旧態依然
零二と士華が大蛇の妖と戦い、打ち倒した明くる朝。
時刻はまだ午前六時を回ったばかり。
場所は祇園に程近い、恵比須神社。
そこに真名の姿があった。
「ふあーあ……ああ。つらいなぁ、本当に」
如何にも眠そうにその目蓋を幾度もしばたかせ、擦る。
昨晩の会合からまだ数時間。いつもであればまだまだ寝ているはずの時間。
だが、今日はそうも言ってはいられない。
何故ならば…………、
その異変は足を踏み込むとすぐに分かった。
何せ肌で感じる。その異様な迄に禍々しい気配の残滓を。
一般人はせいぜいが何か嫌な予感や寒気を感じる程度だろう。
だが、彼を始めとした防人の面々には嫌でも理解出来る。
ここには間違いなく妖の姿があったのだ、と。
更に敷地内を進み、神社の社殿へと近寄るに連れて行くに従い、淀んだ空気を漂わせる。
「…………」
近付くにつれて、真名の眠そうな表情がにわかに引き締まっていく。
つん、とした鼻をつく臭いは彼にとっては馴染みの香り。
嫌な臭いだ、心底から嫌になる臭い。
その脳裏に浮かぶは、幾度も幾度も繰り返されたはずの光景。
数多くの異形の者を屠り、同時に多くの異能者を始末したあの暗闇の中での日々。
自分の過去を否が応にも思い出す生臭い臭いだ。
彼の一族は古き時代より異界からの侵入者を狩るのがその家業であった。
それと同時に、異界に接触を図る者であればそれが異能者であろうが、一般人であろうが一切の区別なくその命を断ち切って来た。
≪異界に近付こうとせん者を、根絶せよ。一切の禍根を断て≫
それが一族からの唯一無比にして絶対の”掟”。これを守る事こそが自分達の誇りであり、存在意義だった。
だが、いつしか彼はそうした日々の中で、心の中に何かを背負う様になっていた。それは僅かに、だが、確実に日々日々彼を苛んでいった。
そうした中でも彼は掟に従って、狩り続け………その日を迎えた。そう、彼女に出会ったあの日を。
「はぁ、いつまで経っても慣れませんねぇ。この嫌な臭いは」
鼻をつくのは血の臭い。
それはまさしく惨状としか表現出来ない光景であった。
一人は肩口からそのまま斬り捨てられたかの様に身体を断ち切られている。
もう一人は社殿の柱にもたれる様に死んでいる。
そう、一見すると、……まるで眠ってるかの様に。
だが、それは近付くと無理であったのだと容易に想起出来る事だろう。何故ならば、その遺体には頭部が存在していなかったのだから。
「……ありました」
少し離れた所から重々しい声が聞こえ、振り向くと、どうやら失われた部位がそこにあったらしい。
この場には真名の他に数人の関係者が来ていた。
彼らは一様に沈痛な面持ちを浮かべ、その目からはこの惨劇を起こした何者かへの怒りが伺える。
それも無理もない話だと、真名も思った。
何故なら、身内が無惨にも殺されたのだから。
この場にいるのは、いずれも防人、もしくはその支援者だ。
彼らは日中は表の顔で生き、日没後は裏の顔、いや、或いはこちらこそ本来の顔かも知れないが、防人、として京都を守護している。彼らにはこの京の都を裏側から支えているのだ、という強い自負がある。自分達に異能なる力が扱えるのにはきっと理由があるに違いない。そう思って、気が付くと今の現状に落ち着いた者が大半だ。そう聞いていたし、だからこそ彼はこの地に根を降ろしたのであったが、やがて思う様になった。
彼らは、確かに数も多く、団結力、つまりは仲間意識もかなり強いと。
だが、ふとした時に思うのだ。
(ですが、今はどうなのでしょうか?)
