疑惑の渦中に
真名が妙からの呼び出しに応じて出かけた後、時刻は午前八時。
「ったくよ、なンで用意してないのさ。卵とかマヨネーズなンて常備品じゃねェかよ、ったく」
「まぁまぁ、落ち着けって。だから今買おうと向かってるんじゃない 。細かい男は嫌われるぞー、武藤零二君」
京都の街を歩く若干キレ気味の少年とそれをなだめすかす少女の二人がいた。表通りは朝で既に観光客や通行人、学生で行き来が多いのだが、一本住宅地へと入ってしまえば人気は思いの外少ない。
零二はよれよれに伸びたTシャツに、ハーフパンツに素足にスニーカー。
士華もタンクトップに短パン、それから彼女お気に入りの髪の色と同じピンクのビーチサンダル。
零二も、士華にしてもそのだらしない恰好及びに髪がボッサボサである事から、ほぼ間違いなく寝起きのままであろう。
ただし見比べれば、二人の様子には違いがあった。士華は元気そのものであったのだが、零二は目の下には隈があって、どうにも顔色が悪い。そう、一言で言えば彼は寝不足であった。
その理由もハッキリしている。
今、零二はそれを言おうか言うまいかで葛藤していた。言った方がいい、と思う反面、だが言ったら何か勘違いされる気もする。
ごく自然にこうして横で歩いている今こそがチャンスなのだとは思うが、なかなか切り出せないでおり、心中は乱れている。
鬱屈した思いを浮かべながら、あー、と小さく言いつつ、後頭部を掻いていると、
「うわっっっ」零二は思わず驚き、飛び退く。すぐ目前に士華の顔があったのだから。
「あのさぁ、僕に何か言いたい事があるんだろ? 言ってみなよ」
と零二の様子から何か察したらしく、彼女から話を切り出してきた。
どうも士華に横にいる客人が何かしら悩んでいるのが分かったらしい。だからこれはチャンスだ、今なら自然に言えるハズだ。意を決して口を開く。
「えー、とだ……」
「うんうん、何?」
「その、さぁ、あれなアレなンだけどさ……」
「どうしたのさ、随分と歯切れが悪いなぁ、君らしくもない」
まだ出会って二日ではあったが、士華からすれば今の零二の様子は明らかにおかしかった。この横にいる少年は物怖じせず、たまに腹が立つ程に態度も大きいはずなのだから。
ふと士華が零二の前を遮ると歩みを止め、ジィーとその目を真っ直ぐに見据える。
その目はこう言っている、言いたい事は今、ここで言え、と。
しばらく沈黙がその場を支配したが、やがて零二が根負け。
はぁ、とため息を入れると口を開いた。
「そのさ、なンとかならねェのかよ」
「ん、何がだよ?」
「あれだよ、あの、…………そのさぁ」
「ああ、もうハッキリしない奴だなぁ。君はもっとこう、言いたい事をズバッという奴じゃないのか? 今日は何でそんなに歯切れが悪いのさ」
「…………わーったよ。言うケドよ……そのさ絶対怒るなよな」
「オーケーオーケー、怒ったりしないから言ってごらんよ。お姉さんにさ」
「はぁ、……寝る時にオレに覆い被さるのをやめてくれ」
零二の脳裏に浮かぶは、この二晩の出来事。
そう、零二が絶賛寝不足中なのは、目の前にいる一つ年上の少女の寝相の悪さに起因していたのだ。
この二晩共に彼女は当初寝そべっていたハンモックから転げ落ちると、下で寝ていた零二に着地。
「ぐえっ」という潰れた声を挙げて目を覚ました零二が気が付くと、目前に見えるは少女の寝姿。艶やかな手足に、鮮やかなピンク色の髪が夜の闇でもその存在を主張している。
顔にはかすかに赤みが指しており、何より温かい。そのやんちゃな見た目に反して決して肉食系ではない零二ではあったが、この距離感は自身の中に眠る何だか凶悪な野獣が目覚めそうで危険であった。
