オンボロ小屋にようこそ
ジージージー、という蝉の鳴き声があちこちから聞こえる。
まだ七月、真夏ではないのに肌に感じる熱気は既に真夏のそれだ。
「うーン、うるせェなぁ」
零二は力なく呟く。気温はともかくとして、この音はどうにも苦手だ。
特段、蝉が嫌いというのではない。
寧ろ、武藤の家だと庭の木々に止まって鳴いているその音色は、何処か風情があって好ましいとさえ思っていた。
ところが、だ。田舎である武藤の実家よりも、何故か街中の方がこうも蝉は多いのだろうか?
ろくろくさしたる木々も無いのに、蝉の気配は何でこうもあちこちにあるのだろうか?
田舎だと風情があったはずの音が、街中だと何故にこうも騒音と化するのだろうか? 今すぐ耳栓でも捩じ込んでしまいたい、と零二は心底そう思っていた。
京都駅から出てかれこれ数分後。
大通りを歩く零二は、完全にふて腐れていた。
「あーあ、腹減ったなぁぁぁ、やるせないなぁぁ」
「わー、もう分かった分かった。君、結構根に持つタイプだね。
後で何か食わせるからそれで勘弁してよね」
「あったり前だっつうの、食いもンの恨みは根深いンだぞ」
零二を迎えに来たのは士華という少女。
身長は一五〇位、体重は四〇手前に思えた。
小柄ながらもそのボーイッシュな様相と、さっきの態度に、今の会話から勝ち気そうなその少女の第一印象は正直最悪だった。何せ、たい焼き七つと半分を平らげられたのだから。零二にとってはまさしく仇敵である。勿論、たい焼きの。
(一体どういう教育を受けてるワケだ昨今のオンナはさ)
普段の自身は完全に棚上げし、ため息をつく。
気を取り直して、さっき一時間遅れた理由は、と尋ねてみると「ああ、ごめん寝過ごしちゃった」てへ、と笑いながら答えて済ませる次第。
(これはアカン。コイツ、天然じゃねェかよ)
とりあえずもう相手にするのはよそう、と心の中で誓いを立てた零二は、追求やら何やらは置いといて、とりあえず案内してもらう事にした。何せ京都については全く何も知らないのだから。
(にしても、だよ。何でこンなにムダに歩くのが早いンだよコイツはさぁ)
士華はとかく歩くのが早かった。少しでも余所見していると、あっという間に距離が離れていく。
「今、僕が住んでる場所は一等地なんだよ」
立ち止まり、自慢気にそう胸を張っている彼女の様子を見て……と彼女の胸部を目にし、零二はさっきのムニュムニュを思い出し、思わず顔が真っ赤になり、ゴシゴシと思わず頭を掻いて誤魔化す。
士華は見た目に反して実は純情少年の心中など我知らず、トコトコと歩いていく。
「お、おい待てって」
我に返った零二は慌てて追いかけていく。
彼女が不意に道を外れ、足を踏み入れたのは駅から程近い薄汚れた古い雑居ビルだった。
「オイ、エレベーターは使わないのかよ?」
ホールを抜けて、士華は迷わずに階段を登ろうとしたので、思わず訝しむ様な視線を向ける。
ピンク色の髪の少女は振り返りもせずに、
「ああ、そのエレベーター故障してるんだよ。だから待ってても無駄ってヤツさ」
と言うとタンタン、と軽やかな足取りで上へと続く階段を登っていく。
「はぁ、ったく……ボロイビルだな」
零二もため息混じりに後を付いていく。
ビルは外見に等しく内装もかなり老朽化が進んでいた。
階段を一階登る都度、見える通路はゴミやら何やらが散乱しており、さながらスラムの治安最悪な通りの様な有り様。
何階かを表示する壁の文字も擦りきれていて、よく読めない。
それでも、数える事六階分の階段を登り終える。
「はい、到着ー」
士華はそう言うと歩みを止める。
零二も彼女に追い付く。
その途端、
バン、というオンボロで錆びた扉を開けると、そこは屋上。
「うっっ、眩しッ」
容赦なく差し込む夏の陽射しがキツい。
零二は熱にはイレギュラーの関係もあって耐性はあるのだが、それでも夏の陽射しの眩しさには抗えず、思わず目を閉じた。
「あはははッ」
