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 それは名状し難いモノだった。

 倒れ伏した己の眼前には、ウジュウジュとした液体、水とは違うモノが蠢いている。

 液体、とは云ってもそれはマトモなモノではない、あれは清らかとは程遠い穢れ、とでも云うべき淀んだ何かであった。

 その見た目は例えるならば…………まさに汚泥ヘドロの様で、不快。異臭が漂っていても不思議ではないだろう。

 そのようなモノが蠢きながら迫って来る。地面に染み込む事もなく、こちらへと速やかに。

 そして、それがこの足を飲み込むのが分かった。

 抜け出そうと思ったが、既に手遅れであった。

 何故なら、抜き出そうにも……もう足自体が消え失せていたのだ。不思議と溶かされた、という痛みは無かった様に思う。

 だが、それが逆に恐怖を誘う。

 汚泥のようなモノは、足を喰らった後に退いた。

 そう、それは…………。

 それは紛れもなく意思を持ちて”生きていた”のだ。

 同時に意識が途切れていくのが分かった。

 最後に思ったのは、どうせ死ぬならこのまま何も感じないのがいい、であった。




「う、ううう。……ああ」

 男が目を覚ました時に真っ先に気付いたのは、呻く自身の声が掠れている事であった。

 目蓋を開くのも気だるい、そう思った。

 全身に力が入らない。これでは何か起きた際にはとても対処出来得ない事は明白であった。

 それにしても、と男は思った。

 最後にいた場所とは明らかに違う。

 自分がいたのは清水寺、その境内にあった地主神社のはず。

 辛うじて自由に動かせる首を、視線を周囲へと向ける。

(そうだ、私はあの小僧に復讐を遂げるべく動いていた。それで、あの三条左京だとか藤原左京だとかいう男の口車に乗せられて……それで――!)

 そこではた、と思い出す。

 そう、自分はあの化け物の餌扱いを受けたのだ。

 あの死に損なった得体の知れない薄気味悪い化け物に足を喰われたのだ、と。

 微かにしか動かなかった腕に、手先に意識を集中させる。

 そうして掛けられていた夏布団をめくり取り、身体を背中を僅かに持ち上げて”そこ”がどうなったのかを確認する。

「ある……そうか」

 ならば夢であったのか、と一瞬思いかけた。

 だがそこでふと思う。ならば、ここは何処で、何故自分はいるのかと。


「あらまぁ、もう起きらはられましたか。思ってたよりも早いお目覚めどすな」


 襖が開かれ、声がかけられた。

 女の声、だが誰なのかは薄暗くて判別出来ない。


「あんさん、確か藤原慎二はんでしたな」

「そ、それがどうした。私に用が有るというのならまずは顔を見せろ、それが筋ではないのか?」

「おやま、確かにそうどすなぁ。なら、……」

 パチ、と部屋にか細いながらも灯りが灯され、何者かの姿が浮かび上がる。

 着物を纏った女性であった。その顔立ちはよく、美人である。

 だが、同時に理解した。この女性は同類マイノリティであると。

「妙、と申します。この京都で防人の取締りを務めている者ですえ、よしなに。

 心配せんでいいです。殺すつもりは最初から有りませんので」


 ニコリ、と微笑む相手から殺意は感じない、もっとも初対面の相手に対して信用は出来ないが。


「なら、何故私はこうなっている? ……真に害意がないのであれば動けなくする必要もなかろう」

「これはまた痛い所を突きはりますなぁ。

 でもあちきには無くても、あなたさんが【藤原】って云うだけで命を狙う者もいるんですぇ?」

 妙はそう言うと、ゾッとする様な凄絶な笑みを浮かべる。

 彼女のまだ二〇代半ばとは思えない程に妖艶で、酷薄さを感じさせるその笑みは彼女が防人、という異能者の集団の長である事をこれ以上なく物語っている。

 同時に否応にも理解せざるを得ない。つまりはこの場で、藤原慎二じぶんには交渉の余地がないのだと。

「……何を望んでいる」

 そう、白髪の男が観念した事を示す言葉を吐くのを待っていたのであろうか、妙はその笑みを柔和なものへと変化させる。

 そして、口を開く。

「あんさんに、手伝って欲しいだけですぇ……」

 その声色はたまらなく怪しい響きに満ちていた。



 ◆◆◆



「おのれ、くそっっっっ」

 苦々しさが込み上げて来るのが分かる。

 思い通りとは程遠い展開であった。

 あの、仏子津(ぶしづ)蓼科(たてのり)という丁度いい贄を用意して、それを器にしてあの”オオグチ”を宿らせて肥やしてから、使役するはずであった。それがどうだ?

 仏子津はあろう事かオオグチを使役せしめた。確証はないが、でなければ清水寺の結界が崩壊を通り越して消滅等するはずもない。

 長い年月、大勢の異能者達が徐々に強めていった末である結界は、現界と異界を分け隔てるモノであると同時に境界である。

 境界とは呼んで字の如くに境目である。日常と非日常を明確に隔て、余計な犠牲を生み出さぬ為の先人の知恵であった。

 それが今や無残にもあの場所にはその境界たるモノが消え失せてしまった。

 退魔師に防人を使って取り急ぎで結界を張らせているが、一日やそこらで何とかなるモノでもない。

 一般人が近くに寄らぬ様に手は打ってはいたが、それも何処まで有効か。

 何よりも問題なのは、巨大な異界への扉がそこに開けてしまっている事だ。

 聖地やパワースポットと呼ばれる場所とは、長年の人々の様々な想いが土地に染み渡る事で場所自体に力を与えてしまう。つまりはふとしたキッカケで異界と繋がりやすくなる。

 そして異界と繋がるという事は、何かがそこに至る可能性と、場所そのものを変容させる可能性をも孕む。つまりは、影響を受けた土地そのものが異界となるのだ。そうなればどういう事態を引き起こすかは想像するだけでおぞましかった。

