情念
清水寺での変事から二日目の夜が訪れた。
零二は、ここに至り強い焦りを覚え始めていた。
だがそれも無理からぬ事であろう。
何せ今現在、彼は匿われる立場であったのだから。
無論、大人しくしろ、と言われて零二は素直に従う様な性格ではない。当然の様に外へと抜け出そうと試みたのだが。
実際、昨日にしろ今日にせよすぐに士華に見つかり、なし崩し的に結局手合わせをする羽目に陥り、クタクタになるまで戦った挙げ句、今日もまた今の今まで泥の様に眠っていたらしい。
「…………」
零二は横へ視線を移す。
隣に敷かれた布団には士華の寝姿がある。
「はぁ、……ったく」
思わず溜め息が口を突いて出る。
そのピンク色の髪は艶やか。不自然なはずの毛髪の色合いなのに、彼女には不思議とそれがよく似合う。
それに、熱に対する耐性が強い自分は兎も角としても、あれだけ外で動き回ったのに、日焼け止めを塗ってもいないのに彼女のその白い肌には一切の日焼けは見当たらない。
(大方、持ってるイレギュラーの影響なンだろな)
とは思う。そう、零二は横で寝ている少女の能力を知らない。
実際、マイノリティ同士の戦いに於いて重要なのは如何に自身の能力を察知させないか、に尽きると言っても決して過言ではない。
何故ならイレギュラーの正体がバレるという事はつまりは対策を打たれる、という事でもあり極めて不利な状況に陥るからだ。
だからこそ、零二もまた最低限の細工として自分の能力を表向きには炎熱操作としているのだ。
もしも、今の自分が熱操作しか扱えないのだとバレれば彼を狙う者達に間違いなくその点を突かれるのは必定。
例え、自分には士華とは戦う意思がなくても迂闊にイレギュラーを見知ってしまえば、どういった形でその情報が流出するとも限らない。
だからこそ、零二は敢えて士華のイレギュラーについて聞かなかったし、これからも聞くつもりもなかったのだ。
ふと、そんな事を思っていた時であった。
「うう、ん」
そう小さく呻きながらバサリ、と夏布団が外れる。
「ブフっっっ」
零二は思わず目を背けた。
一瞬だったが、布団が外れたそこにあったのは年上の少女のシャツがめくれていた姿だった様に思う。
「落ち着け、落ち着け……」
ううん、と咳払いをしてチラリ、と横目で様子を見るのは、何だかんだ言っても零二も普通の思春期の少年だからだろう。
息を呑む。
士華のシャツがめくれ、腹部が露であった。程よく引き締まった腹筋が見える。
それよりも問題だったのは、暑くて自分でめくったらしく、小さくもなくかといって大きくもない二つの山が、具体的には片側の胸部……下側が半ば露出している事であろう。
「…………」
零二は思わず魅入っていた。
それは欲情した、のかも知れない。だがそれ以上に懐かしさを感じた。
それに素直に綺麗だと思えた。最初の日に本人は否定していたが、野性味溢れるその肢体に、目が釘付けになりつつあった。そう、彼女はどうしようもなく異性であった。
少し手を伸ばせば…………そう、それで触れられる距離。そうほんの少し手を伸ばせば触れられる距離。
くらり、と意識が遠退きそうになる。
何をしている? すぐ側には魅惑的な果実があるのだ、と誰かが囁く様な声がした様に思う。
クラクラ、とした誘惑に身を委ねそうになっている。
零二は、葛藤した挙げ句に手を伸ばしたい欲求が首をもたげ――勝った。そしてゆっくりと手を伸ばそうとして………………、
バッチイイイン。
「あ、え、何?」
甲高い音を聞いた士華は思わず目を覚まして身を起こした。
側にあったリモコンで部屋の灯りを灯す。
キョロキョロと室内を見回すと、部屋の隅っこで体育座りして壁を見ている少年の姿を認める。その両手は自身の頬を挟む様な形で添えられており、恐らくは今の破裂音の様な音はそこから来たのだろう。
「え、えーと。…………何してんのさ、武藤零二?」
「頼む、少しそっとしといてくれ」
真っ赤に染まった零二は何故か小声で、呟く様に言葉を返す。
うん? と士華は首を傾げる。気のせいだろうか、……少し震えていた様に思った。
いつもとは何かが違う、そう思える姿であった。
士華の懸念は杞憂ではなかった。
零二は怯えにも似た気持ちを覚えていた。
実際、思い切り頬を叩いたのは、自分の蒼白であろう顔色を少しでも誤魔化す為であった。
あの時、士華に手を伸ばしたくなった刹那に、彼の理性に視えたモノがあった。
否、視えたとかいうモノではない。
あまりに一瞬でソレが何であったか、分からない。
ただ、刹那で全身が総毛立ち――――震えた。
ただ、これだけは理解した。
ソレはとても恐ろしいモノ。
ソレは決して視てはいけないモノ、なのだと。
ナニカが壊れる様な、正視していてはイケナイ何か。
理性、本能が告げた。
(このままじゃ――――――――――コワレチマウ)
訳も分からず、そうした確信を覚え、そうして。
直後に、己が頬を叩いたのは正気に戻る為の、云わば防御反応でもあったのかも知れない。
でも、何からの?
