奮闘
くっく、と男は笑う。
藤原慎二は仏子津蓼科に、いやその身に巣食う異界の怪物へ声をかける。
「さぁ、手を貸そう異界の偉大な主よ。どうだ? 共にあの小僧の首を取ろうではないか」
≪フム、何故ワシが貴様如き者と合力せねばならないのだ?≫
「これは異な事を仰る。聞けば貴方は長き時を生きてきたと聞き及びます。幾度となく異界より現界にその姿をお見せになり、その力を振るわれたとも。
ですが、貴方はその都度に防人やら退魔師によりこの世界から追われ、封印された。その理由は御存知のはずだ。
【貧弱な器】が貴方の力を行使するには弱過ぎた。それを補う為に多くの血が必要なのでしょう?
であるからこそ、この数日。夜な夜な異能の力を持ちし者を狩り、血を奪い、力を蓄えたはずだ。そして今……目の前にはこの数日分等及びも付かない程の強い【血】を持った獲物がいるのですぞ。 ……よもや、おめおめと逃げ出すとは云われますまい?」
藤原慎二は、つらつらと演説でもぶつかの様にそう相手へ声をかける。相手に程よくへりくだりつつも、自身を卑下もしない。
間が空いた。
それは時間に換算してほんの二、三秒だろうか。
怪物はその口を動かし、鷹揚な口調で返答する。
≪……よかろう。だが、覚えておけ。
貴様如きの言葉に従うのではない。この場から離れる事で臆病者との謗りを受けるのが気に喰わぬからだ≫
そう言うと、仏子津蓼科の肉体に変化が起きる。
メキ、メコと異様な音を立てながら、華奢な肉体が即座に膨張していく。その過程で先程までの零二の攻撃で負っていた傷も塞がり、回復していくのが見て取れる。
「へっ、上等だぜ」
零二は鼻を鳴らしつつ、そう言い放ちこそしたが、同時に自身の不利を悟ってもいた。
目の前には二人? の敵。
一人は藤原慎二、かつて戦った男。その実力も覚えている。あの時は勝利こそしたが苦戦した事も事実。決して油断出来ない相手である。
そして問題はもう一方だ。
仏子津蓼科、という男の身体に寄生した怪物は今や、その本性を露にしようとしていた。
その巨大な口に見合うだけの巨躯へと変異を遂げた怪物。
三メートル近い体長と、恐らくは四〇〇はあろう重みのある筋肉。青白い肌に、体毛の類いは一切生えておらず、何よりも目らしきモノがそれには付いていない。
この異形と呼ぶに相応しい化け物はまだ未知数の部分がある。
それを加味すると、この状況下で零二が取るべき選択肢は、本来であれば即時撤退であっただろう。
だが、武藤零二という少年の選択肢に、それは無かった。
無論、彼も死ぬのは嫌に決まっている。
勝ち目が絶望的に無いので有れば、或いは逃げたかも知れない。
だが、今。
零二は自身の不利という状況そのものを楽しんでいた。
正確には、こういう状況下に置かれる事を期待していた。そう置き換えても良いのかも知れない。
それは狂気の沙汰、と云われても何らおかしくない考え。
だが、零二にとってこの今の現状は望む所でもあったのだ。
(そうさ、オレぁのぞンでいた。窮地ってヤツを……あのクソ野郎に勝つ為に)
思い浮かぶは、つい先日の苦い敗北の光景。
為す術なく破れ去った惨めな自分の姿。
あの男、藤原新敷のこちらを見下した視線。
あの男には何もかもが通じなかった。自分の全てが通じず、あえなく破れた。
屈辱だったのは、あの男は敢えて自分を見逃したというコト。
殺す気なら即座に殺す事は出来たのに、あの禿頭の大男は自らその場を去ったのだ。
だから、零二は心から欲した……強さを。
(もっと、オレは強くなる。その為にはもっと強い敵と戦う、そンで勝つ。そうさ、コイツは丁度いい機会ってヤツだ)
そう思ったからこそ、零二はこの場から一旦退くという選択肢を除外していた。
この訪れるであろう苦境を乗り越えて始めて、何か掴めるのだ、とそう根拠はないが確信していた。
「くくく、逃げぬか。愚かな小僧だ」
藤原慎二はニヤリと笑う。
≪ワシを侮った事を期待していた後悔させてやろうぞ≫
怪物もまた、自身の優位を悟ってかその口調は鷹揚な物へ戻る。
場に静寂が訪れる。
だが、この場にいる誰もが理解していた。
この静寂がすぐに破られるモノである事を。
三者三様の思惑を交え、睨み合いと相成る。
一〇数秒程の旬順の後、事態が動く。
仕掛けたのは零二。
彼にはどのみち、不利な状況下だ。それに、相手に藤原慎二がいる以上、自分が長期戦に向かない事は知られている。
であれば、狙うは長短期決着のみ。それが結論であった。
全身から蒸気を放出。身体機能を向上させるや否や、いきなりのトップギアである。
「な、ッッッ」
藤原慎二が驚愕する。相手から仕掛けて来るであろう事は予測していた。だが、だとしてもだ。
(は、早い――!)
