メモ魔
「…………」
ある部屋の一室にて。
少女は俯いたまま黙っている。
外からの陽射しも大分弱くなってきた。そろそろ日も傾いてきたらしく、空の色が徐々にオレンジに染まり始める。
黒塗りのベンツに乗せられ、神宮寺巫女が連れてこられたのは九頭龍の中心街の外れにあるとある雑居ビル。
鮮やかな桜並木がピンクの彩りを添えているのが目に入る。
そしてそこからは、足羽川沿いの河川敷に設けられた野外ステージが見える。
それは数年前に作られたステージで、度々イベント等で野外コンサートが何度となく開催された場所であり、神宮寺巫女が自分のデビューを電撃的に行うはずの会場だった。
「ディーヴァ、君はここから羽ばたくのだよ。今日、ここから」
目の前に据え付けられたモニターから彼女にそう話しかけるのは派手な紫色の髪をした男。その肌の色は不自然までに黒く日焼けしており、健康的とは到底思えない。
見た目は三十代に見えるこの男こそ、巫女の所属する事務所の現在の社長である”三枝木裕臣”。実年齢は五十代である。
元々は彼もまた芸能人だったらしい。
とは言え、知名度はそこまで高かった訳ではなかったらしく、世間には殆ど認知されてはいない。
この男が頭角を表したのはこの数年。彼は何処から得たのかは分からないが、莫大な資産を持ち、その資金をフル活用。そうして徐々に芸能界でその立場を強めていき、いくつかの事務所の大株主に。そうして今の事務所の筆頭株主から、今では社長になったのだった。
巫女をスカウトしたのは前社長であり、正直言うと巫女は三枝木については最初から何処かいけ好かなかった。
その目は何処を見ているのか伺い知れない。
更に、その言葉は偽りに満ちている、確認した事はないが、巫女にはそう感じられたし、それ以上は感じようとも思わなかった。
まるで自分が汚される様に思えたから。
巫女の思いなど気にもせず、三枝木の言葉は続く。
「君はただ私の言うことを聞いてればいいんだ。分かるよね? 賢い君なら、これ以上は口にしなくても…………」
モニター越しにでも、目を閉じなくとも耳で聞くだけで充分。
この男から出る言葉からは薄汚れた悪意しか感じられない。
その言葉が持つ”含み”についても理解していた。そうでなければ今、ここに彼女はいない。
瞼を開き、巫女は自分のスマホの液晶をジッ、と見る。
そこには一件のメールの文章。
”件名 やぁ、ディーヴァ”
”本文 困った困った。君がここまで手を煩わせるとは思わなかったよ。だから、仕方がないよね? 趣味じゃないけど、添付したファイルを見るといい。君なら分かるはずだよ”
巫女はファイルを開く。
「っっっ」
それは一枚の画像だった。
群集が何処かに集っているらしく、場所は何処かの川原沿い。
彼女はすぐに理解出来た。そこが自分がゲリラライブを行う事になっている野外ステージのすぐ近くだと。
そして、そのほぼ中央に十数人の男女がいる。
間違いなかった。彼らはシスターの運営していた施設で一緒に日々を過ごした仲間、いや家族だった。
今日巫女は、彼らに九頭龍でデビュー記念のゲリラライブをする、と伝えていた。
皆がバラバラになってしばらくして、年長者の一人が巫女を訪ね、老夫妻と暮らすバーにきた。彼女は、巫女にネットで施設の皆と、家族が交流する為のサイトを開設した事を伝えに来たのだった。
その話を聞いた巫女は、持っていたスマホからすぐにサイトを閲覧してみる。
「あっ……皆いるよ」
思わず目頭が熱くなった。
そこでは、施設の皆が定期的に交流をしていた。
嬉しかった、あれ以来どの位の歳月が流れたのだろう。
皆もまた、あれから苦労してきたらしい。
それでも色んな事を乗り越えて、こうしてネット上の事ではあるが集う事が出来る様になったのだった。
巫女は、事あるごとにサイトで家族の皆と交流した。
皆が近況報告しているスレで、自分が今、いい里親の元で楽しく暮らしている事を伝えたり、自分がもうすぐ歌手になれるかもしれない事を伝えた。
皆は驚きながらも巫女を祝福してくれた。
”おめでとう巫女”
”凄いなぁ、応援するよ”