その答えは今の零二には浮かびそうにも無かった。
「……ちょっくら顔を洗ってくるよ」
零二はそう告げるとゆっくりと立ち上がる。
何故かよろめきそうになるのを堪えて、重苦しい足取りで部屋から出ていった。
「……ちょっとやり過ぎたかなぁ?」
士華は苦笑した。彼女は零二の事を信用していた。
彼女は特殊な環境下で育った。
そこは、一般社会とは違う理に依りて構築された場所。
子供の頃から色々と学んだ。
様々な生きる為の手段。その中には誘惑の術もあった。
オンナの武器、というものを使ってオトコを籠絡する方法というのを聞いた事がある。
もっとも、育った場所でも、また外の世界に出てからも、誰かを誘惑等した事はこれ迄一度としてなかったし、そんなつもりは今後もないだろうが。
思えば、それは不思議な感覚だった。
何故か武藤零二には、初対面の時から普段抱かない何かを感じた。他人とは思えない、何かを。
だからこそ、だろうか。
彼女が自分でも驚く程に無防備な姿を見せても平気であったのも。
これまで、彼女なりに様々な人達と邂逅してきたが、零二に抱いた様な感覚は誰にも感じ得なかった。
それは、敢えて云うなら”親近感”であったのかも知れない。
まだ知り合って僅か数日足らずの関係。
互いに互いの事情等全く知らない。もっとも、知ろうともしないし教えようとも思わない。
それは彼らが決して薄情だからでは、ない。
寧ろ逆であり、二人のその情の深さ故である。
零二も、士華も互いの抱える事情に巻き込みたくはないのだ。
真名は零二が京都に来る前日に士華にこう言っていた。
――多分、お二人は仲良くなりますよ。そんな気がするんですよ。手紙を見る限りでね。
まだ面識もないその相手と自分が何故仲良くなれる等と簡単に言えるのか、と軽い反発をすら覚えた事が遠い昔にすら思える。
だから、初日は自分から迎えに行ったのだ。相手がどういったヤツなのかを見定める為に。
「結局は真名さんの言う通りだったなぁ。何か知らないけど、気が合うんだよね、僕と武藤零二はさ」
苦笑しながら、乱れた着衣を正す。
寝汗でシャツが背中に張り付いており、パタパタと手で仰ぐ。
薄暗い室内は少しジメっと湿気ていて暑さを感じる。
ちなみに冷房は入れていない。
士華はどうも冷暖房の類いが好きではなかった。
不自然だと思えるからだ。
夏は暑いから涼を取る。冬は寒いから暖を取る。当然の事だ、だからそれぞれに涼んだり、暖まったりもする。
だからこそ、色々な知恵がある、湯たんぽであったり、風鈴の音色で気分だけでも涼しさを感じてみたり。そういった事はいいと思う。先人達の知恵を感じるから。
でも、冷暖房にはそういうモノ、……温かみが感じられない。
勿論、決して悪いモノではない、とは分かっている。
ただ、何となく好きになれない。それだけの話だ。
ちなみに零二は、自身が炎熱操作の系統のイレギュラーを扱える為なのか、そのつもりなら体温調節がある程度出来るので暑さも寒さも平気らしい。
汗も全くかかない訳ではないが、他人よりずっと数ないらしいし、そもそも平時の体温が四五度程らしい。
だから、京都のじめじめとした盆地ならではの暑さもあまり気にならないらしい。
だからこそ、寝ている零二を至近距離から観察したのだが、確かに汗をあまりかいていなかった。かいたとしても、すぐにその汗が蒸発していて、これなら本人はまず気付かないに違いなかった。
(そういえば直後に目を覚まして、ビックリされたっけ僕。
顔、真っ赤にしていたなぁカワイイよね、アイツ)
そこで、ふと思う。自分は相手が赤面する程度にはカワイイのかな、と。
あまり考えた事は無かったが、自分は女なのだ。
化粧っ気はないし、汗だって別にそのままだし、正直あまり世間的な女の子には憧れもしない。
お洒落な服だって別に着たいなんて思った事も無かったし、ましてやスカートなんて自分には合いそうにもない。
――お、おいアンタ。オレはオトコで、アンタはオンナなンだからな。もうちょっと、その……気を遣おうぜ。距離感とか、さ。
そう言われたのは、最初の日だったか。
同じ部屋で寝る、と言ったとき零二はそう言った。
思えば、彼はずっとそうだったと思う。
最初の日から自分の事を”異姓”として接してきていた。
(何でだろう、今になって少し……恥ずかしいって思ってる?)
そこで顔をブンブン、と幾度も振る。
自分が何を考えていたのか、顔が熱くなる。でも、それは何故なのかは良く分からない。
だって、初めての感覚だから。
「…………それにしても、おっそいなぁ。何してるんだろ?」
士華は、なかなか戻って来ない年下の少年の事が気になり、部屋を出る。
素足が床を踏み締めるその都度、きし、ぎし、と軋みをあげる。
一番近くの洗面所へ。
「いない、トイレかな?」
そう思い、振り向く。
だが、隣接する個室は暗い上に鍵もされていない。
そこに至り、士華は思い至る。そう言えば、あの少年はどういう格好であったか、と。
いつの間にか、寝る前とは違う格好じゃなかったか。
こんな夜更けに、何で着替えているのだ、と。
「しまった――!」
士華は彼が――既にここにいないと確信。すぐに部屋に戻る。
いざという時の為に、真名から連絡用のスマホを渡されていたのだ。
かくてその夜は帳を広げ……始まりを迎える。
一つの決着に向けて動き出す。