予想を凌駕した零二の速度を前に反応が遅れる。まさに秒速で零二が間合いを詰め終えるのが見て取れ――その攻撃が迫る。
ガッツン、という鈍い音。高速の右の飛び膝が藤原慎二の顔面を直撃。だが、零二は止まらない。膝を喰らわせると同時に残った左足をも相手に当てるとそのまま蹴り飛ばし――反動で次の相手へ。
「くあっ」という呻きをあげ、元エリートは後ろへ飛ばされるのを怪物は目にした。その次の瞬間には獲物が目前に迫っていた。驚愕する他ない。
「うっらああああ」
気合いに満ちた声と共に繰り出すは渾身の飛び肘打ち。狙いは怪物の口の上、鼻柱。
怪物のあの口での吸引が強烈であろうが関係ない。
それは寧ろ、零二の勢いを増すだけの行為だ。
ガツン、という一撃は狙いを寸分違えずに命中。
≪ぐがっ≫
思った通りに急所の位置は普通の生物と同様らしく、大きくぐらつく。苦し紛れの薙ぎ払いの一撃が襲い来るが零二には問題ない。今の彼には大振りの攻撃など止まって見える。上半身を仰け反る様に倒れ込みながら、相手の無防備な膝を蹴り抜く。
素早く倒れて姿勢を整えると、バランスを崩し、前のめりになった巨体の顎先を跳ね起きながら蹴り上げる。
そうして相手を倒すとそのままマウントポジションを取ると、両の拳を握り締め――鉄槌を振り下ろす。
鈍器の様な連続攻撃が容赦なく怪物の顔面に叩き込まれていく。
一撃毎の威力は然程でもないが、続々と直撃する攻撃を前に、怪物の顔が徐々に変形していく。
「おのれぇぇっっっ」
藤原慎二が抜き手を放つ。その一撃を上半身を反らし、脇を開いて通すと挟んで止める。
そうして身体を前に倒す様に、カウンターの頭突きを相手の額へ。
「うごう」という声を出し藤原慎二の額が割れる。
そこに零二は右拳を叩き付ける。マウントのままでなおかつほぼ零距離からの手打ちではあった。だが、熱操作による身体能力の強化に伴って尋常ではない速度で直撃した一撃は相手を容易に吹っ飛ばす。
立ち上がった零二が怪物の顔に踏みつけを喰らわせ、反動で飛び退く。
「ふぅ、はぁーー」
間合いを取った零二が、出来るだけ呼吸を落ち着かせようと試みる。時間に換算してまだ二〇秒も経過してはいなかった。
だが、既に零二の身体は疲労感を感じていた。
(ち、コイツは結構くるな……)
思っていた以上に体力の消耗が激しかった。
通常の熱操作による身体能力の向上の活動限界時間は三分。
だが、これはあくまでも目安に過ぎない。
車の燃費と同じで、急加速や急停止等の荒い運転は、燃費に悪影響を与える。
今の零二は普段から考慮すれば有り得ない程に無理をしていた。
何故、白き拳を相手に叩き込まないのか?――理由は簡単で常にフルスピードで戦っている今の彼に、その拳を輝かせるの程の余裕がなかったのである。
(ってもな、このままじゃケリ付く前にオレが限界だ)
その判断から零二は全開状態を解除した時だった。
ド、ッッッッ。
「な、にぃ?」
くは、という声を挙げて零二は吐血した。
何故なら、その腹部を何かが高速で貫通していたのだから。
無論、零二は即座にその傷を熱代謝によって回復、止血して、さらには傷そのものを塞いでいく。
それは僅か。本当に僅かな時間で起きた無意識の反応。
だが、それは彼らにとって充分過ぎる程の隙となる。
「小僧ぉッッッ」
藤原慎二の黒い腕刀が零二を捉える。
無防備であった喉を直撃、零二をのけ反らせる。
さらに巨大な拳が傷が塞がったばかりの鳩尾へめり込む。
藤原慎二が前屈みとなる零二の顔面を蹴り飛ばす。
「ぐかっ」小さく呻きつつ、強烈な一撃を貰った零二の身体が吹き飛ぶ。ザ、ザザ、と地面を激しく擦りながら、石垣にぶつかってようやく止まる。
「くくく、どうやら形勢逆転の様だな……深紅の零」
自身の優位を確信した元エリートだった男はニヤリ、と口角を吊り上げるのであった。