思惑
その突進はこれ迄と違っていた。
零二の動きからは一切の迷いを感じ取れない。
一直線に二人の敵へと向かっていく。
≪おのれ小僧めが――≫
異界の怪物は、苛立ちを隠せない。
今、ほんの一瞬とは言え、身体が硬直したのが許せない。
異界の存在である自分がこの世界の卑小な存在の、ましてや小僧っ子如きに……足が竦む等という事を認められない。
彼はこの世界に憎悪を抱いていた。
理由は、彼が幾度も幾度もこの世界に呼ばれては、その都度手痛い目に合わされたからである。
彼は単なる異界から偶然呼ばれる類いの存在ではない。
彼を最初に呼び寄せたのは、今より古代のとある王であった。
彼は自分以外にも無数の異形を呼び寄せる手段を構築しており、それらを用いて多くの伝説を造り出した。
そのお陰でその王以降も彼は度々呼び出される羽目と相成る。
その誰もが彼を都合のよい道具とばかりに扱ってくる。
転機が訪れたのは、何人目の召喚者であっただろうか、その男を隙を見て彼は喰らってやった。
そして、その結果だろうか、彼には知恵がついた。その血肉を喰らう事で餌の記憶のある程度を引き継げるようになった。
以来、彼は呼び出されるその都度、使役者に従う振りをしては相手を喰らってやった。
使役者は実にくだらない考えの為に彼を呼び出す。
それは今、彼が身体を拝借している仏子津蓼科とて同じであった。
彼は大事な誰かとやらを救いたいだの何だのとほざいていた。
だから、その願いを叶えてやるから、身体を寄越せ、と言ったら何も疑う素振りもなく身体を寄越したものだ。
彼は今回こそはこれ迄とは違う結末を迎えん、と誓っていた。
つまりは、使役者の意図等無視し、この世界を蹂躙してみせん、と。その為にも多くの強き者の血肉を喰らうのだ、と。
今の所、その目論見は上手く進んでいる。
彼は様々な知識を得て、更なる力を得る。
そのはずなのだ。
(もう少し、そうだもう少しなのだ)
彼には手応えがあった。あと数人、たったそれだけの血肉さえ喰らえば力を強める事も叶うであろう、という手応えが。
≪邪魔をするな小僧オオ≫
その叫びと共に拳を握り締め――振りかざすのであった。
≪ギニアアアアアア≫
絶叫が轟く、実に嫌な声だ。
不気味な怪物の腹が裂けるのが分かった。
白く輝く手がそれを引き起こしたのだ。横目で見ていたが、まるで熱したナイフがバターを切るかの様に簡単にそれを実行していた。それはまさしく刀剣の様な鋭利さだと言える。
圧倒的であった。
武藤零二がその両の手を白く輝かせてから、状況は一変した。
それまで二対一という数もあって優位に進めていた戦況が、今や完全に逆転している。
それも無理なからぬ事だろう。
あの白い輝きは死を招くものだと、藤原慎二はその身に刻み込まれたのだから。
(あれに触れてはならない、触れれば――)
その思いが男の動きを躊躇させていた。
そして、その間隙を零二は見逃しはしない。
左拳が飛んで来る。フック気味の抉る様な軌道で迫って来る。
咄嗟に顔を反らして躱す。
だが、
「くうっっっ」
呻きが洩れる。理由は簡単で、蹴りが腹部を直撃したからだ。
じじ、とした痛みが頬を刺激する。
それはあの白い手が掠めたから。
実に憎い、そう心から思う。
(あの手だ、あれが私の)
今でも時折、腹部が痛む。
チリ、チリとした熱がここまで届いている。
目の前で白い輝きが煌めく。
ぼう、としたその光を前にして、不覚にも美しい、と一瞬心を奪われ、魅入った。
だが、すぐに思い出す。あの白い輝きに一度この身を灼き殺されかけた事を。
(何を恐れるというのだ? ……あれはそう、単なるこけ脅しに過ぎぬ)
藤原慎二は自身の足が竦む事に強い違和感を感じた。
今、この場を圧倒しているのは自分と、あの何かもよく知らぬ怪物だ。
そう、自身がここにいるのはあの憎き小僧をこの手で殺す為だ。
何もかもを失い、WDから逃亡。命を狙われる事になったキッカケを作った張本人。それが目前にいる小憎らしい少年、武藤零二だ。三ヶ月前に味あわされたあの屈辱を忘れた日は、これまで一日とてない。
(絶対に殺す、そうせねば許せん)
そう、思いつつも、この京都で燻っていた。
とは言え、ここから外に出るのは危険であった。
