抜き放たれる刃
それは一つの終わりの光景。
それまで退屈だとすら思っていた穏やかな日々の終局。
彼女の眼前に広がる光景は、この世のものと思えない惨状。
多くの、そう家族同然であった皆が動かなくなっていく。
向かいに住んでいたおばさんは洗濯物を取り込もうとしていたのか、槍で貫かれ布団の中に埋もれていた。
よくケンカした同い年の悪ガキは泣き叫んだ挙げ句、巨大な棍棒で殴打されて動かなくなった。
色々と物知りで、いつも穏やかな笑顔を浮かべていた長老は燃え盛る炎の中で死んでしまった。まるで焚き火でもするかの様にあまりにも無造作に。
「なんでこんなことをするの?」
彼女はその身を震わせながら、母親に尋ねる。
いつもであればどんな問いかけにも答えてくれるのに、母親は答えない。
ただ無言で彼女の小さな身体へ覆い被さっていた。
わかっていた。もう、母親が何も答えてくれない事に。
だって、あんなに苦しい思いをしたんだから。
彼女を軒下に隠すと「絶対にここから出ては駄目よ」と言って母親はその場で大声を張り上げた。全ては彼女を、娘を守る為の行動である。
そんな事しなくていいのに。一緒にいてくれればいいのに。ただそれだけで良かったのに。
「いいか士華、お前だけは絶対に生き残るんだぜ」
優しかった兄はそう言うといつもと変わらぬ笑顔を浮かべて外に躍り出ていく。いつもと違うのはその身にかぶった赤い液体……多量の返り血に自身の流血により朱に染まりし凄絶な姿。
分かっているつもりだった。
彼女とてこれまで外で狩りをした事もあったし、猪や鹿の解体だって兄や父と一緒にやったことだってある。
だから、あんな赤い液体を見たからって、平気だと思っていた。
(でも違った。怖い、怖いよ)
まだ幼さを幾分か残した士華にとって、ヒトとヒトの争い――殺し合いはあまりにも凄惨であった。
士華は母と二人で物置に隠れている。
あまりにも恐ろしくて、目を閉じる。
すると耳に届くのは、金属のぶつかり合う音。それは剣戟の音。
兄は集落でも父に次ぐ剣腕を持っている、だから負けはしない。どんな相手が来たって勝てっこない。
だから、早く帰ってよ。
甲高い金属の音が聞こえるその都度に、そう強く思う。
ぎゅ、と全身を縮こませる。母がそのちいさな身体を包むように抱く。
「大丈夫、大丈夫だからね」
そう優しい声で士華を励ましてくれた。
「ぐあああああああああああ」
絶叫が轟いた。
とても恐ろしいその声が誰のものであるか、士華は即座に理解した。
たった今、…………兄が死んだのだ。
ざ、ざざっ、という足音が向かって来る。
見知らぬ誰かがこっちに来る、自分達を殺しに来る。
「士華、こっちに来なさい」
母は手招きすると軒下を開ける。それは保存食を備蓄する為のちょっとした置き場所。
母は言う「ここに入って」と。
「母さんも一緒に来て」
士華は泣き出しそうな顔で懇願する。彼女とて分かっていた。こんな小さな場所に入れるのは、まだ身体の小さな自分だけだという事に。それでも一人にはなりたくなかった。
「いい、よく聞いて。あなたは守りなさい、何があってもあの【刀】を。何よりもあなた自身を…………」
そう言いながら軒下の蓋を閉じる。ザザザ、足音がいよいよ迫って来る。
「絶対にここから出ては駄目よ」
それが、母の最期の言葉であった。
どの位の時間が経った事だろう。
士華は意を決して、外に出る。
いつしか夜中になっていたらしい。
集落は不気味な迄に静まり返っていた。
月は分厚い雲に遮られ、一歩先すらよく見えない漆黒。それが今、この場所を指す言葉であった。
士華はゆっくりとゆっくりと、歩む。勝手知ったる場所なのに、初めてここに来た様な感覚を覚えた。
べちゃ、ニチャ、という足に感じる嫌な感触は一体何であろうか?
