
「そっかぁ、いっとくけど……オレはこっからが本番、ってヤツだから…………よ」
「へぇー、……奇遇だよ。……僕もいまからほん、きを出すんだ、よね」
その顔色は蒼白を通り越して土気色にすらなろうとしている。 まさに風前の灯火、という表現がもっとも的確であった。
それでもその目は未だに死んでいない。
何が何でもこの場を収めてみせる、という意思が煌めく。
その時である。
「あんさん達、あの子らを見てて恥ずかしゅうならんのですか!! あん子らは特段京都に縁なんか持っとりまへん、士華さんも零二君も【よそもん】どす。
あんたらはどないや? よそもんに任せっぱなしで恥ずかしゅうないんか? 今こそ京都の異能者達が一丸とならなあかん時ちゃいますか? 今やらんかったら一体、何時になったらやるんやこのアホンダラ----!」
妙の叱咤が飛ぶ。
「やれやれ、ようやく目を覚ましたらいきなりの罵詈雑言ですか。困りましたね」
その声に真っ先に反応したのは、真名である。
彼は今まで気絶していたのだが、不思議な事に出血した形跡は見当たらない。
そう、彼は悪意の主からの呪詛の影響を受けてはいなかった。単に寝ていただけ、というのが事実である。
「皆さん、今から私の言うとおりにしてもらえませんか? ……そうすれば少なくとも皆さんは血に染まらずに済みます」
そう言いながら真名が袖口から取り出だすのは一本の糸、であった。
何の変哲もないただの糸。
それを健在な異能者達へと巡らせる。
いったい、どのようにしてその糸を仕込んでいたのか、凡そ一〇〇人もの異能者達の手には一本の糸が握られていた。
それの端を持った真名が反対の袖口を--つまりは左手首を見せると、そこには同様の糸が巻き付いており、二つの糸を結び付けた。
「さて、準備はこれで充分。では見ていて下さい」
真名は真っ直ぐに前へ歩き出す。
すぐに区別されたその境界線を越える。
途端に、黒いモノが新たな獲物を捉えんと蠢く。
だが、
おおっっ、というどよめきが起こる。
真名の身体にそれは巻き付かない。
周囲を旋回こそすれ、一定以上の距離からは近付かない、いや近付けないらしい。
まるで、
「糸にまるわる起源には【魂結び】というのがあります。呪術の一種ですが、糸によって魂と肉体を繋ぐのがその目的です。糸には生命力を蓄える呪力があるのだそうです。あの悪意の主、という御仁の力と言えども、起源を無視は出来ない、そういう事です。
--さぁ、我々も各々で出来る事をしようではありませんか」
僅かな逡巡の後、
「俺も行くぞ」「そうだ」「我々の役目を果たさねば」
真名の言葉に勇気付けられたのか、続々と異能者達は結界の陣地へと向かっていく。
真名に続き、境界線を越えた彼らは二手に別れる。
陣地へと向かう者、そして倒れた者を運び出す者だ。
「えらい手間を取らせましたなぁ」
「こちらこそです、今更ながら働かせてもらいますよ」
真名は妙と入れ替わりに陣地へと入る。
そのすれ違い様。
真名は足を止め、妙も同様に止まる。
「あん子らはここから逃がします……よろしゅうおますな?」
「そうですね、お願いします」
妙と真名は互いの意思を確認するのであった。
二人の少年少女にはやらねばならない事があるのだと。
「オイ、なにしてンだよ?」
離せよ、と言う零二ではあったが、既に力など残っておらず、為す術なく陣地から運び出される。
「まってよ、まなさん」
それ運び出される士華とて同様らしく、零二と同じく陣地から運び出されていく。
真名は二人に背を向けたままで、
「二人共、少し休んでいてください。今日は頑張ったんですからね」
そう優しく言葉をかけ、そうして光を発する。
《小癪な、邪魔をするかっっっっ》
怒声が響き、そうして結界は閉じられ、同時に二人の意識はそこで途絶える。
かくて二人は京都から離れた。
そしてそれは、零二と士華にとって、紛れもない敗北であった。




