扇と吹き荒れる風
ち、と舌打ちしたい気分であった。
今や彼の目算は完全に狂っていた。
臙脂色のスーツを着込んだ男、つまり藤原左京の視線は今、自身の眼前に立つ男へと向けられていた。
「貴様、何のつもりだ?」
そう相手へと問いかける。
彼の視線の先にいたのは、和装の青年。つまりは真名である。
彼はいつも通りに穏やかそうに微笑んでいる。
「はい? ……どうかしましたか?」
真名は、ん? と表情を変えると、そうすっとぼけた言葉を相手へと返した。まるで緊張感の足りない様子だった。
藤原左京の眉間がピクリ、苛立ちで動いた。
彼は今、この場の状況を理解して尚、この笑みを浮かべている。つまりは、この男はこちらを……。
「貴様、私を愚弄するつもりかぁッッッッ」
そう理解し、怒鳴り散らす。
「いえいえ、軽蔑しているだけですよ。三条左京……いえ藤原左京さん」
真名はにこり、と一層穏やかに微笑みながらそう返した。
「おのれ下郎!!」
そう叫ぶと藤原左京は懐から何かを取り出だす。そしてそれを……投げた。
瞬間、何かが真名の身体を突き抜ける。
「ぐ、ううっ」
左肩を射抜かれた、と理解した。
だが、一体何がそれを行ったのかは分からない。
「くくく、分かるまいて」
自身の優位を確信した藤原左京は口角を歪ませ、嗜虐的な笑みを浮かべる。
更に彼は何かを投げる。
その途端、真名の頬をを何かが掠めていく。
「ぐ、見えませんね。何ですか?」
苦笑しながら相手に問う。
相手の苦悶の表情が余程気分を良くしたのか、藤原左京はくく、と笑うと「いいだろう」と答えた。
「これを投擲したのよ」
そう言いつつ懐から取り出したのは、小さな小さな針。
目を凝らさなければまず気付かないであろう程にか細い針。
「成程、見ようと思ってもこれはなかなかに」
思わず真名は、はは、と笑った。
だが、臙脂色のスーツの男の目は笑っていない。
冷徹に、射抜く様な視線を対峙する真名へと向ける。
「この私の邪魔をするとは貴様、何者だ? 誰と繋がっている?」
そう、彼にとって目前の相手はどうでもいい些事であった。
それよりも、防人か退魔師か、どちらに所属しているかで、対応も考えねばならない。
(もっともどちらにせよ、三条の金が無くては痛手を被るのだ。
それにいざとなれば【アレ】もそろそろ使い物になる)
そう思いを巡らした時だ。
ぶわっ、という風が吹き荒れ、身体が大きくふらつく。
そこへ声がかけられた。
「いけませんねぇ。余所見していると……」
そう相手から声が聞こえ、我に返った時には既に事遅し。
びゅおおお、という突風が吹き抜け、三重塔の屋根が崩れる。そしてバランスを崩された藤原左京の身体は突風で吹き飛んでいた。
「な、何いいい?」
辛うじて、三重塔から落ちずに踏み留まる。
彼の視線の先ではその手に扇を持った真名が舞っている。
表情は実に涼しげで、まるで何事もないかの様な所作であり、藤原左京のこめかみにいくつもの筋が浮かぶ。
「おのれ、愚物めが!!!」
怒りの発露と共に針を投げる。それは圧倒的な速度で相手を射抜くはずであった。
だが、
「風よ……舞い起これ」
優雅にすら思えるその所作はまるで能か狂言の様。
扇がフワッと空気をそよいだ――直後に突風が巻き上がり、渦を描きながらつむじ風となる。
か細い針はその風の壁に抗い様等もなく、あっさりと巻き込まれ、消えた。
「お、のれっっ」
逆につむじ風が迫っており、自身の危機を察した左京は屋根から飛び降りる他無かった。
「貴様、一体何者か?」
ガチャン、と屋根瓦を砕いて着地した左京は真名へ問う。
これ程の風を用いる異能者が、防人にも、退魔師にもいたとは記憶にない。
「ああ、私はただの真名。それ以上でもそれ以外でも有りませんよ」
真名の返答はアッサリとしたものであり、それがまた藤原左京の癇に障る。
ワナワナと沸き上がる怒りに身を震わせ、そして――
「は、はははっっっハハハハハハハハッッッッッ」
気でも触れたのか、と思われてもおかしくない哄笑をあげた。
男はひたすら、ただひたすらに笑った。
