京都――藤原屋敷にて
零二と士華との手合わせはいつ終わるのか分からないままに、それから更に二時間以上も続いた。
理由は零二にせよ士華にしても互いにイレギュラーを用いる事もなく、あくまで素の身体能力で戦い合ったから。
自身の体内そのものを燃料と化する零二はもとい、士華自身のイレギュラーは決して燃費がいいとは云えない類いなのであった。
だが、その分とでも言えばいいのか。
二人は基本となる体力を意識して日頃から鍛えていたのだ。
零二の場合はとにかく走って走って走りまくる。
士華の場合はその身軽さを活かした街中でのパルクールで。
それは互いにイレギュラーを用いればあっという間に消費される燃料の、……ほんの数秒程度の底上げにしかならないのかも知れない。
しかし実戦とは、その数秒もあれば決着へ至る。
そう思っていたからこそ二人は鍛えていたのだ。
共に良くも悪くも脳筋である。
結局の所、二人の対決は十二時を知らせる時報が鳴り響くに至ってようやく終わりを迎えた。
すっかり泥だらけの姿になった少年少女二人は、この時間で一層意気投合したらしく、最後はずっと笑顔で戦っていた。
シャワーを浴びて、たっぷりと用意された昼食を思う存分に食べた零二と士華は余程疲れたらしく、寝室に入るや否やすぐに寝入った。
そんな二人の少年少女の様子に真名は穏やかな笑みを浮かべる。
壁越しに聴こえるイビキは、零二か士華か。或いは双方であろうか?
「何にせよ、まぁ余程楽しかったのでしょうね」
思い返すと、士華があれだけ楽しそうにしていた姿を目にしたのは恐らく初めてだろう。
漠然とではあったが童心に帰る、とはまさしく二人のああいう表情を指す言葉なのだろう、と思えた。
二人が同じ部屋で寝ているのも、真名はすぐに慣れた。
本来であれば、一〇代の年頃の少年少女が同じ部屋で寝るのは言語道断である。
だが、あの二人に関してならばまず間違いは起こり得ない。
まず一つ、ピンク色の髪の少女は育ちが多少特異なせいか、野生の獣じみた所がある。
具体的に云うのなら、彼女はその小柄かつ引き締まった身体つきに、それから何よりもピンクというその目立つ髪の色も相まってかなり異性の目を引く。
◆◆◆
それは二人が出会って間も無くの事だ。
まだ京都に来る前であちこちを転々としていた頃。
ある街の一角、寂れたビルに寝泊まりした時期があったのだが、そこは周辺でも指折りの不良達の溜まり場であった。
彼らは時折、ビルへ集っては色々と犯罪に近い行為に勤しんでいた。
その晩も彼らはビルに集ったのだがそこには先客が、つまりは士華がいたのだ。真名は生憎買い出しに行っておりその場にはおらず、目の前には見慣れぬ少女のそれもシャツに短パンという寝姿。
自分達は五人、相手は小柄な少女一人。
当然とでも云わんばかりに欲情に突き動かされ襲いかかろうとした。
結果は、真名は呆れて物も云えない状況であった。
士華は相変わらず寝息を立てていた。
ただし、つい十数分前とは明らかに違う要素が一つ。
彼女の周囲には失神した見慣れぬ少年達が転がっていた。
仕方がないので部屋から運び出して事情を聞くと、襲おうと近付いた瞬間、ブッ飛ばされたらしい。逃げ出そうにも既にピンク色の悪魔は回り込む様に出口にいて、あとは…………という事らしかった。
真名は、二度とここに近付かない様に、と念押しした上で彼らを逃がしたのだが、あれだけ怯えていればもう二度とここには来ないであろう。それに彼らはこの辺りでも札付きの不良らしいし、自分達の評判を失墜させる様な話はすまい。
だが実際、真名もまた正直云って困り果てていたのだ。
そう、士華は基本的には多少元気過ぎるきらいはあったが、快活な性格で人当たりは極めて良い。
だから誰とでも比較的容易に打ち解ける。それはいいのだが。
一つだけ問題があったのだ。
それはとにかく寝相が悪いというモノ、それも物凄く。
何せ真名自身、まだ彼女の半径五メートルではうっかり寝る事が出来ないのだ。
どうも無意識で寝ている最中に不用意に近付く相手を本能的に排除するらしい。
一体どんな戦闘マシーンですか、と心の底から思ったのだが、どうにもそういう癖が身に付いているらしく是正を試みた事もあったそうなのだが、結局無理であったらしい。
気を許した相手なら問題ないらしく、真名も数週間経ってようやく大丈夫になったのだ。
(まぁ、おかげで今でも半径五メートルには近寄れませんがね)
しかし、あのツンツンした髪をした不良少年は、その警戒を一晩で突破したのだ。
無論、真名は士華が客人である零二をブッ飛ばしてはならないと思って、初日は二人を離して寝たのだが、気が付くと士華は零二の横で静かに寝息を立てていた。
彼女は寝相が悪いのだが、まさか端から端まで移動するとは思わなかった。
もっとも、零二は気が付いたら真横に少女の寝姿があったのだからさぞや肝を冷やした事だろう。
真名は正直驚いた。
初対面から、士華はあの少年を気に入ったとは言っていたし、確かに思いの外あの二人は気が合ってもいたのは事実だった。
だが、いくら気が合うからとは言ってもまさかここまでとは。
(ま、いい事なのでしょうね。二人にとっても)
さて、と襟を正した和装の青年は、廊下を歩きだす。きしきし、とした床の軋みはこの屋敷が老朽化した事に起因する物ではない。これは敢えて軋みを持たせる事で侵入者の存在を知らせる為の機構だ。
