泥人形――マッドドール
「は、はぁーー。ふうっっ」
呼吸を整えながら士華は駆ける。
彼女の前に立ちはだかりし、三条の手の者達の一団は既に蹴散らした。
大勢の犠牲者が出てしまった。
(嫌なモノを思い出したよ)
地獄絵図の様な惨状を見て、心の奥が痛みを覚える。
状況こそ違えど、こんな光景には既視感が、見覚えがある。
そう、……彼女には忘れる事など出来やしない。
それはかつて、自分の目の前に広がっていた光景なのだから。
自分が暮らしていた平穏な日々の壊れた、……終わったあの日の光景。
そしてそれは新たな始まり。
士華という少女がマイノリティとなった日であった。
◆◆◆
「ぐひゃぷぷふふ」
不気味で、何とも陰湿な笑い声が耳朶に届く。
動きを押さえられた士華は、薄気味の悪い巨漢に足を掴まれ、ぐい、と持ち上げられた。
巨漢は全身に汗をかいており、それが何とも云えない腐臭を放っている。着ているTシャツも薄汚れており、恐らくは何日も洗っていないのだろうか、耐えがたい悪臭を放っている。
「うう、ううううう」
あまりの臭いに士華は思わず吐瀉する。
胃の中のモノを全て吐き出すかの様な勢い吐き出されたそれを、巨漢はニヤニヤと実に嬉しそうに眺めている。
「ぐひひ、いいよぉ。そんなにオイラの匂いが良かったんだねぇ、ぐふふひひ」
「あ、ぐうっっっ」
士華の華奢な身体を無造作に放り投げ、その身体は地面を幾度も跳ねる。
その肢体をじとり、と嘗め回す様な視線でゆっくりと見る。
その視線に士華は怖気を覚えた。
それは彼女が初めて感じる悪意、それから異様な関心。
もう疑うまでもなかった、この巨漢は狂っているのだと、嫌が応にも実感出来た。
(逃げなくちゃ、早くここから逃げなくちゃ)
士華はその悪意の先にある凌辱の予感を敏感に察して、這いずるようにこの場から離れようと試みる。
だが、
「だーめだよぉ、お嬢ちゃんンンン」
男の声と共にその試みは頓挫する。
地面から無数の手が伸びだす、そしてその手が士華の手足を掴む。
ずしん、ずしんとした足音がまた近付いてくる。
下卑た笑みを浮かべつつ、少女へと再度その手を伸ばす。
この男、名を下田手仕付。
元は最低最悪の犯罪者として逮捕された男である。
その罪状は殺人、それも少女に対する性的暴行の末というおぞましい犯罪を発覚しているだけでも二〇件起こしている。
そんな彼だが、実は一度死んだ身である。
それは文字通りの意味で、冒した罪の重さと本人に罪の意識等が皆無であり、死罪を通告。
その刑の執行により薬物を投与され、命を絶たれたのだ。
だが、下田手は生きながらえた。
死亡確認後、遺体を搬送中に交通事故により燃え盛る車内で灰になった。
これが世間一般に於ける、連続少女暴行殺人犯下田手仕付の最期である。
だが実際の所、彼はこうして生きている。
何故ならば刑の執行後、下田手は息を吹き返したのだ。
間違いなく一度死亡が確認された死刑囚が覚ますはずのない目を覚ますと、そこは見た事のない場所であった。
そこで彼には新たな始まりが待っていた。
死からの覚醒から得た新たな力……即ちイレギュラーを用いて裏の世界で生きるという始まりが。
「く、ぐひゃぷぷふふ……むだだよむだだよぉ。オイラの【泥人形】からは誰もが逃げられやしないんだよぉ」
誰しもが不快感を感じる様な声色。
士華がその声から理解出来たのは、この男が普通ではない事だ。
それは異様な能力を持っている事ではなく、この男の精神構造が常軌を逸している事である。
だらだらとした汗のすえた臭い。
口からは涎を、鼻からは鼻水を。他にも全身からだらだらと体液を垂れ流し、異臭を漂わせている。