「や、ヤバイぞオイ。起きろよ、なぁ」
「うう、ん……まだまだぁ」
完全に寝惚けているらしく、士華の身体が転がるといよいよ零二の間近にその顔が急接近。その呼気が耳をそっと撫でる様に吹き掛けられる。
「う、わっっっ」
ゾクゾク、としたモノを感じ、込み上げる衝動に狼狽える。
「お、オイ頼むから起きろ、起きろって――――オイ」
零二は隣室の真名には聞こえない様に小声で囁くものの、士華からの返答はスー、スーという静かな寝息のみ。それがいちいち耳元を刺激するのだから堪らない。
「うう、ん」
僅かに声をあげたから、起きたのかも、という淡い期待は彼女が更にさらにごろごろと零二の身体の上を転がっていく事で無残に砕け散った。結局、零二が士華が自分から離れた間隙を突いて逃げ出し、その後も改まらない士華の寝相の前に観念し、最終的には寝室の隅っこに体操座りで固まる事になってようやく不慮の暴発から我が身を守るのであった。
「へぇ、だから君、朝起きたらそんな隅っこにいたんだね」
士華は何て事ないや、と言わんばかりの感想を口にする。
それだけでも既に零二は激しく動揺したのだが、
「ん、で、そんだけ?」
「ああ、そう。――ってなンだよ。そンだけって!!」
うがー、と叫びたい気分となり、思わず突っ込まずにはおれなかった。彼は思う。
この一つ年上の少女からは羞恥心というものが完全に欠落している、そうとしか思えない。
「いいじゃないか、別に減るものじゃなし」
「いやいや、減るよ、オレの神経がすり減ってるから」
「そうかなぁ。別に気にしなければいいだけだよ」
あっけらかんとした様子の士華の様子を前に零二はもう、ハァーー、と盛大な溜め息を付く他無かった。
少しは男と女だって事に意識を払え、と言いたかったが、それを自分から言うと何だか負けた様な気分になる。
「わーったよ。今夜も同じならもう知らね、乳でも尻でも好きなだけオレに押し付けろよな」
そんなセクハラとしか思えない捨て台詞が、彼にとって精一杯の抵抗であった。
「…………」
ところが、てっきり少し位は反発して来ると思っていた少女からは一切反応が無い。
代わりに、
「武藤零二、気を付けて」
緊張感のあるその言葉に零二もようやく気付いた。
いつの間にか、周囲の空気が一変している事に。
「……ちェ、【フィールド】かよ。どうにもこの街にいると感覚が鈍くなっちまうよ」
「無理もないよ、何せ京都はあちこちに無数の結界が張られているんだし。僕だって最初の頃は見分けが付かなくて困ったもんさ」
「囲まれてる、か。士華、心当たりあるか?」
「うんにゃ、特にはないなぁ。っても僕が知らないだけかもね」
「ま、そりゃそうだなぁ。…………オイ、誰だか知らねェケド、姿を見せやがれ!!」
零二は自分達を監視しているであろう、何者かに怒鳴る。
すると、姿を見せたのは零二には見覚えの無い集団であった。
その服装はバラバラで、サラリーマンや学生に観光客まで様々。
ただいずれも共通するは、その視線。
そこから読み取れるのは、こちらに対する”敵視”のみ。
だが、それで充分であった。
誰かは知らないが、歓迎されていないのが分かるだけでも。
零二は知らず知らず笑みを浮かべていた。
向こうがやる気だというのなら、こちらに断るつもりは毛頭無い。多人数だろうが、タイマンだろうが構わない。
「こっちに来てからどうにも調子が上がらなかったンだけどさ、気分転換にゃ丁度いいや……かかってこ――も、ごぶっ」
言い終える前に口を遮られた。
士華が零二の前に進み出る。そして「一体何の用だよ? こんな朝っぱらから身内に向かって随分な態度だね」と声を張り上げた。
それを聞いて零二は小さく、チッ、と舌打ちする。