”俺たちでファンクラブ作るからな”
”いつデビュー出来そうなの? 絶対見に行くよ”
”よっしゃ、ならその時の為に皆、貯金しようぜ。日本中の何処でも飛んでいけるようにさ”
たくさんのコメントが投稿され、そのいずれも巫女を手放しに祝福してくれていた。
嬉しかった。離れ離れになってしまった家族の皆がこうして自分の事を応援してくれるのが嬉しかった。
だから、真っ先に伝えたのだ。
来てくれ、とは書かなかった。
皆にもそれぞれの生活があるのだから。無理をしてくれてまで見に来る必要なんかない、そう思ったから。
「…………」
画像ファイルには、皆がいた。
皆、彼女の為に時間を工面して来てくれたのだと分かった。
そしてそれは彼女に選択しろ、という事でもあった。
三枝木はこう迫っているのだ。
従わないのなら、危害を加えるぞ、と。
彼女は、三枝木達が自分をどう利用するつもりなのかは知らなかった。でも何らかの悪事に利用するつもりなのは分かっていた。
彼女の”歌”を何かに。
だからといって、家族を見捨てられるはずがなかった。
だから……選んだのだ。自分を差し出す事で。
「君が物分かりが良くて助かったよ、悪い様にはしないさ。好きなだけ歌うといいよ」
くくく、と高笑いするとモニターが消える。
バタン、と音をたてドアが開かれる。
藤原慎二が静かに彼女を睨んでいた。
無言ではあったが、早く来いと促している事は理解出来た。
(皆、ごめんね。アタシ…………)
神宮寺巫女は椅子を引くと立ち上がった。
◆◆◆
──で今度は何? 面倒くさいから早く教えろ。
桜音次歌音から露骨に不満を示す声が届けられた。
「わりぃ、わりぃ。この埋め合わせはすっからよ。だからもうちょいだけ手を貸してくれ」
苦笑しつつも零二は繁華街を駆け抜ける。
相棒からは、ハァ、と盛大なため息が届く。
──いいから、さっさと言え。
とりあえず協力はしてくれるらしい。
何にせよ助けが必要だった。
「サンキュー」
──え、あんたの為じゃない。面倒くさいからさっさとするだけだし。早く言って……嫌だけど仕方ない。
「へっ、ヒデェなおい。ま、いいや……ンじゃ言うぞ…………」
「マスター、何か分かったか?」
零二は自分にかかってきた電話の相手に開口一番そう尋ねる。
──おいおい、随分切羽詰まってるな。……落ち着け。
マスターはどうやら何かを飲みながら電話をかけてきているらしい、カチャ、カチャと音が聞こえてくる。大方、いつも通りにブラックコーヒーだろうが。
「はぁ、わーーったよ」
年長者のアドバイスに従い、零二は走るのを中断。一度だけ深呼吸してみる。身体から微かに湯気が上がっていた。
零二は汗をかくという感覚がない。正確に言うのであれば、汗自体はかいている。何故なら、汗というのは身体の代謝によって排出されるもの老廃物なのだから。
零二の体温は基礎代謝の高さも手伝い、一般人よりもかなり高温である。
その為に、彼の身体は常に尋常ではない量の汗を排出している。
しかし、彼の排出された汗自体が高温なのだ。だから汗は彼が認識する前に蒸発、気化してしまう。
結果として、汗自体は排出しているものの、零二自身が気が付く前に消えてしまう為に、彼は自分が汗をかいていると実感した事がないのだ。
(ま、どんなに走っても服はサラサラだからいいンだけどよ)
今も全身から立ち上る湯気はその残滓。
他人からは煩わしい汗がどんな物なのか興味は尽きない。
いつかは感じてみたい、そう思った。
それは時間にして僅か数秒の事だったが充分であった。
「もう落ち着いたぜ。……だから教えてくれよ」
零二はゆっくりとした口調で切り出した。どうでもいい事に意識が向いた事で心にゆとりが出来たらしい。
──よし、なら話すぞ。まずあのお嬢ちゃん、神宮寺巫女の事からだ。結論から言うぞ、彼女はまず間違いなく【マイノリティ】だ。どんな系統のイレギュラーを使うのかまでは情報がなかったからこればかりはどうしようもないな。
「…………そ、か」
──お、随分と淡々としてるじゃないか。分かっていたのか?