耳を澄ましてみても周囲からはどんな些細な音も、聴こえては来ない。いつもであればあれだけ騒がしい虫や獣達のざわめきも、その生きている息吹きも、何もない。
あるのはただの静寂。
ふと、足元に視線を向けると、そこにあったのはもう動かぬ誰かの成れの果て。
夥しい数の骸が無造作に転がっており、血と腐臭を醸している。
何もいない、と思っていたがそれは間違いであった。
屍になったモノへ群がる蝿が周囲を飛び回っている。
もうここは彼女の住まう場所ではなかった。ここは死に魅入られた死者の住まう地獄。
士華以外に誰もここにはいない。
彼女が持つのは家族から託されしただ一振りの刀のみ。他に何も持たず、ただ彷徨い…………出でる。
「ぐひゃひゃぶぶ、あー、見っけたぁ」
薄気味の悪い声が何処からかかけられた。
思わず振り返ったその先にいたのはまるで壁。
でっぷりと肥えた体躯をした禿頭の男だ。
顔中、いや、その全身は汗で濡れており、士華の嫌悪感を大いに煽る。
「かくれんぼしてたんだなぁ、でもこれで終わりだよぉぉ」
のし、のし、とした足音に地面に沈むその足は、男が歩くのにも不自由なほどの重量である事を示していた。士華は足には自信がある。こんな鈍重な相手に走り負けはしない、そう確信を抱き駆け出す。
案の定、士華と禿頭の巨漢との距離は見る間に離れていく。
「ああーー、だめだめぇ。逃げられやしないんだよぉぉ」
そう声が聞こえた時であった。
ずうううん、という足音が聞こえるや否や、士華の足元が大きく揺らいで勢い余って転倒。
士華はすぐに起き上がらんとしたが異常に気付く。
手足が動かない。
何が起きたのか、と顔の真横にあった手を見ると、その手首がナニカに掴まれていた。
それは”泥”。あろうことか泥が輪っかの様な形を取って士華の手首を押さえていたのだ。
士華は自分に起きた異様な状況に「な、なにコレ?」と怯える。
「いったでしょぉぉ、逃げられやしないってさぁぁ。オイラの【泥人形】からはさぁぁ。
さーってとぉぉ、お嬢ちゃんどうやって殺してやろうかなぁぁ」
ぐひひ、と不気味極まりない笑い声と共に巨漢がゆっくりと迫り来る。
士華は心から怖かった。あの気色悪い男ははっきりと口にした、殺す、と。
「やだ、死にたくないよ。僕は生きなきゃいけないんだ………」
そうこうしている内に士華は男に掴まれて、持ち上げられる。
「さーて、オイラを愉しませてよねぇぇ」
その異様な光を宿した目の光は、この男が人の皮を纏った怪物である事の、何よりもの証左であった。
それはまだ士華が”目覚めていない”時の事。
彼女はすぐに己に宿りし因襲を知る事になる。
◆◆◆
「さぁ――――来なよ」
士華は気合いに満ちた目で襲撃者達を睨み付ける。
今、彼女の眼前で起こる光景は自分の、数年前見た故郷の惨事を想起させるには充分であった。
普段こそ楽天的で大らかな鮮やかなピンク色の髪をした少女だが、今は違う。
どちらが正しくて、どちらが正しくないのか、そんな事も関係ない。
彼女にはただ許せないだけ。
時に戦いが避けられない、そういう事態が起こり得るのはもう彼女も理解している。
ただ、これは違う。
今、この場で起きているのは一方的な殺戮。
今、彼女がその刀を抜き放つは決して正義感などではない。
「悪いけどさ、今から僕があんたたちにするのは一方的な暴力だ。
………命乞いなら今しな、じゃなきゃ――地獄でする事になるからさ」
対しての襲撃者達からの返答は無言からの弩による矢を射かける事であった。
士華は姿勢を低くし相対する敵の群れへ一直線。
襲い迫る矢を切り払う事もせずに前へ前へと足を踏み込む。
襲撃者達は相手が全く怯まず向かって来る事に、戦法の変更を余儀なくされる。
弩の欠点は一旦射出した後の装填からの射撃迄に手間がかかる事だ。
その威力は折り紙付きであるが、結局は長弓や和弓に取って代われなかったのはそうした不便さからのものである。
彼らは一様に弩を投げ、腰に備えたナイフを抜くと構える。
三条の手の者である彼らはなまじっかな軍隊よりも優秀な集団だ。でなくては肥大化した防人や退魔師に三条家の威光が伝わらないし、下手を打てば呑み込まれかねないからだ。
つまり、彼らはこの京都でも最強の集団である。
イレギュラーこそ扱えなくとも、マイノリティを殺す方法は幾つもある。彼らとて不死ではないのだから。
フィールド、つまりは結界にも彼らは対処している。
だからこそ、三条の手の者にとってマイノリティは単なる異能を持った人間でしかない。
目の前のまだ未成年であろう少女が如何に強かろうとも、怯まないし退かない。
一人が倒れても次が、その次が、と相手へ襲いかかるように訓練を受けている。
彼らは自身を一個の個として見なしており、自我を抱かぬように”教育”されている。
だからどのような命令にも主からのものであれば従うし、疑念も抱かない。
それは事情を知らぬ者から見れば実に恐ろしく見え、それが一種の抑止力となり機能してたのだが――、
それが彼ら、いや、彼にとっての末路を決定付けた。
士華は文字通りに突進してきた。
まるで獣の様に。
そして一切の躊躇なく、その携えた刀を縦横無尽に振るう。
右切り上げ、そこからの左への袈裟懸け、刺突。
その一挙一動が確実に彼を斬り伏せていく。
彼らとて反撃を試みていく。
大型のコンバットナイフは容易く腕を切り落とせる程の切れ味を誇り、そもそも彼らの纏う戦闘服は防弾防刃機能が高いのだ。
だがそれがどうだ。
まるで何の影響もないかの様に、彼女の振るう一刀はその防御等まるで意に返さない。
一陣の風の如く群れを駆け抜けた士華は己が刃である”虎徹”の刀身を振るう。
だが、不思議な事にその刀身には一切の血や油汚れもない。
ただ銀色に妖しく煌めくのみ。
ばたばた、と彼は倒れていく。
彼にとっての幸いは教育の結果、自分達が死ぬ、という恐怖に一切囚われなかった事であろうか。
だが、士華は依然として鋭い視線をしたままである。
何故なら、その視線の先には今しがた斃したのと同様の群れが複数見えたから。
「行くよ、虎徹」
もう相手にかけるべき言葉もない。
相手を”理解した”彼女にはもう躊躇の入り込む余地もない。
ただ真っ直ぐにその自分の手にした”因襲”の象徴を振るうのみであった。