少女の夢
それはいつの頃だっただろうか?
物心ついた時には、彼女はそこにいた。
彼女は産まれてすぐにその施設に預けられた。
だから親は誰なのか知らない。
施設には彼女同様の境遇の子供達が多かったが、皆優しかった。
毎日毎日、たくさんの仲間に囲まれて賑やかに遊び、ケンカして、仲良くなって……だから、寂しいとか思う事は無かったし、それどころか、幸せですらあった。だってそこには、たくさんの”家族”がいたのだから。
でも良いことは長くは続かなかった。
元々、施設の経営は常に厳しかったらしい。
以前から地域にはあったものの、採算性などないこの施設に対して自治体は助けてはくれなかった。何故なら自治体はその土地を前から狙っていたのだから。
そうした漠然とした不安は子供達にも伝わっていく。
楽しかった毎日が少しずつ狂い始める。
そして、その日は突然に訪れた。
施設の責任者だったシスターが重い病にかかったのだ。
原因は長年の苦労による身体の変調。
子供達は毎日毎日、彼女が早く良くなります様に、と祈りをし、病院にも通った。
だけど、シスターはそのままもう戻っては来なかった。
文字通りに神のもとへ召されたのだから。
彼女の死は、施設の終焉に繋がった。
自治体はここぞとばかりに老朽化が進んでいるだの、もう責任者がいないとか、資金の調達等と残された大人達にあれこれと口実を設けては追求した。
最初こそそうした理不尽と言える要求にも屈する事なく、毅然とした態度を取ってはいたものの、執拗な追求に徐々に心が折れていき、遂にある日……終わりを迎えた。
大勢の子供達が突然、家を失った。
一応自治体も流石に身寄りの無い子供達を放逐する訳にもいかず、新たな施設の紹介はしてくれはした。
だが、そこは彼女がこれ迄暮らしてきた家とは大違いであった。
まるで本当の家族みたいだった温かな絆なんかそこには何処にも感じられない。
互いに信頼を抱き、助け合ってきたあの楽しかった毎日はまるで夢だったと思わされた。少女はその施設では一番の年少者だったが、毎日の様に苛められた。口で罵られ、歯向かえば暴力を振るわれる。彼女が大人達にその事を相談しても無意味だった。
彼らもまた彼女、いや全員に対して暴力を振るったのだから。
それから何年かの年月を経た。
ある日彼女は、意を決して施設から逃げ出した。
行く宛なんか無かったが、そこにいたらいつか取り返しの付かない事になる、子供ながらにそう確信していたから。
子供だった彼女はすぐに捕まった。
無理もない、所詮少女はまだ子供なのだから。
行く宛も無く、お金もない少女が行ける所等その街にはあまり多くなかったのだから。
彼女は抵抗した。
追ってきた大人達に噛み付き、激しく暴れて抵抗してみせる。
そうこうしている内に、警察がやって来て…………。
そうして、彼女はようやく――――。
◆◆◆
「はっ」
少女は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
周囲を見回すと、そこはどうやら”バー”らしい。
天井にはゆっくりとした回転を続けるシーリングファン。
耳に届いてくるのは多分レコードによるR&Bのソウルフルな歌声。その力強いリズムと曲調は、彼女の好みに合致する。
「…………」
見回すと、自分が寝ていたのはこのバーのカウンターらしい。
触れてみるとその手触りは良く、木目も綺麗に整っている。何よりも普段からキチンと手入れしているのだろうが、ピカピカに光っている。なかなかいい調度品だと分かる。
「…………ん」
席を立ち、店内を軽く見て回る。
決して大きな店ではない。正直言ってこじんまりとした印象だ。
しかし、壁にかけられた年代物らしき柱時計や棚に並ぶ無数のレコード。それからダーツをする為のスペースに、壁に無造作に掛けられた小さな黒板とチョーク。そこに得点を書き込むらしい。