だが、その様子を窺う真名の表情はさっきより一層険しい。
何故なら肌で感じるからだ。ひしひしとした殺意を。臙脂色のスーツを着た男から発せられる邪気を。
「成程ね、既に貴方自身が【鬼】と化していたのですね」
その言葉に対しての敵からの返答は、無数の釘の雨霰であった。
◆◆◆
怪物は怒りにその身を打ち震わせた。
屈辱であった。それもかほどの屈辱等かつて思い出せない。
その視線の先にいたのは、まだ成人もしているかどうかすら曖昧な少年少女二人の姿。
かつて幾度となく対峙してきた数々の異能者や退魔師、益荒男の様な威厳等欠片も感じない子供が二人だ。
怪物は自問する。そして結論は決まっている。
(かほどの屈辱をワシは知らぬ…………)
許せない、許さない、許してはいけない、許せるものか。
殺す、殺してやる、殺すしかない、殺さねば許せない。
同じ意味を持つ数多の言葉が脳裏を駆け巡り、そして――
≪ウグオアアアアアアアアアアアア≫
怪物はその怒りを発露させた。
凄まじいまでのその咆哮は、空気を震わせ、ミシミシ、と近くの木を倒す程の音量であった。
「あー、うっせェ。もうちょい静かに出来ないンかよ、あのバケモノはさぁ」
零二は半ば呆れた様子で相手の姿を一瞥、横にいる士華へ視線を向けた。
ピンク色の髪をした少女はというと、ビュオン、と刀を一振り。血を払っていた。
不思議な事に彼女は刀こそ手にしていたが、何故か鞘を手にはしていない。
そう、彼女は日本刀を扱うのだが滅多にその鞘を見せる事は無いらしい。理由は彼女にとって相棒である刀は、当然普段は鞘に収まっているのだが、鞘から解き放った後で、すぐにしまってしまうからだ。
零二もこの三日で横にいる年上の少女の腕前を、それはもう充分に把握している。単純に言って零二自身が全力で戦っても恐らくは勝てるかどうか……。それ程の凄腕であった。
そうこうしている内に彼女は背を向けていた。そして、零二へと振り向くとそこにはあの刀は何処にもない。
こほん、と咳払いを一つ入れると士華が口を開く。
「さってとぉ、僕は少し休憩休憩。武藤零二ぃ、後は任せたぞよ、ゴホンゴホン」
ワザとらしく老人の様なその仕草は、どう見ても嘘だと分かる三文芝居であった。
「…………ワザとくせェ……」
零二はうわー、とばかりの何とも微妙な表情を浮かべる。
「えええ、な、何故分かったお主。うぬ、やるな」
「いや、分かるだろうよそりゃさ。ま、いいやオレがアイツをブッ飛ばせばいいンだろ? オッケーオッケー」
手をぷらぷらしながら、零二は前に進み出る。
「ンじゃ、シカは休ンでな。ここはオレが、やっとくわ」
まるで散歩にでも出るかの様な気軽さであった。
≪き、貴様。ワシを侮るか!!≫
怪物は、怒りに身を打ち震わせる。こんな屈辱は初めてであった。
たかが、そうたかが一〇数年、それ位の短し命の小僧っ子と小娘にかくも愚弄されるなど……決して許せない。許してはならない。
≪殺す、絶対に≫
「あー、もういいよアンタ……」
少年は底冷えする様な声を発す。
いつの間にか間合いが詰められて――右拳が輝いていた。
「――つまらねェから、もうブッ飛べよ」
拳が怪物の腹部をアッサリと貫き、吹き飛ばした。
零二は決して何か特別な事をした訳ではない。無造作にただ殴っただけ。
だがそれだけの攻撃でも、怪物の巨体など全く意に介さない。
少年の白く輝く拳はいとも容易く怪物の肉体を砕いた。
≪お、オノレオノレオノレェェェェェ≫
零二の熱により発火した怪物は全身を燃やし、悶える。
有り得ない、そう思った。
異界より幾度も現界したものの、こんな苦痛は初めてであった。
単なる焔ではない。血肉、骨、そして魂そのものすら灼かれる感覚。
(コノママでは消、……える)
そう思った瞬間、言い様のない恐怖を感じる。
幾度も味わった。あの感覚。時に封印され、時に斬られて異界へ追いやられた感覚。
(二度と戻ってなるものか……)
そう思い、必死で思考を巡らせる。
そこで怪物は気付いた、自身が生き延びる手立てを。
そう、答えはすぐ側にあったのだ、と。