「それもこれもあの小僧のせいだ」

 三条左京は手にしていた酒杯を叩き付けた。

 思い返さば、あの小僧さえ京都に来なければ、そうしたら事態はこうも悪くはならなかったに相違ない。

 彼は気付かない。自身の思考がおかしい事に。

「オオグチを使役さえ出来れば、この京都を守れるというに」

 今、彼が口にしたのは、守るという言葉。

「くだらないモノ共を全てこの世から消し去れるというのに」

 直後に口をつくのは真逆の意味の言葉である事に、彼は気付かない。

 ズキリ、とした鈍痛が走り、表情が歪む。こめかみを抑えながら、卓上の呼び鈴を鳴らす。

 即座に家人が部屋の外に来るのが分かる。

「う、っっ。薬師(くすし)を呼べ」

 左京は呻く様にそれだけ言う。

 部屋の外からは「御意」という返事が聞こえ、気配は失せる。

 よろよろと立ち上がり、寝台へ腰掛ける。

 偏頭痛に見舞われる様になったのは一体、いつの頃からであっただろうか。

 いつの間にか、酷く頭が痛む様になった。

 気付かば、薬を飲まない日は今や一日とてない。この不快な痛みは少しも回復する兆候すら見えぬ。

 多くの医師やら薬師やらに診せてはみたが、誰とて治せる者はいなかった。

 今の薬師がようやく一時的ではあるが、痛みを緩和する薬剤を調合出来る位のモノだ。


「左京様、薬湯をお持ちしました」

 初老の薬師が盆に乗せて運べしは、薄緑色の薬湯の淹れられた急須。そこから湯呑にこぽこぽ、と注がれるモノの香りには沈静の効能があるのだろう、不思議と苛立ちが収まるのが分かる。

 熱くもなく、冷めてもおらず程よい温度の薬湯をゆっくりと口へと運ぶ。

 お世辞にも美味いとは云えないほろ苦い味わい、だが不思議に心が安らぎを感じる。

「少し横になる。部下には起こすな、とそう伝えてくれ」

「はい、伝えさせていただきます」

 薬師が部屋を辞するのを確認してから、三条左京はふうう、と大きく息をつく。

「少し休まねばな、そうだ。やらねばならぬ事は多いのだから、な」

 呟きながら、目を閉じると即座に寝入った。


 彼は思い至らない、いや思い至れない。

 何故、自分がこうも以前とは違うモノになってしまったのかについて。




 ◆◆◆



「そうだ。それでいい」

 仏子津蓼科は大きく頷いた。

 結果としては悪くはない、そう思えた。

 今、彼の肉体にはかつてなく力が満ち溢れていた。

 それは一重にあのオオグチを体内に巣食わせた事に起因する。

 あの異界からの生き物と彼は今、共生関係にあった。

 そして今、

≪貴様、よいのか?≫

 その共存者から声がかけられる。

「構わないさ、喰らえ」

 その声に応じて、仏子津の肉体が変異。その腕全体がゼリー状へ変化する。

 ビチャリ、とそれが地面へと落ちるや否や、即座に地面へと染み込んでいく。

 液状化したオオグチ、いや仏子津には分かる。

 彼自身が本来持つイレギュラーは、追跡能力トレース。一度目にした相手の位置を一定範囲にいる限り常に把握出来る、というモノだ。

 だが今や、その能力に異変が生じていた。

 彼の追跡、とは言い換えるのならば、目にしたモノを”把握、理解”する、というモノだ。

 それが今、彼は自身の一部と化したオオグチを介してこの寺に巡らされた結界、つまりはこの場を流れる”力の流れ”を感じる事が出来る様になっていた。

 オオグチはと云えばあくまで”捕食”する事で自身を進化させるという能力であり、結界、ましてや場に宿った力の流れは理解出来ようもなかった。

 ただ、オオグチは昨晩初めてそうした力を喰らった。

 そして初めて知った。この世にかほどにも強く、滋味に満ち満ちた贄があったのだという事に。

 それはこれまでに食してきたどんな活きのいい獲物よりも、彼を満たした。

 滅びそうであったこの身が活性化していくのが分かる。

 そして同時に理解した、新たな力が宿らんとしていたのを。

≪どうやら貴様に合った力であったらしいな、全く気に喰わぬ≫

 進化は器たる仏子津へと影響をもたらしたらしい。今や、器たる肉体を介して様々な事が理解出来る。

 この器である貧弱な人間風情が如何に過分な願いを持っているのか。その為に何を目論むのかも。

 それは極めて危険な手段であった。異界からの来訪者である自分達であっても、だ。

 やれ妖だの、魔物だの、怪物だのと色々な呼ばれ方をこれまでにされてきたが、彼らは一つだけ分かっている事がある。それは云わば一種の真理だとも言える。

 この世界には、自分達よりも遥かに強大な存在があるのだと言う事。

 そう、この器たる人間は、文字通りに自身を供物と化してより強大なモノを呼び寄せるつもりであるのだ。


「喰らえ、もっと喰らえ。何もかもを喰らってより大きく肥え太れ」


 既にこの人間の心はここではない、何処か遠くへと向けられているのだ。

 今更、説得などは無駄である。

 それに、

≪そもそもワシも楽しみではあるぞ…………。貴様の望みを叶えし後で呼び寄せしモノを喰らうのがな≫

 彼らにとって、未知のモノを喰らうという事は紛れもなくこれ以上ない快楽であったのだから。

 かくて、清水寺での変事から一日が経過し終える。

 そして翌日。

 事態は動き出すのであった。



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