「フフ」
不意に彼女は笑う。思い出したのだ、以前の事を。
彼女は以前、こういう場所で暮らしていた事があるのだ。
あの施設だったが、匿名の電話があったらしく、警察が入る事で、不備が発覚。職員達は逮捕され解散。彼女はそこからいくつかの里親を転々としたものの、何処にも馴染めなかった。そして最後に行き着いたのが、丁度ここみたいなバーを営む老夫婦だった。
二人は既に子供達が巣立っていて、悠々自適の生活をしていたらしい。そうした日々に刺激が欲しくてバーを始めたと聞いた。
九頭龍みたいな巨大な街じゃなかったから、繁盛していたとは到底言えない店だったが、そこにはいつも穏やかな笑顔があった。
彼女はただそれだけで満足だった。
カララン、甲高い鈴の音。
「おお、目を覚ましたか」
そう言いながら声をかけて来たのは進藤明海。このバーのバーテンであり、マスターでもある大男。
声は穏やかだったが、見た目はどう見ても穏やかそうにはとても見えない。
その身長は二メートルで、体重は一二〇キロ。ゴツゴツとした筋肉の鎧を纏った姿はまるでプロの格闘家と思われてもおかしくはない事だろう。
尚且つ、その顔には無数の傷が刻まれており、ヘタなヤクザよりも恐ろしい顔つきだと言える。
そんな厳つい大男が入って来たのだから彼女は身構えた。
咄嗟にカウンターの裏に回り込む。
「おいおい、勘違いするなよ……」
思わず、やれやれ、と言いながら嘆息する。
「だから言ったじゃねェかよ、マスターの見た目はどう見ても一般人じゃねェってよぉ」
カララン、とまた音がした。
今度は零二が姿を見せた。手には大きなエコバッグを四つ、片手につき二つずつ持っていた。
「あ、あんたは。……ここは」
少女は少し安心した表情を浮かべる。
「心配すンな、ここは安全だからよ」
零二は歯を剥いてニカッ、と笑う。
二時間前、ある喫茶店にて。
「で、何があった?」
零二は少女に問いただす。何にせよ、かかわってしまった以上は多少なりとも状況を把握しておきたかった。
「追われてるんだ、私」
少女は申し訳なさそうに伏し目で呟く。声は弱々しく、零二の目には彼女が疲れているのが一目瞭然だった。
「心配すンなよ、オレはこう見えて強いンだからな」
零二は笑う。まるで屈託のないその笑顔に少女も微笑む。
「そうそう、笑えばいいンだ。その方が可愛いンだからよ」
「……え?」
その言葉に少女は顔を紅く染めた。
「ば、ばかかお前はっ……」
「ン、よく言われるぜ、ハハッ」
その笑い声を聞いている内に、少女は深刻に考えるのが馬鹿馬鹿しく感じてしまう。目の前にいる短髪でツンツンした頭の、ちょっと不良っぽい少年なのに。何故か分からないが頼もしく感じる。今、自分が陥ってる問題もコイツなら解決してくれるかも、とそう思えた。
はぁ、と息を一息付く。
「分かったよ……でも後悔するなよ、アンタ」
少女はフードを外す。
そこに現れたのは、紫色の髪にショートカットの少女。
その大きな目には意思の強そうな光を宿している、と零二は感じた。そして彼女は、口を開いた。
「私は【神宮寺巫女】。一応歌手だよ」
「歌手? マジか! ……へェ」
零二は巫女を改めてしげしげと見る。バーにはたまに歌手が来るのだが、皆大人で、彼女の様な同年代を直に見るのは初めてだったのだ。その上で相手を、巫女をじっと見た。確かに化粧っ気は無かったが、いい顔立ちだと思える。見た目は華奢だが程よく引き締まっていて、スポーツをしているのかもとは思っていたが、まさか歌手だとは思わなかった。恐らくは日頃から鍛えているのだろう。
巫女は自分に好奇心に満ちた視線を向けてくる相手を前に照れたのか、頬を微かに紅く染まる。
「まだメジャーデビュー前だけどさ、でも今度曲が出るんだ。それでそのアピールも込めて今日は九頭龍でゲリラライブをするハズだったんだけど……」
