少女の秘密
その瞬間、場の空気は一変した。
今にも始まらんとする激突を前に、この場にそぐわない一人の少女がそこにいたから。
激突せんとした二人の視線は相対する互いにではなく、新たな乱入者へと向けられている。
「おいおい、外に出てくるンじゃねェよ」
零二は巫女の姿に思わず表情を歪める。
「……」
巫女は目の前の光景を見て、一瞬何が起こったのか分からなかった。
彼女の目の前にいるのは数人の男達。
自分を追いかけてきた黒服達、それからそいつらのボスだった、いや正確には自分のマネージャーだったはずの藤原慎二。思えば、いつも神経質そうな気難しい表情を浮かべ、とっつきにくい男だった。その両の手は黒く変質していて、明らかに普通ではない。
他にいるのもいずれも人相の悪い男達。多分、マトモな職に付いていないだろう、という事は容易に判断出来た。
それから……自分をここまで連れてきてくれた少年。
その全身には何故か微かにもやがかかっている様に見える。
何よりも目を引いたのは彼のその右拳。
その拳は白く輝いていた。
怖かった、自分の知らなかった”世界”を今、彼女は見てしまった事を実感した。全身に鳥肌が立っているのを自覚する。
一歩、また一歩前に踏み出す度に、震えは収まるどころか、寧ろ強くなっていくのが分かる。自分の本能がこう警告している様に思える”いいから逃げろ”と。
まるで自分が生まれたての子馬にでもなったかのように足元がおぼつかない。自分の足が自分のものじゃない様にすら思える。
たった二十メートル、それだけの距離を歩くのがこれほどに長く、困難だと思ったのは初めての事だった。
今まで自分が見てきた世界が、ガラガラと音を立てて崩れていく感覚。
空気が徐々に熱くなっている。湿気がなくなっていく。喉が乾く。
まだ春先だというのに、ここだけが突然真夏の炎天下の様に暑い。
汗が背中に、額に滲んでいく。
他の人々も同様に汗をかいている。例外なのは白スーツに身を包んだ藤原慎二。うっすらと汗をかいてはいたが、彼は動ずる様子もなく、巫女と零二を交互に注視している。
真夏の様な熱気の、その中心にいるのは自分の事を助けてくれた少年、零二。
不思議な事に彼だけはその顔に一切汗をかいてはいない。
初めての経験なのに、彼女には分かる。
この熱、暑さもまた”彼”なのだ、と。
「来るな」
零二が叫んでいるのが聞こえる。
違う。そう、彼女には”感じられる”のだ。
いつの頃からだっただろう。
あれはまだ、彼女がシスターの元にいた頃。
ある日、当時近くにあった公園にいた時の事だった。
その日は晴天で、陽射しがとても心地よかった。
だから何のけなしに、公園のベンチで子供だった彼女は、目を閉じて寝そべった。
すうと何故か声が聞こえなくなった。
公園には巫女以外にも多くの子供達がいたのに。
それだけじゃなかった。
心地よかった鳥の囀りまで、何も聞こえなくなった。
怖かった、とても恐ろしかった。
ただ目を閉じただけだったのに、世界の何もかもが壊れた様な感覚だった。
目を覚ました彼女はすぐにシスターにその事を話した。
いつも優しかったシスターが、あの時だけはいつもとは違って険しい顔をした。彼女はこう言った。
──この事は忘れなさい。
今思えば、あの時にシスターは気付いたのだろう。
巫女の中に眠る”能力”に。だからこそあんなに険しい顔をしたのだ、心配から。
それからしばらくは何事もなく日々が過ぎ去った。
巫女はいつの間にかシスターの言葉通りに、すっかりとあの時の違和感を忘れて、日々を楽しく暮らした。
キッカケは、シスターがいなくなって皆が散り散りになった事だったのかも知れない。
新しい”家”で先にいた住人や、そこを管理する大人達に邪険に、時に”暴力”を振るわれたからかも知れない。
何にせよ、彼女は怖かった。それがあの時の、奇妙な感覚を呼び覚ます。
気が付けば”音”が消えた。
聞こえなくなった。あの耳障りな声が、怒鳴り散らす声が、泣き叫ぶ声が全て。
最初は怖かった。でもすぐに馴れていった。
やがて心地よくさえなった。
一人、目を閉じて部屋の隅でうずくまる。たったそれだけで彼女は、静かな世界がへと入り込めたのだから。
そうしてしばらくした頃。
音が聞こえなくなった代わりに、音を”感じる”様になった。
