オオグライ
その刀は彼女がここに来た時に手にしていたモノ。
それは託されたモノ。
大切な人から、託されたモノ。
そしてそれは今や――彼女の血肉でもある。
その銘は”虎徹”。ある後に高名な刀匠となった人物にとって初めて鍛えた刀である。
◆◆◆
「うお、っとヤッベェ」
零二は苦笑いを浮かべると場を離れる。
そう、彼は先日見せてもらったのだ。ピンク色の髪をした年上の少女の本領を。
猛禽類の様な獰猛さを発露させた士華が虎徹を振り抜く。
その刀身はあのオオグチの不気味な肉体をもバターのようにアッサリと切り裂く。それは冗談みたいな切れ味であった。人の身体一つ丸ごと楽に飲み込めるであろうその口が瞬時に分け離れる。
パカ、と真っ二つに分かたれた口からは多量の体液が吹き出す。
零二は「危ねェ」と叫ぶ。
彼には分かっていた、さっきあの怪物を吹き飛ばした際に理解していたから。
士華も、即座に反応。虎徹を縦横無尽に振るってその体液を散らし、その付着から身を守る。そして返す刀で右へと薙ぐ。
オオグチの口が十文字を描きつつ裂けていく。
だが、まだ終わらない。
「ハアアアアアッッッ」
気合いを込めた声をあげるや否や、彼女はそのまま前方へ突進。あの怪物の体内へと突っ込んでいく。
(確かに、これは気味悪いなぁ)
相手の体内を走り抜けながら切り払い、士華もまた相手の異質さを間近で確認する。
「【五月雨】」
士華の虎徹を振るう速度が目にも止まらぬ物へと変わる。
まさに雨のように、無数の斬撃が降り注ぐ。自身の周囲を切り裂きながら士華はオオグチの体内を突き抜けていく。
それはまさしく冗談みたいな速度だと言える。
零二はヒュー、と口笛を吹く。
彼が飛び退いてから僅かに四秒から五秒。それだけの時間で士華は相手の体内を刻みながら突き破るのだから。
彼女が今、何処にいるかは一目瞭然だ。
だって彼女がいるであろう場所は、あの怪物が細切れになっているのだから。
そして零二は再度身構える。その右拳を輝かせ、シャインナックルとする。
士華が遂にオオグチの体内を脱す。
一直線にその身体が無数に切り裂かれ、肉片と化していく。
そこへ零二が突進。
今度はさっきよりも拳へ意識を集中させている。
しかも、相手の体内は既に細切れで、邪魔も入らない。
「激情の初撃――」
拳を叩き込むのは、相手の肉片の中のただ一つ。
狙うモノを零二はさっき目にした。
あの不気味な体内に拳を飲み込まれそうになった際の事だ。
その肉片だけは他とは違い、色が黒かった。そして、どくん、どくんと脈を打っている。まるで心臓の様に脈動していたのだ。
輝く拳は寸分違わず目標へ届く。その瞬間、黒い肉片がジュワワワ、と蒸気をあげる。
≪ぎゃあああああああ≫
悲鳴があがった。それは零二の思っていた通りにあの黒い肉片が相手の急所である事を肯定したも同然。オオグチの細切れになっていた肉片が寄り集まり、急所を包み込まんと蠢動する。
「しゃあああああ」
だが、遅い。零二は相手の黒い肉片をそのまま一気に貫き砕く。
バキン、という石を砕いた様な音。
同時に、オオグチの肉片に変調が起きる。
蛞蝓の様だった肉体が、じゅるり、と音を立てて溶けていく。
同時に、ウゾウゾ、と無数の小さな蛞蝓へと姿を分散させるも、それもすぐに型崩れを起こして液状化していく。
「う、くさっ」
士華が小さく悲鳴をあげる。
零二も口にこそしないがその表情は苦々しく鼻を摘まんでいる。
周囲をとてつもない臭気が覆ったのだ。どうも、あのバケモノの体液やら何やらが悪臭を放っているのだろう。
「コイツ、何喰ってやがったンだよ全く」
鼻声でボヤきながら零二はオオグチだったものの成れの果てから離れていく。
「さて、これで終わりかな」
ようやく臭気にも慣れたのか、士華はそう呟く。
虎徹こそ手にしているものの、その様相からさっきの様な獰猛さは微塵も感じ取れない。
「ったく、危ねェなぁ、もうちょっと遅れたらオレまで細切れになってるぜ」
やれやれ、と言いつつ零二は士華へと歩み寄った。
二人はこの時、己のミスに気付いていなかった。
確かに、オオグチ、という名の異界の怪物は消え失せた。
だが、そのバケモノの残骸から少し離れた物陰に、潜む者がいたことに気付けなかった。
「ハァ、ハァ」
彼が自我を取り戻せたのは、つい先程の事であった。
仏子津蓼科は、あのオオグチを託された際に誓った。
どんな事をしようとも、どんな非道を行おうとも、必ずや目的を果たしてみせるのだと。
彼にはそう、何を犠牲にしてでも得るべき目的があった。
その為であったなら、自分の身などどうなっても一向に構わない。その一念から、異界から呼び寄せた怪物に自分自身の身を委ねた。その結果、彼は一度は存在を抹消された。
肉体は奪われ、精神も押し込まれ、飲み込まれ、消え失せようとした。
だが彼は消えなかった。
それはまさしく執念だった。あのオオグチという怪物に取り込まれながらも己の意識を僅かに、本当に僅かに保ち続けていたのだ。
そして理解した。
自分にあのオオグチを渡した三条左京の思惑を。
あの臙脂色の悪趣味極まるスーツを着込んだ男は、自分を騙したのだと。
◆◆◆
一面に描かれているのは、赤い塗料で描かれた紋様。
ゆらゆらとした淡い光りに包まれた室内の中心に誰かがいる。
それはまるで、幽鬼の類と思われてもおかしくない異様な光を讃えた男だった。
「くそっっっ」
そう言いながら仏子津は床を殴りつけた。
薄暗い小屋の中で彼は一人、儀式を試みていた。
それは所謂禁呪と云われる類の邪なる呪法。
決して許されない、だが叶えたい願いを叶える呪われた技術。
彼には大事な人がいた。
彼女は彼の全てだった。
だが、先日彼女は死んだ。強力な妖が現れた、という事で防人の中でも優秀であった彼女が真っ先に出向き……そして死したのだ。
――いい? 私達は裏の世界の住人だ。だからマトモな死に方が出来なくても不思議なんかありゃしない。
でもさ蓼科、私は死なないよ。貴方を一人になんかするものか。
そう言っていたのに。
だのに彼女は死んでしまった。
自分より、いや、知る限り誰よりも強い異能者だった彼女がだ。
絶望で後を追おうかとも思った彼は、はたと気付く。
(彼女を、生き返らせればいいじゃないか)
それが彼が堕ちたキッカケであった。