同化
最初にその異変を察知したのは瀬見老女であった。
彼女は、己の結界での出来事を把握出来る。
そして今、彼女が結界を展開するこの清水寺にて蠢く何かを彼女は真っ先に感知する。
≪おやおや、これは……何だい?≫
宙を浮いたままで清水の本堂から彼女は様子を窺うべく、視線を向ける。
そこに視えたのは仏子津の姿。
疲労困憊で、フラフラとした覚束ない足取りで、今にも倒れそうなその有り様はまず間違いなく、つい今仕方迄の怪物との融合、いや、乗っ取られた事に由来する疲労でまず相違ないだろう。
何かまだ諦めていない様子ではあったが、ここまで来て彼をここから逃がすつもりは毛頭ない。
≪だが何か妙だねぇ≫
老女は何か得体の知れない物を周囲から感じ取る。
先程から何故か悪寒を感じているのだ。
そして彼女は気付いた。
≪まずいね、これは……≫
看過出来ない事態を予期した彼女が動き出す。
意識を集中させ、この結界で相手を捉えんとする為に。
この結界は彼女の庭であり、手足でもある。
張り巡らす事により、この地より離れる事が出来なくなるという欠点はあるが、それも些細な事だ。
何せ、彼女の結界は強固である。
彼が何をしようと画策しようが何の問題もない……はずであった。
だが、そこに誰かがいた。
一体いつの間に? と思う間もなく老女は動く。ただ指を擦る。それだけの動作で充分。ただそれだけの事で仕掛けは動き出す。
その発動もまた唐突。何の予兆も無く地面が隆起、無数の槍状に変化したソレが周辺に生えて突き立った。
高さは五メートルから七メートル程の土で形成されし槍がそそり立つ様相は、さながらその光景は針地獄であろうか。
もうもう、と立ち込める土煙の中央には卵状の塊がある。
≪さて、どうなったかねぇ?≫
瀬見老女自身は高齢等の問題もあって戦闘能力は皆無といっていい。その為に彼女が前線に出る事は極めて稀である。
だが、それは彼女が戦えない、という結論へと帰結する物ではない。
何故なら、…………彼女には結界と一体化するという異能がある。それは、一度自身が根を張った特定領域を自由に操作し得るという圧倒的な能力。
例え彼女自身には戦闘能力が皆無であったとして、その様な事は些事でしかない。
さて、と一言呟くと老女は意識を集中。
周辺の状況を確認しようと試みる。
大地の槍は強力無比ではあったのだが、周辺の地形を著しく変容させてしまうのが唯一の欠点である。
さっきまで把握していた周囲の景色を変容してしまうが故に、瀬見老女の感覚を一時的に困惑させてもしまうのだ。
(……もっとも、この有り様で誰かがいようとも、まして無事とは思えないけどね)
咄嗟の事であったからか、周囲の光景はさぞや酷い有り様であろう、後始末が大変だと思いつつも、慎重に意識を周辺へと巡らせる。
その時であった。
バキバキ、という何かの破砕音が耳に届き——そして。
ドッ、という感触。
≪う、ぐうう≫
老女は呻き声をあげ、その場に倒れ込む。
激痛を感じて、その痛みの根源へ視線を移し、次にすぐ側でこちらを見下ろす者の姿をゆっくりと見る。
もっともとうの昔に光を喪失した彼女の目は何も映し出しはしない。
だが、肌で感じる。
そこにいるのは尋常ならざる相手である、と。
「ふん、流石だと云うべきだな。致命の一撃であったものを咄嗟に逃れ得るとは、な」
何者かの声が聞こえる。自信に満ち溢れた声であった。
「だが、所詮は殺しについては素人に毛が生えた程度だ。強力な先制でこそあったが派手すぎて追撃もない。実に詰めが甘い」
傲然としたその声の調子から理解出来たのは、この相手が桁違いに強い、という残酷な事実である。
腹部に手を当てると、ドロリとした温かい血の感触。それで腹部に強烈な一撃を受けたのが分かる。内臓を酷く損傷したらしく、かなりの深傷を負わされたのか、身体から急速に力が抜けていく。
ゴホ、という咳と共に血の混じった唾が飛ぶ。
地面は口からの吐血で赤く染まっている事だろう。
彼女の脳裏では様々な考えが巡っていた。彼女は確かに詰めを誤ったのかも知れない。だが、彼女を覆っていた大地の繭は大地を操作し、金剛石並みの硬度にて覆った物。如何に剛力を誇りし者であろうともそう容易く、ましてや一撃の元で打ち砕ける様な代物ではない。
にも関わらずに。この敵はそれをやってのけた。一撃で繭を破砕せしめ、中にいた老女の肉体へ深刻な痛打を与えたのだ。
そこで彼女は気付く。感じたのだ、相手の纏いし尋常ならざる気配に。それは単なる異能者では有り得ない程の強烈な殺意に満ちている。
≪そ、そうか油断したようだねぇ……。そういう事か。
誰かは知らないけど……【契った】らし、いねぇ。人である事を捨てたのか、何の【妄執】に囚われたかは知らないけど…………哀れだねぇ≫
瀬見老女は思う。これ程の力を得るのが可能だというのなら、それはまず自分が思う手段で力を得たのだろう。
ならば、この場でもっとも恐るべきは向こうの神社にいる相手ではなく、今ここにいる誰か。
しかも、恐らくは自分以外の誰も、この恐るべき敵の存在すら知り得ぬのだ。
光を喪失したこの瞳に映るのは誰だろうか?