耳には入らない。でも声を感じる。
それもたくさんの人々の声が一斉に無造作に、無遠慮に、容赦なく叩き付けられた。
彼女は再び怖くなった。
目を閉じれば、音を肌で感じてしまうのだから。
目を開いた景色は、過酷だった。
彼女はまたそこにいた人間達に虐められる。
だから、逃げ出した。
何もかもが嫌になって、逃げ出した。
結果的にそれがキッカケとなり、彼女はあの地獄の様な場所から解放された。
それから何度も里親を変わり、あちこちに預けられた。
思い返せば、どの里親も決して悪い人達ではなかった。
どの家庭でも彼女を本当の娘として扱ってくれたし、優しくしてくれたと思う。
でも、駄目だった。
彼女は只々怖かった、目を閉じるのが。
一度目を閉じたら、またあの嫌な声を、音の塊を、無作為に感じてしまう。そう思うと何処にいても駄目だった。
結果的にどの里親も彼女を扱いきれなくなった。
それも当然だ、巫女は決して心を開かなかったのだから。
心を開こうがそうでなかろうが、彼女の前では意味を持たない。
目を閉じてしまえば声を感じてしまう。
里親だけじゃなく、その周辺の人々の声までも。
怖かった、只々怖かった。嫌で嫌で仕方がなかった。
そうして辿り着いた先。そこがあの老夫婦のいた店だった。
最初こそ、巫女はそこでも心を開かなかった。
どんなに穏やかな笑顔をしていようが関係ない。
どうせ、自分がいない場所では、嫌な話をたくさんしているのに違いない。ヘラヘラとした笑顔の裏で、自分の事を蔑んでいるのに違いないと、そう思った。
でも違った。
目を閉じた感じたのは、暖かい二人の声。
あちこちをたらい回しにされた少女に対する何処までも暖かな声だった。
そしてこの店にはいつも”音楽”が流れていた。色々な歌で溢れていた。
時代がかった古い骨董品の様なレコード盤に、今でもちゃんと動く蓄音機に、時には夫妻の知り合いだという歌手の歌声。店の中で流れるジャズやR&B等の落ち着いた、どこかほろ苦く、優しい音楽は彼女の心に積もり積もった何かを徐々に氷解させた。
気が付けば彼女は、店の音楽に合わせて歌う様になっていた。
最初は、自分の部屋で一人で。不思議と気持ちが落ち着く。
その、彼女の歌を偶然耳にした夫妻が店で一度歌ってみなさい、と奨めた。
巫女は人生で初めての経験をした。
自分の世界が変わった。
人前で歌う事がこんなに心地いいとは思わなかった。
自分の歌が他の人に喜ばれるだなんて思わなかった。
ただ、自分は感じた歌声を自分なりに歌っただけだったのに。
彼女は夢中になった。
こんなに夢中になったのは人生で初めてだった。
夫妻の店で流れる音楽を耳で聞き、目を閉じて肌で感じて、それを自分の口から歌にする。この事に没頭していた。
そうして何回、何十回と歌を歌った。
そうしている内に、いつしか声に怯える事を忘れていた。
だって、巫女は知った。声、音には良いものもたくさんあるのだ、と。
そうして気が付けばスカウトされた。
そこは音楽業界でもかなりの有名事務所で、たくさんの歌手を輩出していた。
彼女は夢や希望を胸に一歩を踏み出し……そして今日からはまた新しい”始まり”のはずだった。
でも、違った。
その声は、偶然感じた。
〈今日は記念すべき日だよ。神宮寺巫女が、我らが【歌姫】のようやく使える目処が付くのだから、な〉
声の主は事務所の社長だった。
何を言っているのかは意味は分からなかった。
でも理解出来た。何故なら社長の声からはハッキリとした”悪意”を感じ取ったから。
だから、逃げ出したはずだった。
(でも……もう決めたんだ、アタシは)
唾をゴクリと飲み込み、巫女は意を決して叫んだ。
「お、おれは戻る! だからもうやめてくれっっっ」
「ほう、では巫女。付いて来てもらえるのだね」
自分の元に来た巫女はその言葉に一度首を縦に振る。
藤原慎二は満足したのか、口角を吊り上げると、構えを解く。
零二もチッ、舌打ちしつつも続く。
「ふはは、残念だったな【深紅の零】。命拾いしたな」
そう言いながら、自分の側に来たピンクのパーカーを着た少女の手を掴むと、強引に引き寄せつつ、その場を立ち去る。
黒服達は最後まで警戒しながら、やがてその姿を消した。
「クソッタレがッッッ」
残された零二は、怒りのあまりに地面に拳を叩き付けた。