見ているだけでも不快感を感じる歩くのにも億劫そうな肥大化した巨体をゆっくりとした足取りで向かってくる。
普通ならば簡単に逃げられるその歩み、だが、今の士華にそれは不可能であった。無数の手が捕らえていたからだ。
それは泥で出来た手。寧ろ手の形をした泥、とでも言えばいいのだろうか。
「離してよ、離してっっっっ」
ピンク色の髪の少女は恐慌に陥る。
自分に近付くあの男に捕まれば、どうなるか……何も言わずとも分かるからだ。
あの目、異様にギラついた目。
自分の事を獲物としか思っていないのが一目瞭然。
間違いなく殺される。
僅かに動く手をバタバタとさせ、逃れようともがく。
「つーかまーえたぁぁ」
だが、下田手の手が無情にも彼女の足を掴む。そして一気に引き起こす。
舌なめずりしながら、ぐふふと笑う男。
そこに思わぬ反撃が待っていた。
士華がその身体を揺らす。そして相手の膝頭に先程拾っていた石を叩き付けたのだ。
「ぐぎゃああああああ」
メキ、という音と共に下田手が大きくその巨体を屈する。
そもそも肥満体で歩くだけでも相当の負荷が膝にかかっていたのだ。そこへ来ての石での殴打。
それがだめ押しとなり、限界を越えた下田手の膝は簡単に破壊されたのだ。
無論、士華がそこまで意図していたのではない。
敢えて云うならただ彼女は、……その生きようとする本能がそれを為したのであろうか。
まだ異能、等知らない彼女は自分が自由になった事を悟ると、一気に走り出す。家族から託された刀を拾い上げ、――全力で。
そもそもこの一帯は彼女にとっての庭も同然。
目を瞑っていようと、大体の場所は分かる。
(もう大丈夫、逃げ切った)
そう確信した事だろう。
しかし彼女はまだ知らない。異能者の持つ異能というのが如何に常軌を逸した力なのかを。
全力で走り抜ける士華は相手の姿が完全に見えなくなった事にようやく安堵した。
だが、
≪逃がさないよぉぉぉぉぉぉぉ≫
声が轟いた。
そして同時に異変が起きた。
士華の足元が突然、ぶわっと波打つ。
「あ、ぐっ」
走っていた士華の足がすくわれ、その場で転倒。大きく転がっていく。幸い、地面がぬかるんでいたのも手伝い、何処かにケガを負う事もなかったのだが………………、
「なん、だよ……これは?」
彼女の見たのは想像を絶する光景であった。
周囲一面の地面が、うねっていた。
その様はまるで海の波の如くに。
さらに泥は渦を描きながら士華へと迫る。
≪驚いたかぃぃ? 誰だってオイラからは逃げられやしないんだ。ぐひゃぷぷふふ!!≫
薄気味の悪い声色をあげながらそれは姿をぬっ、と現す。
巨大な泥の塊が士華の目の前に盛り上がる。
その塊はみるみる内にその形を変えていき、人の形を象った。
「ぐひひひひ、お嬢ちゃん。もう諦めなよぉ、そしたらじっくりとオイラが遊んでから……やんわりと殺してあげるからさぁぁ」
おぞましい妄執に囚われたその巨漢を見た士華は、改めて思った。
この世には本当に恐ろしいモノがいるのだと。
思えば、そうだ。
皆が死んだ、殺された。
何でそんな酷い事が出来るのだろうか?
分からない、何もかもおかしい。
ただ、ひとつだけ…………彼女の中にあったのは。
何がなんでも生き延びる、という皆からの言葉。
下田手の泥々とした手が士華を掴むと、軽々しく振り回し、放り投げる。
無造作ながらも士華は受け身を取って、ダメージを逃す。
だが既に下田手の足が目前へ迫っている。
重量のある分、その蹴りは重く、士華の身体は簡単に吹き飛ぶ。
「ぐ、あっっ」
木の幹に叩き付けられ、呻く。
それでも刀だけは手離さない。
自分でも何故なのかは分からない。
こんな刀、自分に扱える訳でもないのに。
こんなモノ、一体何の役に立つというのか?