そういう意味では庭の玉砂利の通路も、それ以外に各所にいた無数の鳥の群れも恐らくは同じ様な狙いなのであろう。音による侵入者の露見が目的のこうした備えはこの屋敷が伊達にこの古き都にて権勢を誇りし一族の住まいなのである事をこれ以上なく雄弁に物語っている。
真名が訪れたのは屋敷の主の待つ書斎。
「どうぞお入りください」
軋む音で、客人が到来したのを把握していたのだろうか、真名が襖に手をかける前に向こうから声がかけられた。もしかしたら床の軋む音にも違いがあるのかも知れない。
「では失礼します」
真名が書斎へ足を踏み入れるとそこはちょっとした図書館の様な部屋であった。
床が絨毯敷きの室内は、窓もなくひんやりと涼しい。
本棚が部屋中の壁に広がっている。数は、左右それぞれに二〇程もあるだろう。
整然と四つの列があり、恐らくは蔵書の種別になっているのであろう。
そうした室内の一番奥に主は座っていた。
「しかし、凄い物ですね。流石は藤原一族の邸宅ですね」
さしもの真名も驚きを隠さない。一体どれだけの時間をかければこれだけの書物を集められるのか検討も付かない。
「いやいやお恥ずかしい。これらは私の個人的な趣味でして。
さぁ、……どうぞ奥に」
声がかけられ、真名は奥へと歩く。そびえる様な本棚には文字通りビッシリと様々な書籍が並べられており、とても個人所有とは思えない。そうした物の中でも目を引いたのは世界中の様々な怪異についての書籍。それは陰陽道から始まり、蠱術、諸国の祈祷や呪術に至るまで様々な異能について彼が調べているのが伺える。
と、一冊の書物が目を引いた。
それは”異端探求書”という題名で、かなりの年季モノらしい。
不思議な事に思わず手に取りたい気持ちを抱き、手を伸ばしたのだが、よく見れば下手に触れれば今にも装丁が崩れそうなその状態を目の当たりとして触れるのをようやく躊躇った。
こほん、と咳払いをして気を取り直すと、
「しかし、異能についての本が多いですね。
よくもまぁ、これだけの物を集めたモノです」
と感心してみせる。実際、これは彼の本音であった。
如何に金を持っているにしても、これだけの数の書物を集めてみせるのは並々ならぬ熱意の現れであろう。
真名の言葉と本棚への視線の意味は車椅子の主にも充分伝わったらしい。はは、と小さく笑うと、
「恥ずかしながら、私は異能者ではありません。ですが藤原の血を引くのであれば、決して無知であってはならぬ。そう父から言われていましてね。それに大病を患った事も手伝ってやる事と云えば読書位の物なので、気が付けばこうなってしまいましたよ。おかげで家人達からも本の虫だなんて言われる始末でしてね」
そう照れ臭そうに笑う。
真名はその表情を穏やかな表情だと思った。
双子の兄であるあの三条左京とは同じ顔立ちであるにも関わらず、立場が違えばこうも印象に違いがあるのだと実感する。
思えばあの臙脂色のスーツを纏いし男は生気に満ちふれていた。
憎悪に満ち満ちたあの表情はまさしく怪物、京都では鬼、それも悪鬼と言い表すのが正しいであろうか。
一方で目の前にいるのはまるで生気の感じられない死人の様な青白い表情で、歩く事にも難儀する車椅子に乗った男だ。
「それにしても、本当にお礼を申さねばなりませんね。
昨晩は零二君を預かって頂き、誠に感謝致します。
おかげで彼の身の安全を守れました」
「いえいえ、私に出来るのはこの位の事ですから。
防人は何とか抑える事が出来ましたが、それも時間稼ぎにしかなりませんが……」
「いえ、充分です。何にせよこの状況を何とかしなければなりませんが、やはり三条家の力は大きいのですね」
「ええ、残念ながら兄が狂ってしまったとて長い時を経て構築された三条の保持する権力そのものが揺らぎはしません。
兄がその気ならば、一時的に抑えた防人も再度動き出す事でしょうし、更には……」
そこまでで藤原右京は、言い淀む。
そう、昨晩。清水寺の結界が崩壊という変事の裏である人物が死したのだ。
その名は瀬見、防人と対を為すもう一つの異能者達の集団である退魔師の長老にして元締めであった老女。
彼女が何者かの手にかかり殺された、問題はその犯人なのだが。
真名は険しい表情を浮かべ、問う。
「瀬見老女の件ですが、……犯人はどうなっているのですか?」
異能探偵は、既にこの屋敷に来るまでにある程度の調べはつけておいた。だから、この件がどう推移しているのかは大体分かっていた。藤原右京も、言いにくそうに口を一度つむぐ。
だが、はぁ、と溜め息を付くと、
「ええ零二君が、その犯人だと半ば断定されている様です。
確かに零二君が清水寺に向かう姿は確認されていますし、正直言ってかなり危険な状態に陥りつつあります」
そう正直に答えた。
「今や防人に退魔師にまで狙われている、という事なのですね」
分かっていた事とは言え、その事を改めて口にした真名は頭を抱えたくなった。
つまりはこういう事だ。
京都に於いて、零二の安息の場所は殆ど残っていない。
双方合わせておよそ一〇〇〇と七〇〇もの異能者達。
更に彼らを支持する者達を含めるのであればその数は優に万人を越える人々がこの古都の各所にて零二たった一人を待ち受けているのだ。
「全く…………前途多難ですね」
表情を曇らせながら、真名は用意されたコーヒーを口に運ぶのだった。