◆◆◆
「何で行かせたンだよ、マスター?」
零二の怒りは収まらなかった。
バーに戻ってくるなり、ヤケ食いでビーフシチューをおかわりし、おにぎりを三個平らげ、皿を洗って、今はカウンターに突っ伏している。
「仕方ないだろ? 彼女は自分から行くって言ったんだ。お前さんの言葉を借りるなら、自分の自由でな」
新藤はいつも通りにグラスを磨きながら諭す様に語りかける。
それに対して零二は突っ伏したまま、無言を貫く。
キュキュッ、としたグラスを拭く音だけが店内に聞こえる。
外の、通りの騒ぎは収まった。
新藤がご近所に笑顔で「黙っててくれよな」と話しかけた。
この界隈では、元々零二が来る前からこの筋モノ顔負けの迫力に貫禄を併せ持つ強面の大男には決して逆らうな、とい不文律があった。
それは 彼が傭兵として世界中で転戦してきたからだけではない。
この新藤明海という男は傭兵となる前、まだ青年だった頃からこの繁華街に住んでおり、常人離れしたその強さから畏敬の念を持たれていたからだ。近所の揉め事にも最近は零二が暴れるのでわざわざ彼が出張る事も無くなった。
今でこそ丸くなった様に見えるこの元傭兵のバーのマスターだが、彼は、この九頭龍という経済特区にあるこの繁華街の顔役であり、重鎮。手出し無用の存在、アンタッチャブルだったのだ。
「いいかこれは俺の独り言だ」
新藤はそう切り出すと話を始めた。
「神宮寺巫女って歌手が今日、九頭龍でゲリラライブをするらしいが、どうもキナ臭い話が上がっている」
零二は微かに顔を上げた。
「彼女は白だが、その事務所、とりわけ社長がかなり怪しい奴らしくてな、表向きは前社長から社長職を譲り受けたって事なんだが、どうやら裏でかなり際どい手段を用いて半ば脅迫したって噂が当時からあったらしい」
「…………」
「で、今の社長になってから事務所の方針が転換された。具体的に言うと、それまで契約してきた歌手を唐突に契約解除し、放逐。代わりに各地でスカウトした少年少女をデビューさせ始める。それでその少年少女が売れる」
「じゃあ、問題ねェじゃないかよ」
「まぁ、聞けって。ただその一方で、だ。その新人歌手の周辺には常に黒い噂も付きまとってるらしい。やれ、スポンサーにヤクザ者がいるとか、やれ、妙ちくりんなパーティーが毎晩開かれてるとか、やれ、【WD】とかいう正体不明の連中が蠢いているとかってな」
「……っっ」
「言っとくぞ、零二。俺はお前さんよりも長い時間裏社会に近い所にいるんだ。だから、WDってのがどういう連中かは大体知ってる」
「…………」
「だからお前さんが連中と関わってるって知った時は驚いたぜ。何せ悪名高い連中の一員なんだぜ、こんなちんちくりんのボウズが」
ガハハ、と笑いながら強面のマスターは零二の背中をバンバン叩く。そこには彼に対する、得体の知れない化け物に対する畏怖等は微塵も感じさせない。
「好きにすればいいんじゃないか?」
「…………いいのかよ、ンな事言っちまって」
零二はこのマスターの無責任とも取れる発言に思わず苦笑する。
「じゃあ、聞くけどよ……お前さんはこのまま大人しく引き下がっちまうのかよ?」
新藤は真っ直ぐにカウンターに座る少年の目を見据える。
対する零二も真っ直ぐに見据える。マスターの目はこう言っている、な訳ないよな? と。
「ったく、知らねェぞ。どうなっちまってもよ」
やれやれ、とばかりに肩を竦めて、零二は頭を掻きながら苦笑した。自分の中のモヤモヤした思いが払拭された気がした。
「ま、いいんじゃないか。自分のしたい事を【自由】にするんだろ? お前さんのいる組織ってのはよ……ほらよ」
そう言いながら、強面のバーのマスターはコーヒーの注がれたカップを差し出す。いつも通りのブラックコーヒーからは淹れたての香ばしい香りを漂わせる。
零二は鼻孔を刺激する香りを堪能し、一気に飲み干す。
「へっ、当然だろ。よそもンの思い通りにはさせねェさ」
そう言うと、席を立ちドアを開く。そして、カラカラン、と音を立てながら出ていく。
「おう、お前さんの好きな様にするといいさ。でな、あの子を連れてこいよ。まだビーフシチュー食べてないんだからよ、あの子はな」
新藤はそう声をかけると、いつも通りに店の開店準備に戻った。零二がここに戻ってくる事を彼は確信していた。