幾度も幾度も華奢な身体は宙を舞い、地面に、木に、岩肌に叩き付けられる。
「ンンンン? 何でまだ平気なんだよぉぉ」
常人であればとっくに死んでいてもおかしくない程のダメージを負っているはずの少女がいまだ生きている事が彼には理解出来なかった。
普通であれば、内臓は破裂寸前、骨は幾本も砕け、痛みで漏らすというのに。そして、もう嫌だ、と喚き散らしながら泣き喚いているはずなのに。
それに、彼が疑問を抱いたのはもう一点。
何故この少女はその手にある刀を手離そうとしないのか、である。
そうまでして守るソレに巨漢の関心は傾いていく。
その途端、であった。
下田手の攻撃に変化が起きる。
まずは士華を引き倒すと馬乗りとなる。
拳を握り締め、それを相手へと振り下ろした。
一転して荒々しい攻撃を前にして上からのしかかれた少女は対処しようもない。
下田手とて特段、何かしらの格闘技の心得などはない。
ただまだ大人になりきれていない少女を凌辱する途上で、相手を屈服させる事に没頭していった結果として、こうした暴力に目覚めたのである。
自分よりも弱い相手を嬲るのがたまらなく楽しかった。
そして、何よりもこうして馬乗りから殴り付けるのが最高に快感であった。
自分よりも弱い少女の恐怖に満ちたその表情がたまらなかった、そして事切れる時の虚無に満ちた瞳を見下ろす事が心地よかった。
「ぐひゃぷぷぷ、ほら離せよ、はなせ、はなせよぉぉぉぉぉ」
「ふぐっ」
下田手の暴虐を前にして士華のか細い手から力が失われていく。
そして幾度目かの殴打を受け、ついに手から刀が離れた。
「ぐっふふふふうう、このオモチャ。よっぽど大事なんだなねぇぇ、さーて……」
殺人鬼の興味は完全に士華が手放した刀へと向けられた。
柄を持ち、その刀身を抜き放つ。
「う、おおおおおおおおお」
思わず感嘆の声が殺人鬼の口から洩れ出でた。
その刀身は実に美しかった。銀色に輝くその刃には一点の曇りもない。
だが下田手が簡単したのは、そんな外見上の美しさからではない。
この刀を抜いた瞬間に感じたのだ。これは普通の代物ではない、と。
そのあまりにも妖しげで凶悪な煌めきは、この刀がこれまでに数多くの命を奪い去ったのだと殺人鬼に即座に理解させた。
「いい、いいぞこれぇぇぇぇ」
そう言いながら刀を振ろうとした瞬間であった。
「ぐげええええええ」
絶叫が轟いた。
ぼとり、と刀を持っていた下田手の手が突如落ちた。
何が起きたのかが殺人鬼には理解出来ない。
突然刀身がクルリと不自然に動いて自分の手を切り落としたのだから。
ざしゅ、と泥だらけの地面に突き立つその刀を士華は呆然と眺めていた。
不思議な事に彼女には刀が何かを訴えている様に思えた。
何故だろう、おかしいとは思わなかった。
士華は無意識にボロボロの身体を這わせていた。
全身に酷い怪我をしていて、ただ這うのも苦痛だったのに。
何の躊躇もなく、彼女は家族から託された刀へ近寄る。
殺人鬼は自身の身に起きた事で頭が一杯らしく、士華に対する注意は皆無である。
そうこうしている内に士華の手がその刀へ届きそうになる。
だがその手は柄には届きそうもない。
「く、――――え?」
彼女は信じられない、といった表情を浮かべる。
刀が突然、士華へと傾いたのだ。そう、”まるで手にしろ”とでも云わぬばかりに。
下田手もここでようやく士華の動きに気付く。
「何してるんだよぉぉぉぉぉ」
叫びながら地面を踏みつける。すると泥々の地面が大きく揺れ動き、波紋を立てる。
その勢いはすぐ側にいた少女をいとも容易く吹き飛ばす……はずであった。
少女の手は刀の柄へと向けられている。
今や、周囲の状況などもう彼女の中にはどうでもいいことであった。
ただ目前にあるその刀をその手に掴み、握りしめた。
その途端、士華の身体が泥の大波により大きく宙を舞った。
「あ、殺しちゃったか、まぁ仕方ないかぁぁぁ」
殺人鬼は薄ら笑いを浮かべ、少女の最期を見るべく視線を向ける。
優に一〇メートルは舞い上がったその身体は五体満足ならともかく、重傷の彼女にとっては致命的な高さである。
そのまま地面に打ち付けられれば死は免れない。
下田手は死んだ少女でどう遊ぶかに考えを巡らせていた。
だが、士華は空中で姿勢を整えると、何事もなかったかのように着地した。
「な、なにぃぃ?」
驚愕する殺人鬼は、違和感を覚える。
どうしてであろうか? 何かが違う。見た目は同じだが、先程までとは何かが大きく違う。
そうそれは士華が世界の裏側に足を踏み込んだ瞬間。
「…………、行くよ」
刀を構えた士華はそう呟くと相手へ――飛び掛かるのであった。