それは彼が全国津々浦々、様々な土地を巡り、見て来たからこそ思う疑問であった。
全国各地に防人、もしくは退魔師と呼ばれる者はいた。
そのいずれも日々を命懸けで生きていた。
何故なら、どの地もこの京都と比すればあまりにも条件が悪いからだった。
一つにはまず、絶対数が足らない。
そしてさらに付け加えるのなら、京都の様に街中に長い年月をかけて強化された結界もないのだ。
確かに、どの地もここに比すれば異界との接点は少ない。
であるから、妖、そういった存在に遭遇する事も必然的に少なくなる。だからこそ、人数が多くなくとも何とかなっていた。そうこれ迄はそうであった。
だが今は違う。
この二〇年程の間に事情は大きく変わってしまった。
死する防人や退魔師が続出しているのだ。
理由としては特段、妖が増えたのではない。
だが、彼らの”敵”は増えた。
それは自分達と同じく異能なる力を持った者が急増したからだ。
その理由は未だに不明で、様々な説が唱えられている。
だがそんな事は些末な事だ。
現実問題として異能者が増えたのだから。
防人や退魔師の相手は何も妖だけではない。
自分達と同等の異能を持ちながら外道に堕ちた者、即ち鬼を狩るのもその仕事だった。いや、寧ろ、鬼を狩るのが彼らの最も重要な責務であった。
妖のように結界等である程度は抑制出来る存在とは異なって、鬼には確たる肉体があり、この世界に根差した存在だ。
彼らに妖と同じ結界は通用しない以上、斃す以外の選択肢は存在しない。
命懸けの戦いで死する防人や退魔師が増えていたのだ。
その結果、各地の防人達は思い至った。今や、この問題は自分達だけの問題ではないのだ、と。
そうして彼らは団結した。
全国でネットワークを構築し、その動きは世界に広がった。
折しも世界各地でも同様の問題は発生しており、この流れは加速していき――そうして誕生したのがWG。世界の守護者を自負する彼らは今や世界最強の集団といっても過言ではない。
世界の変調に適応した彼らは今この瞬間も世界中で活躍しているのだろう。
(それに比べて、だ)
ここ京都は、と言えば以前と変わらない。
防人と退魔師達は互いの縄張りを主張し、下手に動こうものなら干渉するな、と言い合う始末だ。
いくら構成員が多かれど、これではもしも、桁違いの敵、例えば古来の伝承の存在なれど、あまりの強さにその存在を隠しおおせなかった数々の”大妖怪”と云われる彼らに比する者がもしも姿を顕現させたのならば、今の京都にそれを防ぎ得る力は無いのではなかろうか、と思ってしまう。
この地は旧来の体制であっても堅い守りによって今まで様々な怪異を防いできたという自負があり、それこそが今の現状を妨げているのだと、何故誰も思わないのだろうか。
これで退魔師も防人にも犠牲者が出たことになる。
相手がどういう存在であるかは未だに不明だ。
だが、それが妖であれ、鬼であれ尋常な強さでない事だけは明白であった。
このまま互いの縄張り争いを優先していれば、まだ犠牲者は出るに違いない。
≪おやまぁ、ほんにえらい事になっとりますなぁ≫
素っ頓狂とも言える声が聞こえた。
だが今、真名の側には誰もいない。唯一近くにいるのは、一羽の雀である。
その雀はしきりに真名の側を飛び交う。
そうして突然、その肩に降りる。
それは今の動きがさも当然、とでも言わんばかりに極めて自然な動作。実に手慣れた動作であった。
「他人事の様な言い草を。……そもそも貴女が私をここに呼び立てたのでしょう、元締め」
真名は嘆息しながら肩に乗った雀に話しかける。
すると、
≪おや、そうでしたなぁ。しかし、あれですなぁ。真名さんは意外と細うございます≫
雀は確かに人語を話している。
そう、この雀こそあの祇園一の舞妓であり、防人の総元締めたる妙の異能。
ちなみにこの雀は本物。彼女の異能によって操作しているのだが、真名は知っている。元締めたる女性の能力は単なる偵察や監視に特化したモノではない事を。
初めて彼女に出会った際に、危うく命を失いかけたのだから。
≪それでどう思はりますか? この件を≫
「そうですねぇ。少なくとも単なる妖の手によるモノとは違うな、と思います」
≪へぇ、それは何故ですか?≫
「一つはこの殺し方です。確かに尋常ならざる力によって遂行されてはいますが、被害にあった二人の傷は正確に急所を狙ったものです。確実に致命打を与える、これは知能がなければ不可能です」
≪あい、でも異界から来た妖であればそれなりに知恵があってもおかしくはありませんよ≫
「ええ。しかし、妖であれば寺社仏閣に仕掛けられた結界を抜けるのは困難です。仮に突破したのであれば即座に誰かが気付くはずです。というのであれば犯人は妖というよりは鬼、或いは外の異能者ですかねぇ」
≪いずれにせよ厄介な事態どすなぁ≫
「だから私を呼んだのでしょう? 正式な防人ではない私達なら、もし何かあっても切り捨てる事も出来るのですから」
≪嫌やわぁ、防人になったら色々と制限がつくからそれを望まない、そう言ってくれはったのは真名さんですえ。
何にせよ、もう結界を解かないと、いつまでもここを封鎖は出来ませんし≫
ぱたぱた、と肩から雀が飛び立つ。
≪では、調査をお願い致しますえ≫
去り際にそれだけ言付けると、飛び去っていく。
その姿が見えなくなるまで、空を見ていた真名はやがて呟く。
「さて、どうにも厄介な事になったものです。一手間違えれば私達にとって危険極まりない状況になりかねませんし。
うん、と……どうしたものでしょうかねぇ」
そう一人呟くと、真名もまたその場から去るのであった。