「……ああ、何となくだけど、ね」
考えてみればすぐに分かる事だった。あの藤原慎二という神経質そうな男がWDの一員であった以上、一般人の少女が相手だったなら、あの黒服達に任せればいいだけの話だったから。
この電話だが、さっき出かける前にマスターこと新藤明海に零二が調査を依頼。新藤が知り合いに今回の件の調査依頼をしていたのだ。
傭兵だった頃に裏社会とのコネを構築した事で、この強面のダーツバーのマスターには、今なお様々な情報が耳に入る。
結果、すぐに分かったのは……藤原慎二について。
あの神経質そうな白一色のスーツの男は、分家ではあるが、あの”藤原一族”の一員だということ。元々九頭龍の出身らしくこの辺りにいくつか不動産を所有している。WDに所属しているのは、ゆくゆくは一族内での立場を強くする為。具体的には、一族内の”暗部”を統括したいらしく、その為の実績作りとして現在は主に関東近辺で様々な工作活動に従事しているらしい。
結果を出す事で各地域のリーダーからの評判はすこぶる良く、どこかの地域のリーダーを委任されるのも時間の問題らしい。
典型的な出世街道を邁進するエリートという事らしい。
そんな男がじかに動くという事が既に標的が一般人ではない、という何よりもの証左だと言え、神宮寺巫女という少女がマイノリティである信憑性を高めていた。
「他に分かった事はねェのか?」
──簡単に言うなよな。お前さんと違って俺はもう随分と前に第一線から身を引いてるんだ。……くたびれるぜ、まったく。
零二は思わず、ウソつけ、と言いたくなった。
彼は知っている。
この自称裏社会から身を引いた楽隠居の大男は未だに毎日一五キロを軽々と走り抜け、ベンチプレスが二〇〇キロを越える事を。
全然いつでも戦闘態勢が出来上がっている事を。
もっとも、それを今つついても無意味なので何も言わないが。
──何で黙ってんだ?
マスターはいつもの調子で減らず口を返してくると思った電話の相手の様子を訝しむ。
「はいはい、とにかく要点を頼むぜ……ご隠居さン」
──何だかトゲのある言い方だな。まあいいか、えっと彼女が所属してる事務所だが、こいつはかなりヤバイぞ。
以前はごくまっとうな芸能プロダクションだったんだが、今の社長になってからは出るわ出るわの大豊作だ。
断言するぞ、こいつは真っ黒だ。こいつを見ろ。
そう言うと一件のメールがスマホに届く。
零二がそれを開くと、そこにはある若手の歌手が変死したという記事が添付されていた。
「コイツがどうかしたンか?」
よくある話だと思った。
その記事によると、ある若手の歌手がデビューで浮かれて舞い上がって、羽目を外そうとしたと結果、ドラッグに手を出して死亡。死因は過剰摂取らしい。可哀想ではあるが、ある意味自業自得だと言えた。
──ま、そういうのが一件だけならな。
「……どういうこった?」
零二は眉を吊り上げた。
──死んだって話はその一人だけなんだが、他にもその前後に事務所から【素行不良】って名目で解雇されたのが、少なくとも六人はいるんだ。
…………これ以上は言わなくても分かるよな?
「その連中は以降【消息不明】ってこったな」
零二の言葉を肯定するように新藤が「ああ」と返す。
つまりはこういう事なのだろう。
彼らはいずれも何らかの【裏側】に巻き込まれたか、知ってしまった為に消されたのだ。
「まだ足りねェな、その三枝木ってヤツの事はどうなンだい?」
零二の問いかけにマスターから返答が遅れる。ガサガサという音から察するに、何らかの書類を探しているらしい。
新藤明海という男はこのネット全盛期に於いて、未だに大事な資料などをPCに保存するという事をしない。
この強面の傭兵はメモ魔である。
バーの厨房は当然、倉庫に、私室にと壁中にペタペタとメモ用紙をピンで止めている。
そこには思い付いた料理のレシピから、取引先への酒などの発注量に、中には裏社会の情報までが、ビッシリと書き殴られている。
その情報は見る者が見れば宝の山なのだが、何も知らない者から見れば、あまりのメモの数に間違いなく圧倒される事は確実な上に、並びに規則性はない為、それを貼り付けた本人にしか情報の在処は分からない。
以前、バーに侵入してきた何処かの組織に繋がる情報屋がいた。
その男はなかなかに凄腕だったが、結局は何の情報を得る事も出来ずに逃げ帰る羽目に陥った。
逃げた直接のキッカケは、夜中の侵入者を寝ぼけた零二が見つけてしまったからだ。
その情報屋は知らなかったらしい、このダーツバーには元傭兵の大男ともう一人、同居人の少年がいた事を。
その少年はナイフで刺そうと試みても、拳銃で撃っても無傷で済むという事を。
零二は寝ぼけたままで相手に一撃喰らわせたらしい。
その哀れな侵入者はほうほうの体で、即日病院に直行する事になったのだった。
大方、使っていないファックス用のコピー用紙に書き殴ったのだろう。スマホの通話時間が確実に増えていく。
思わず欠伸をしていると、
──おお、悪い。見つかったぞ。
と声をあげた。
「ン? ようやくか」
──こいつはどうやら大規模な実験ってやつらしい。
新藤はコホン、と咳払いを一つ入れると話を切り出した。