相手は防人らしい。つまりは士華の仲間という事だ。
つまりは今ここで戦えば、彼女に多大な迷惑をかけるのが理解出来た。
「士華、お前には用事はない。大人しく下がれ」
防人の集団から一人前に進み出たのはサラリーマン風の男だ。
グレーのスーツに眼鏡を掛けていて、一見すると地味で弱々しい印象を与えるが、その視線はただ事ではない。
「へえ、僕に用事がないなら誰に用事があるのさ剛力?」
「知れた事だ。横にいる余所者だ」
「何でさ?」
「彼は武藤零二だろう? その少年には嫌疑がかかっている。この数日で幾度も起きた殺人事件のな」
「へぇ、それは随分と物騒だね。証拠はあるのかい?」
「証拠は彼の身柄を押さえてから調べればいいだけだ。……いいから彼をこちらに引き渡せ」
「断る、といったら?」
「残念だが力づくでいかせてもらうよ」
「そっか、ならいいさ。来なよ……言っとくけど。少しは痛い目に合う覚悟はあるんだよね?」
じゃり、と士華が足を一歩前に出すと、腰を落とし臨戦態勢に。
彼女は、零二を守るつもりであった。まだ二日、それだけの付き合いだが充分だった。ここに来ると聞き、気になった彼女は人づてに彼の評判を聞いた時、返ってきた返答はおおよそ同じであった。
曰く、傍若無人。敵味方関係無く異能を振るい、恐れられているのだと。
だが、実際に対面して分かった。それが全くデタラメであると。
確かに、誤解されやすい態度だとは思う。
好戦的だし、気が短いとも思う。だけど、分かったのだ。
彼は世間と少し違うだけで、自分や周囲と何も違わない。年相応の少年なのだと。
目の前にいる彼らは、零二の事を知らない。だから根拠もなく、余所者であるというだけで犯人扱いしているのだ。話せば分かる、そう思っている。
(だけどまずはこの場を押さえる)
無論、程々にいなしてやるだけのつもりだ。
一応自分も防人の関係者なのだから、命の張り合いはしない。
(それに、これだけ大勢でゾロゾロと動けば目立つはず)
だから少し時間を稼げば、真名か、もしくは元締めの妙辺りから何かしら仲裁が入るはずだ。だから勝算は充分だった。
「いいかい? 君は手を出しちゃ駄目だ。僕が守るか――」
そう、言い終える前であった。
ドン、という衝撃と共に士華の身体が押し出される。
背後からの一撃は完全に不意打ちで、士華は体勢を崩される。
前につんのめるが、足を踏み出し、何とか堪える。
思いがけないその出来事に振り返ると、そこには不敵な笑みを称えた零二がいた。さっきまでとは別人の様な、好戦的な表情を浮かべながら。
「な、何だよ武藤れ……」
「……邪魔だよ、士華さンよぉ」
「何を言ってるんだい、冗談は――」
「――あーあ、仲良しゴッコはここまでだな。オイ、テメーら、オレに用があるってなら捕まえてみろよ――あ、言っとくけどそこのお人好し女は何も知らねェバカだからよぉ、聞くだけムダだぜ」
零二はそう言うや否や、全身から蒸気を発し周囲を覆う。
視界を失った防人達が飛び出す、だがそこには既に零二の姿はない。逃走した後であった。
「ちい、追え逃がすな」
防人達が苛立ちを発露させる中で、
「…………」
彼女は聞いていた。去り際に「わりぃな」と謝罪の言葉を。
「武藤零二、君は……」
庇われたと気付いた士華は、そう呟くのが精一杯であった。
「へッ、どーすっかなぁ」
何が起きたのか、起こりつつあるのかは分からない。
だがどうも厄介事に巻き込まれたのは事実。そう思うと、笑うしかない。我ながらよくよくトラブルに巻き込まれやすいらしい。
「ま、なンとかするさ」
零二はそう独り言を言うと、迫る追っ手から少しでも離れるべく、加速するのであった。