数々の機密を知っていた彼は追手に狙われつつも、命からがらようやくここまで逃げて来た。それはこの京都が日本でも数少ないWD、WGの影響を受けない地域であったから。
無論、ここが絶対に安全という訳でもない。
幾度もWDの息のかかった殺し屋に命を狙われた。とは言え、彼とてその名を轟かせたエージェントだ。その殺し屋は返り討ちにしたのだが”いつでも狙ってるぞ”、という言外のメッセージのお陰で彼の心が休まる事は無かった。
そうした日々から解放したのが、あの男だ。
三条左京、またの名を藤原左京。
それが男の名前。悪趣味な臙脂色のスーツを着たその男がWDからの刺客の京都への侵入を食い止めてくれた。
彼もまた藤原一族の者だ。九頭龍にあの創元長老が住み着いてから、徐々にそちらへと一族の関係者が移動していく中で、京の都との繋ぎを受け持つ者としてこの地に留まり、やがて三条の姓を承り、以来、長年この地にて影響力を持ち続けている。
その影響力から、防人、退魔師にも顔が利く彼は考え様によってはこの京都の支配者だとさえ言える。
他人の、それも同族の助力は正直嫌な気分でもあった。
だが、彼が機会をくれたのもまた事実。
彼が情報を提供しなければ武藤零二が、この地に来る事を知らないままであっただろう。
藤原慎二は我に返った。弱気になった自身に呼び掛ける。
(そうだ、思い出せ。あのガキを殺すのだ。だから――)
怯むな、と自分自身を鼓舞する。
迷いを断ち切って黒き両の手を構えると、足を摺りつつ――貫手を放つ。それは彼にとってこれまでで最速の一撃と言えた。
狙いは零二の胸骨から肺。そのまま一気に心臓をも貫く。
相手の防御は無視出来る。簡単だ、本当に簡単な事だ。
そのはずだった。
だが、遅かった。
その一撃は相手の手刀に弾かれている。
まるで狙い済ましたかの様な正確無比な左右の手刀は黒く染まりし両手を容易に弾き飛ばし、円を描くようにスムーズに 素早く担い手の脇へと戻る。
そしてそのまま突き出される。
まるで意趣返しと云わんばかりの貫手が向かって来る。
目前に迫るは自身の死。あの輝く拳、いや手が突き立てられればどうなるのかはこの身を持って知っている。
どっ、という音は肉を貫いた音。
(チッッッッ)
零二は瞬間で気付く。相手を倒せていない、と。
貫いた感触は確かだ。
肉を貫くあの何とも言えない感触。
だが、それこそが異常であった。
零二の白く輝く拳、シャインナックルは触れた瞬間にその高熱で水分を沸騰――相手の血肉を蒸発させる。
つまりは、貫いた感触等は無いはずなのだ。
だというのに。
今、確かに相手の肉体を貫く感触をこうして感じる。
必殺の拳で、必殺足り得ない。
(何が起きたってンだよ?)
零二は困惑するしかない。
「ぐあああああ」
呻きながらも相手は後ろへ飛び退いた。
それは無理矢理ではあったが、零二の手から脱する事に成功する。血を噴きつつも、相手は、藤原慎二は健在である。
「一体、何があったのだ?」
苦悶の表情をしながらも彼は何が起きたのかを考える。
間違いなく相手の手はこの身に突き刺さっていた。
痛みはある、まだ出血も止まらない。
だが、不思議な事にあの時の様に全身を灼かれた様な感覚にはならない。
リカバーで傷も塞がっていく。
(何が原因かは分からない、だが、これはチャンスだ)
そう判断した藤原慎二が飛び出す。
さっきまでの様な消極的な攻めから、一転して攻勢に転じる。
その左右の黒き手を振るい、息付く暇も与えはしない、とばかりの猛攻である。
とは言え、零二も譲りはしない。
それらの猛攻を手刀で弾き、反らし、そうして反撃する。
だが、さっきまでの及び腰ではない相手は止まらない。
心理的な不安から解放された為か、動きのキレがいい。
ここに来ての五分五分の状況。
だが、この場にはもう一人? の相手がいた。
怪物は、ほうほうの体で起き上がる。
裂かれた腹部の傷もようやく塞がった。
にわかには信じ難い程の激痛であった。
彼はこれまで幾度も異能者と戦って来た。だが、あんな痛みは初めての事だった。
しかし、確信も抱けた。あの憎き小僧の血肉を喰らわば、力を得るに違いないのだと。
だから、怪物は息を潜め、状況を見守る事にした。
三者三様の思惑が場を巡り、戦いの状況は混沌とするのであった。