何者にせよ、かくも見事に自分を欺いた相手。
間近にいる今ならハッキリと感じ取れる。
一見静かに見えて、相手のその内面で蠢く淀み切った精神を。
≪残念だねぇ、あの零二坊やの行く末には興味もあったのだけども……どうもそこまで生きられそうもないねぇ≫
それが老女の最期の言葉となる。
グシャ、と卵でも潰した様な音がし、退魔師達の長であった女性はこの世から消えてなくなる。
その場に残されたのは最早、原型を留めぬ何かの成れの果てと血溜まりだけ。
そしてその惨状を作り出した張本人の男のみ。
月明かりで、暗闇に紛れたその姿が照らし出される。
禿頭の大男、それも夜だというのにサングラスをかけている。
不意にそのサングラスを外す。光を失った右目は濁った色をしており、残された左目にはこの男の凶悪さを示すかの様な光を放っている。
その男、藤原新敷は蔑む様な視線を彼方へと向ける。その先には地主神社があり、恐らくは戦いもそろそろ終わる頃であろうか。
「勝ったとは思わぬ事だ。京都という場所を侮れば怪我では済まん。もっとも武藤零二。この程度で死ぬならば貴様はその程度という事だがな」
それだけ誰にともなく呟くと、その場を後にするのであった。
◆◆◆
ズルズル、としたその足取りは重く、苦しい。
仏子津は今にも倒れ込みそうな身体を必死になって動かす。
ほんの一歩、それだけ歩を進めるのがかほどに困難であろうとは思いもよらなかった。
今更ながらに、己の非力さを痛感していた。
あのオオグチなる異形の怪物は朽ちて消えようとしていた。
だが、一時的とはいえその怪物に身を委ねた結果、今の彼は理解もしていた。
このオオグチとは、本来”群体”で生きる生き物なのであるのだと。
つまりは、元来プランクトンの様な極小サイズの生き物が寄り集まっていく内に何らかの突然変異を起こした存在であるのだと。
つまりは個にして群体、一にして全でもあるのがこの異界の怪物の本質なのだと。
そして仕組みは分からないが、彼らは異界と現界との間で記憶を共有出来る事も分かった。つまりは召喚されるその都度、この怪物はより賢しく――強かになるのだ。
だが、それは仏子津に一つの推測を抱かせる。
それを確かめる為に、彼は今、己が身体を引き摺っていたのだ。
彼が足を運んだのは、清水寺の入口たる仁王門。
ここは清水という一つの異界と現界との境目。つまりは二つの世界を分け隔てる境界線。
「さあ、オオグチ。お前には今一度の復讐の機会をくれてやろう。そしてこちらの願いも叶えろ――!」
そう吠える様に声をあげると、彼は自身の手首を剃刀で切り裂く。バッ、と地面に染みていく。
すると、仏子津の体内に残っていたオオグチの破片が口や鼻、耳からもウネウネと出てくる。
「さぁ姿を見せろ。代わりに力を貸せッッッッ」
すると直ぐに異変が起きた。
何処からともなく無数の小さなアメーバ状の生き物が無数に沸いてくるかの如く、姿を見せる。
そしてそれらは寄り集まっていき――仏子津の体内へと入り込む。
「うぐあああああああ」
絶叫と共に、オオグチは再度現界する。そして、それだけに留まらず……門へと殺到。染み込みながらこの寺に巡らせた結界へと侵食していくのであった。