喰らうモノ
いつからだろう?
いつの間にか彼は自身の存在を理解した。
そもそも自身は……何の為に存在し得るのか?
よく分からない事だらけであった。
彼は長い間漂っていた。ゆらゆら、とたゆたう心地のよい液体にその身を預けながらただ存在していた。
目映い光に包まれたかと思えば、見知らぬ場所にいた。
そこには元いた心地のよい液体はなく、ただ強い光に一日の半分が照らされる場所。
渇き、乾いて消えていくのが分かる。
「さて、君にお願いがあるのだが」
音が聞こえた。いや、正確には響いて伝わった、が正しい。
彼がその音の生じた所に意識を向けると、そこにいたのは……。
◆◆◆
怪物にあるのはただ”食欲”。
正確には吸収欲とでも例えればいいのだろうか。
ズルズル、と地面を這う様はさぞや無様に見える事であろう。
だがそんな事は別段気にする事でもない。
そもそも彼には手足が本来無かったのだから。
地面を這うのが当然の事だったのだから。
(もう少し、ほんの少し……)
今の彼に見えるのはそこにある”糧”であった。
「う、ううあ……」
気が付くと呼吸が苦しかった。
空を見上げ、ぼお、とした定まらない視点。
意識が朦朧としていたのは、麻酔でも打たれたからかとも思ったが、その考えはすぐに違うのだと理解した……何故ならば。
「あ、ああ――」
自分の手が黒く変色していた。それは自身の意思で強化した黒いそれではない。鼻孔を突く焦げた肉の臭い。そしてそれは目の前の自身の手から漂う事を理解。自分の身に何が起きたのかを思い出した直後。
「あ、ぐがっっっががが」
一気に痛覚が戻ったらしく、全身を例えようもない痛みが襲いかかって来た。ボヤけていた視界も朦朧としていた意識も戻り、あらゆる感覚が戻り、想像を絶した苦痛に悶える。
(そう、だ。私はあの小僧に、この身を焼き焦がされ――)
左手刀が自身の身体を突き通し、そして白く輝き、その輝きが自身の体内で煌めいて、灼き尽くさんと暴れ狂ったのだ。
以前、あの右拳に貫かれ、灼かれたがあの時とも違う。
よくもまぁ生きていたものだ、と思う一方で、沸き上がるのは怒り。あの小僧はトドメを刺さなかったのだ、と理解したのだ。また屈辱を味わったのだと知ったからこその怒り。
肉体は殆ど動かないが、そんな事は知った事ではない。
さっさと傷を癒し、立ち上がるのだ。
立ち上がったら、あの小僧を背後から心臓を掴み出して、目の前で握り潰す。
そして五体を引き裂いて、粉々にする。
(絶対に許さん、この手で殺す殺す殺すぅ)
その執念が実ったのだろうか、彼の微動だにしなかった身体に変化が起きる。傷が少しずつ塞がっていくのが実感出来る。
猛烈な痛みと痒みが交互に襲いかかる。だが、手足に微かながらも力が戻る。
(これで、まだ殺れる)
そう思いながら、ふと気付く。
獲物たる少年が、武藤零二がこちらを見ていると。
いや、違うこちらを見ているのは確かだが、さらに向こうを見ている?
そう漠然と思った時だった。
バリバリ、とした奇妙な音が聞こえた。
それはまるでポテトチップスでも食べている様な音。
まるで煎餅でも囓った様な、いや、何かが違う。おかしい。
身体の足先に力が入らない。これはまるで……そう思い、振り向く。
その目に映ったのは、自身の足を喰らう怪物の姿であった。
「あ、あああ……」
怪物は何の躊躇もなく藤原慎二の足を喰らっていた。
その鋭利な歯が肉へと食い込み、バリボリと骨毎噛み砕かれていく。痛みよりも、出血よりも喰われている、という事実に恐怖心が増幅されていく。
「く、あああああああっっっ――おのれぇぇ」
悲鳴とも罵声ともつかぬ声をあげながら、無我夢中で両手を黒く染め上げると、自身の大腿部に押し当てる。そして、
「あぐあ、あああアアアアアアア」
絶叫しながら黒い手を食い込ませ――ブツビチ、という生々しい音と痛みを堪えて、自身の足を断ち切る。激痛及びに出血が襲いかかり意識が途切れそうになるも、そのまま這いずる様に怪物から離れる。ほんの二、三メートルの距離が精一杯。それでも藤原慎二は安堵する。怪物は逃げ出した上半身よりも、千切れた脚部を喰らう事に執心らしい。
彼は心底恐ろしかった。
これ迄数々の修羅場を潜り抜けた。だが今、彼は心底から恐ろしかった。怪物は一心不乱といった様相で右足を喰らい尽くす。そして、すぐさま左足にも齧り付く。 その様相はまるで昔話等で聞くような地獄の悪鬼を想起させる壮絶な物であった。
≪グアアアアアアアア≫
左足をも喰らった怪物は凄まじい迄の咆哮をあげた。
「あ、あ、あぐ……ご」
その余波をごく間近で浴びせかけられた藤原慎二はその出血及びにダメージの蓄積、そして何よりも恐怖のあまりに失神。
どさ、と倒れるのであった。
ビリビリ、とした凄まじい迄の殺意の吐露は少し離れていた零二と士華にも充分に伝わる。
と、場の空気そのものをも震わせた怪物に異変が生じた。
メキメコ、という音は関節や骨に何か異変が起きた事を物語る。
ぐぎゃああああああ、という喘ぎをあげ、その場で転がり始める。一見すると隙だらけの様相であったが、零二にせよ士華も怪物に何かをするつもりは無い。
「オイオイ……なンだよアレは?」
「うんアレはマズイよ」
二人が動かなかったのは、決して相手を侮っていたからではない。単に動けなかったのだ。
それは最早さっきまでの怪物とは似ても似つかぬ姿をしている。
三メートルはあった巨体は、およそ倍にまで大きくなっている。
全身が湿り気を帯びてヌルリ、としたその姿は蛞蝓の様。
だが、蛞蝓とも違うのはそれには巨大な口がついている事であろう。ダラダラと涎らしき液体を滴らせるそれからは強烈な臭気を漂わせている。それは口だけの怪物。一見すると退化したかの様に見えるのだが、そうではない事は二人は分かっていた。
何故なら……凄まじい迄の殺意が発散されていたのだから。
≪グギャアアアアアアアアア≫
咆哮をあげるとそれは動き始める。
「へっ、来るぜシカ」
「だね喰われるなよ武藤零二」
二人は表情を引き締め、迎え撃たんと身構えた。