もう一人の逃亡者
「な、何だよ……これ?」
粕貝信一がそこに着いた時には、既に手遅れだった。
真っ暗闇の倉庫に足を踏み入れた瞬間、彼は異常を察知する。
漂うのは濃厚な血の香り。それは死の香りでもある。
そして、彼の目の前には、もう生者は誰もいない。
ただ、そこにあるのは力なく倒れ伏した相棒の残骸のみ。
「嘘だろ…………何でだ?」
愕然と膝を付くのが精一杯、頭の中が真っ白になる。
それでも彼の死因を確認すべく近寄る。
つつ、と広がって来た血が指先に触れる。そして、まだその身体には熱が感じ取れる。つまりはまだ、ついさっきまで生きていた、という事だと気付く。口を付くのは「許さねぇ」という怒りの言葉。同時に確信もした、……この殺人者こそが、武藤零二の仕業とされた殺人事件の犯人に違いないのだと。
(まだ、近くにいる――)
そう思うともう居ても立ってもいられない。
急いで外に飛び出ると、肉体を変異。
身長一六〇センチ弱、体重は五〇キロの身体が瞬時に一九〇センチ、体重に至っては一〇〇キロオーバーに変化する。
零二には通用しなかったものの、この巨体となった時の彼の身体能力は握力が一二〇キロ、走る速度は時速六〇キロと相当のもの。
決して弱い異能ではない。
強化された跳躍力を活かしたジャンプで倉庫の屋根に飛び乗る。
そしてそこから周囲を見回す。
相手が誰かは知らないが、車で無いのであればまだ発見も可能なはずだ、そう考えての事だった。
「……くんっっっ」
ならば、と結界を展開する。そもそも、この周辺はつい先刻まで結界が張られていたのだ。だから一般人の出入りはそう多くはない。だからここで動く者がいれば、そいつは容疑者だと言える。
だが姿は、見えない。
気付かれる事は承知であったが、気配すら伺えない。
「くそっ、」と呻き、屋根を殴り付ける。メリ、と音を立て拳が屋根を貫く。
その時だった。
誰かの足音が聞こえる。ペタペタ、とした足音だ。
一人、いや二人だろうか。何にせよ人数等関係無い。
先輩の仇に躊躇する必要など無いのだ。
「誰かは知らないが……いい根性してるぜ」
獰猛に目を剥き、粕貝少年はこちらへと近寄りつつある誰かへ、狙いを定めるのであった。
◆◆◆
「くそっっ、くそ、……くそっっ」
男はそう声を挙げながらヨロヨロとした千鳥足で、街を彷徨う様に歩いていた。
すっかり手入れを怠った男の顔には無精ヒゲが伸びて、髪型もボサボサ。
纏っていたその純白と言っても差し支えの無かったオーダーメイドの高級スーツも、今やくすんでいて、汚れも目立つ。
以前の彼を知る者であれば、今の姿から彼からは以前の様な覇気を喪失したかの様に見えるに相違ない。
事実そうであった。
彼のその目にはかつて宿っていた様な独善的ながらも、ギラつく様な野心の色がありありと浮かんでいた。
その心根では、自身への劣等感に苛まれていようとも、それに強く反発。抗ってみせん、と誓い、あらゆる仕事で結果を残す事で周囲を黙らせて来たのだ。
だが、それが今やどうだろうか?