士華はそんな零二の様子に引っ掛かった、とばかりの歓声を挙げた。
「るせェよ!!」
「はは……ゴメンゴメン。いや、前に僕も同じ目に合ったから……つい、ね。でも傍目から見たら面白いもんだなぁ」
「…………お前性格悪いだろ、絶対さ」
「そっかなー、まぁいいや」
「いいのかよ、オイ」
「それより着いたよ」
「ン? 何がだよ?」
「いや、だからさ。僕の住んでる所だよ」
「へ、住ンでる?」
そう言われて零二は屋上をキョロキョロと見回す。
古い雑居ビルの屋上には、住居と思える物は見当たらない。
少なくとも、零二の目から、基準からすると。
「イヤだなぁ、ここだよ、こ・こ」
士華はそんな零二の言葉に苦笑しながら歩くと、一つの建物の前に立つ。
「オイオイ、冗談抜かすなって。そンなオンボロ小屋に人が住めるはずがねェよ」
そう、零二にもその建物、いや建屋は目に入ってはいた。
小屋、という表現がまさに当てはまる小さくて、色褪せた、台風どころか、ちょっとした突風で崩れてしまうのではないのか? と思ってしまう程に老朽化が進んだそれは、零二の保持する住居基準からは大きく逸脱する物だ。
「しっつれいだなぁ、君。いいから来なよ」
士華は頬をプクー、と膨らませながらも手招きする。
零二はまだ冗談だと思っている。だが、このままでは話が進まないと思い、手招きに従って小屋の前に来る。
「じゃあ、どうぞー」
ややご立腹気味の少女がノブを回すと、
「オイ、マジなのか?」
ようやく零二も理解した。ここが居住空間である、と。
その室内には、所狭しと様々な、……それでいてどう見ても最新とは言い難い家電に家具が置いてある。
「君、本当に失礼なヤツだなぁ、とにかく入ってよ。あ、靴はちゃんと脱いで」
「あ、ああ分かった」
言われるがままにスニーカーを脱いで、士華の履いてたビーチサンダルの横に、ちょこんと入口に置いてあったカラーボックスに入れる。
ギシ、ギシシと床が軋む。
士華はぺたぺた、と平気な様子で歩いていたが、その床はヘタに体重をかけたら抜けそうに思えたので、ほんの数メートル歩くのも一苦労だった。
「はい、こっち」
士華がいたのは奥の部屋。そこに入る。
奥の部屋はそこそこ広く、整理もされている。
どうやらここで寝泊まりしているのは事実らしい。
その証左に、寝袋とおぼしき物が二つ畳まれている。
「ン? 二つあるのか」
零二は、そこで思い至る。
そう言えば、この住居というか小屋の玄関には士華の履いてたビーチサンダルとは別の、草履があった事に。
サイズが明らかに違っていたのだから、ここにはもう一人誰かが住んでいる、という事になると。
「あ、……そうそう、ここには二人で暮らしてるんだよ。じゃあ、紹介するよ」
士華は零二の考えでも読んだかの様に言葉を紡ぐ。
「シンナさん、お客さんですよ」
「シンナ? それがもう一人の……」
「うん、そうだよ。シンナさーん」
「ってか、ここにいるンかよ、今?」
零二は驚きを隠せない。今、ここにもう一人誰かがいるとは思えなかったからだ。
だが、よくよく意識を傾けて”熱”を探知してみると自分と士華、それから知らない何者かの熱を感じる事が出来る。
思わず辺りを見回して見る。
すると、
「あーはいはい。ここですよ」
何とも間の抜けた声が聞こえた。
同時にどさっ、という音。もぞもぞと寝袋が動き出し、そこからひょこっと顔を覗かせたのは、一人の男。
芋虫みたいに這いずりながら、いきなり「ふあーあ」と大あくび。
何とも緊張感のない挨拶をかましてきた。
零二はもう、何を言えばいいのか分からないらしく、愕然とした表情で、足元の男、寝袋を指差すと一応問う。
「あ、あのさ。もしかしてこの芋虫みたいなのが………」
「うん、そうだよこの人がシンナさん。シンナさん、この人が武藤零二君だよ」
士華はニカッ、と笑いながら答える。
「……………………はぁ」
オレ、本当にここに来て良かったンかな? 零二は、そう思わずにはいられなかった。