もう一人の元締め
≪さぁさぁ、遠慮はいらぬさね。若い者がいちいち細かい事を気にしてはならぬ。座りなさい≫
瀬見の薦めに従い、零二はその場に座る。
するといつの間にか、今度は湯呑みがその場にあった。湯気が漂い、その鼻孔を刺激する香りから察するに中に注がれているのはお茶らしい。
≪さぁ、お飲み≫
ささ、と目の前に出された湯呑みへと手を伸ばす。濃い緑色のお茶を口にすると、色合いに負けず劣らずの濃厚な味わい。しかし、思っていた以上に口当たりは良く、苦さも然程感じられず、爽やかですらある。
「美味いな、コレ」
思わず感嘆の声。
その声に耳朶をぴくり、とさせた老女は、かかか、と乾いた声ながらも満足そうに笑う。
≪うむうむ、素直なのはいいことさね。さ、これもお食べなさい≫
瀬見がまた何もない空に手を伸ばす。すると突如として姿を見せるとその手には木皿とそれに盛られた大量の煎餅。
零二の鼻がピク、と香ばしい香りを嗅ぎ付ける。
その香りの誘惑に腹ペコ少年は食欲魔神と化する。
パリパリ、と小気味いい音を立てて煎餅をパクつく。
その煎餅はまるで焼きたてかの様にまだ温かく、そして美味い。
「うま、うま。婆さン、これマジで美味いよ」
止まらない止まらない。零二の手は休む事なく皿に盛られた大量の煎餅へと伸びていく。
≪いいねぇ、素直なのは良いことだ。さぁ、どんどんお食べ≫
豪快なその食べっぷりを老女はかかか、と笑いながら、楽しそうに眺めているのであった。
そうして数分後。
すっかり小腹も膨れ、満足した零二を横目に。
ゆっくりと老女は口を開いた。
「さて、零二。話をしようかね。何を聞きたいんだい?」
「あ、えーと。……今回の一件でオレが犯人扱いされてるワケを知りたいンだよ……あ、お茶スンマセンッス」
≪そうさね。まず今、京の都で何が起こりつつあるのか?
……そこから説明しないといけないかねぇ≫
「……なンだか長い話になりそうだな」
≪心配は要らぬよ、清水の結界は磐石だ。だから、他の誰かにお前さんの気配を察知する事は叶わぬ。
それに、ここにはたくさんの茶菓子を用意している。言ったろ?
たんとお食べって≫
そう言うと、瀬見は団子と、饅頭の盛られた皿を差し出す。
どれもこれも、出来立てらしくほかほかとした湯気が出ている。
「へっ、じゃ、御相伴に応じるか。……話してくれよ」
そう言いながら、零二は皿に盛られた団子へと手を伸ばした。
瀬見老女は、その様子を穏やかな表情で眺めつつ思う。
(かっか、お前さんは本当に良く似ているねぇ、あの男に。
さて、藤原の。お前さんがここに来たのも偶然ではないのだろうね。何せ、私がまだ生きている内に来たのだからね)
彼女は、にこり、と笑うと話を始めるのであった。
◆◆◆
≪タリナイ、まだ足りナイ……!!≫
ソレは池の中で天を仰ぐ。
彼には果たしたい願いがあった。
それを達する為に方々を走り回り、様々な書物に目を通した。
ソレが、手段を知ったのはつい最近の事だ。
だが、それは外道の手段。
望みを達する事は叶えど、自身の身を畜生に貶める手管。
だが、構わない。
彼には果たしたい願いが有るのだから。
その為になら、自身の身がどれ程に穢れても構わない。
彼は文字通り血の池の中に身を踊らせる。
その池の元になっているのは、つい今しがたこの場で遭遇した防人、それから異常を察して訪れた退魔師達だ。
実に順調に事は推移している。
彼にとっては、武藤零二の存在は渡りに船であった。
あれだけ派手に目立つ相手が京都に来たのは、何らかの超常なる者の意思の介在すら思わせる。
≪果たしてお前の言ッタ通りダ。あの男のオカゲで何もカモが順調ダよ≫
そう、それにあの男の言った通りだ。
あの男は、事態を推し進める為に武藤零二を利用しろ、と言ったが確かに零二に自身の凶行を押し付ける事で、今は本当に動きやすい。
今日だけでこれで一五人を殺した。
それもこれも、武藤零二があちこちを逃げ回り、それを無数の防人達が追い回してるからに他ならない。
零二が返り討った連中を殺し、彼を取り逃がした連中を殺し、そして彼を探し右往左往する連中を殺して来た。
だが、彼には零二が何処にいるのかが大まかにだが分かる。
彼の異能は、一度捕捉した相手の位置を把握する事。
その手段は単純で相手をその眼で、しかと目視する事だ。
だが、ここに来ておかしな事になった。
零二の居場所が判然としないのだ。ついさっきまでは、何処にいるのかは分かっていたのに。今は、まるで靄でもかかったかの様にその存在が希薄で、ハッキリとしない。
彼の異能にも一応制限がある。それは相手を把握出来る時間。
約一日がその制限なのだが、まだ半日位は残っているはず。
だと言うのに、分からなかった。
事態を鑑みて導かれた結論はただ一つであった。
≪ダレかガ邪魔ヲしているのカ?≫
ならば、とソレは歩き出す。
薄ぼけてはいるが、それでも微かに零二の気配がする場所に。
と同時に彼の嗅覚はそこに至るまでに数人の異能者の存在を捉えている。ならば、姿には気を付けなくてはなるまい。
ゴキ、ゴキメキ。
ソレの身体が不自然な音を立てながら急速に萎んでいく、もとい縮んでいく。
優に三メートルはあったであろうその巨体がみるみる内に普通の男の姿へと変わっていく。
「ご、ごほ……ごぼっっ」
姿が変わった瞬間、男はその口から多量の吐血。幾筋もの血が口から溢れ出す。
ハァ、ハァ、と荒い息遣いに青ざめたその顔色は、傍目から見て完全に病人、それもかなりの重病人にしか見えない。
仏子津蓼科仙。
彼は防人の一人にして、この数日夜の京都に於いて、血の雨を降らせた張本人。
彼こそがあの異形の怪物となり、多くの仲間の身体を引き裂き、臓腑をブチ撒け、血を啜った男。
だが、彼のイレギュラーはあくまでも追跡に特化した支援能力でしかない。
では、何故彼にあれ程の戦闘力が備わっているのだろうか。
それは彼が己が目的の為に得た新たな力。
無論、それを得るに当たり、彼は代償を払っている。
吐血、内臓の機能低下、常時感じる倦怠感。それらがその代償。
「う、ごっっ。ごほ」
更に吐血する。身体が死にかけている。
このままだと、彼は持ってあと二、三日といった所だろう。
だが、構わない。
(もう少しだ、あと少しだけ持ってくれ)
そう、彼は代償を払うと決めたのだ。その為に、仲間に手をかけてまで……外道へと進んで落ちたのだから。
「もっとだ、もっと血がいる。……いるんだ」
そう、ブツブツと言いながら仏子津は歩む。
その足元に血を滴らせながら。