かつて、男にはある誇るべき異名が付いていた。いや、付けたのだ、と云うべきであろう。
それは自身への鼓舞を込めてそう呼称したのが始まりであった。そんな異名を自称する男に対して、周囲の連中は冷ややかな視線をぶつけて来るのも重々承知であった。
「どうしてこうなったのだ?」
幾度も幾度も自問したものだ。
文字通りに何もかもが破綻してしまった。
以前は愚かだ、と歯牙にもかけずに冷笑していた人生の敗北者どもに自分自身が陥っていたのだから。
「そうさ、あいつだ、あの忌々しい小僧のせいだ」
その理由、いや、キッカケはハッキリしている。
ほんの三ヶ月前に、ある仕事で九頭龍に戻った際の事だ。
あの時に遭遇したたった一人の少年。そいつに出会ってしまったのが、全ての元凶であり、ケチのつき始めなのだ。
「うおっっ」足元をすくわれ、派手にゴミ箱へと突っ込む。
がらがらん、と倒れ込んだ拍子にゴミが散らばり、汚れていたスーツに得体の知れない液体が飛び散り、さらに汚れが増える。
「ははっ、私もここまで落ちぶれたものか」
ゴミまみれとなり、悪臭まみれとなった自分に対して、思わず自虐的な笑みを浮かべる。
顔を手で覆い、ははは、と空虚な笑い声を出す。
「落ちぶれたな、それでもお前は藤原の血を引く者なのか?」
そこに声がかけられた。傲然とした物言いはまるで、そう、かつての自分の様だ。暗がりのせいか、相手の姿は見えない。
「ふん、何だ貴様は? 私に何か用でもあるのか?
言っておくが、私には貴様に用等ない。……さっさと失せろ」
「ほうほう、確かに此方とて負け犬には用件等無いのだが、」
「だったら失せ……」
「――だが、ならお前に挽回の機会がある、と言えばどうだ?」
その言葉に始めて男は相手へ視線を向ける。
大まかな外見は、と言うと中肉中背、年齢は四〇代といった所か。顔は見えない。
ただし、スーツは、その色合いが臙脂色でお世辞にも趣味がいいとは思えない。だが、オーダーメイドの特注であろう事は理解出来た。そんな色のスーツを市販しているとは到底思えない。
ただその目に宿りし光には確固たる強さを感じる。
だから、であろうか。彼はと尋ねていた。
「私はもう一度這い上がれるのか?」
「さぁな、だがお前次第ではある。……ではもう一度尋ねよう。
挽回の機会がある、と言えばどうだ?」
最早、彼に選択肢等浮かばなかった。
今の底辺から這い上がれる、それだけで今は充分なのだから。
「……その話を聞かせろ」
「商談成立という訳だな。藤原慎二、いや【栄光の道】と言えばいいかな?」
「好きにしろ。それよりも――貴様こそ何者だ?」
「今は知る必要など無い。大事な事はたった一つだけだ。
武藤零二が京都に来る、という事実だ。お前が今、こうして落ちぶれたキッカケを作った男。よもや忘れる筈もないな?」
「武藤零二……だと? あの小僧がここに来るのか――!」
「ああ、そうだ。彼はもうすぐ京都に来る予定だ。そういう情報を得ている。これは確定事項だよ。
そう言えば、君は今ええ、とWDから逃亡中なのだろう? だからこそ京都にいる。
ここはWGもWDも根を降ろすことが出来ない数少ない土地なのだからね。
だが、もしも武藤零二を始末出来れば君は何のお咎めもなく、WDに戻れるよ。それどころか何らかの地位すら得る事だって不可能ではない。どうだ? やるかね?」
「…………ああ、やるさ。奴さえ、奴さえ殺す事が出来れば……私は返り咲けるのだ」
それはまるで、これまで湿気って火が付けられていた蝋燭に突然火が灯るかの様であった。
つい、今さっきまでは、そこにいたのはただの落ちぶれた男だった。
だが今は違う。
この場にいるのはその燻んだ目に、確かな火を灯した男。
ゆらり、とゴミ箱から男が立ち上がる。
今やゴミにまみれ、悪臭漂うその男は、かつては藤原一族の中に於いてエリートと呼ばれ、将来を期待されていた。
だが彼は堕ちた。たった一度の失敗をキッカケとして。
その原因は、たった一人の自分の半分しか生きていない小僧に破れたせいだ。
「武藤零二、必ずやこの手で殺してみせよう」
こうして藤原慎二は甦った。
その目にはかつての様な自負はない。
だが、それを補って尚余りある程の怒りが込められている。
「それでいい、駒は多く揃った方が色々と楽しめるのだから、な」
その男はそう誰に言うでもなく、一人ごちると歩き出し、彼を待っていたベンツに乗り込む。
そうして主を乗せたベンツは走り出す。
「く、っくくくく…………ハハハハハッッッ」
一人残された藤原慎二は哄笑する。
つい今さっきまでとは違い、その目に強い復讐心を宿らせて。