巫女はそこまで言うと口ごもった。何か言いにくい事情でもあるのかも知れない、とそう零二は感じた。
「で、その会社がさ、ヤバイ連中とつるんでいるってわかっちまってさ…………」
「さっきの黒服の奴等か?」
その問いかけに巫女は頷く。
「で、その話を聞いてたのをバレちゃって……ああなったんだ」
零二は今の話を頭の中で復唱してみる。
確かに筋は通っている、と思った。
芸能事務所と裏社会は世間が思うよりも身近らしい。今でも様々なタレントの醜聞を揉み消すのにその力を借りる場合があったり、地方でのコンサート等の興業に影響力を持っている場合もある。昔ほど接点は無くなったのかも知れないが依然として関わりは深いと、そう聞いた事がある。
実際、九頭龍にもそういう連中はいるのだし。
(だけど何か足りねェな、肝心な部分がよ)
だが巫女は口を一文字に閉じており、これ以上は尋ねても恐らくは答えてくれないと思った。
彼女は裏社会の人間ではない、わざわざ零二を出し抜く理由も無いだろう。
(しゃあねェ、調べるか)
ガタッと音を立てると零二は席を立つ。その上で巫女に手を差し出すと、「行くぞ」と言って相手の手を握る。
巫女が顔を紅く染めながら「何処に行くんだよ?」と聞き返す。
それに対して零二は答えた。
「──安全な場所だよ」
◆◆◆
「で、マスター……アイツは?」
零二はカウンター裏の厨房にいた進藤に話しかける。
進藤はそのゴツゴツした見た目からは思いもしない器用さで次々と野菜を切り、盛り付けていく。
傍らにある鍋からはグツグツとした音と共にビーフシチューのいい香りが鼻孔を刺激する。
ぐううう、という腹の音は彼の本音であった。
「ははは、お前さんの分も用意してるから焦るな。巫女さんなら、奥の部屋にいるよ。心配するな」
このバーは見た目はともかく、内装はかなりの物だった。
特に食料を貯蔵する地下室に、零二や進藤が軽い仮眠を取る休憩室の二部屋に関してはまるで重武装の武装強盗、いやちょっとした軍隊でも簡単には突破出来ない様になっている。
その二部屋の扉は厚さ六十センチもの特殊鋼板製でその重さも分厚さも特注品。アンチマテリアルライフルでの狙撃でも撃ち抜けない上に戦車砲ですら一、二発であれば直撃しても問題のない頑丈さを誇る。
その上、大量の銃火器が隠されており、さながらちょっとした武器庫でもある。
進藤は元は傭兵であり、世界中で戦ってきたらしいが、この武器庫を見たときは正直、一般人じゃねェだろう、と突っ込んだものだ。
実際、今でもそうなのだろう。彼は口でこそ一般人になった、とは言ってはいるがそれは”戦い”を捨てたのとは違うのだろう。
あくまでも”最前線”からは身を引いたというだけであり、必要とあればいつでも戦う意思を持っているのだろう。
だから、という事だろうか。
零二が進藤を信頼しているのも、この強面の大男と自分のもう一人の恩人である加藤秀二に近いものを感じるからだ。
だからこそ、今も安心して巫女を預けておける。
「ンじゃ、すぐに戻ってくるぜ」
零二の目が俄に険しさを増す。
それを見た進藤は「ほい」といいながらおにぎりを一つ手渡す。
「ソイツを食って、ちゃちゃっと片付けちまえ」
そう言うと笑う。
「全く何処が【一般人】だよ……じゃ、行ってくるわ」
手早くおにぎりを頬張ると零二は「ンじゃ」といって裏口から出ていく。
「無理すんなよ」
強面の大男はそう声をかけた。
◆◆◆
バーのある場所は繁華街の奥の奥。簡単に言ってしまえばその位置は裏路地の奥にある。
ここらは整然とした大通りとは異なり、小さな路地沿いに居を構えている小さな店が多く、薄汚れている。さながらちょっとしたスラムの様でもあり、繁華街の中でも最も治安が悪い場所だ。
すぐ近くに筋モノの事務所が点在しているし、無許可の風俗店に南米系、中東、アフリカ系などの住人が大勢住み着いており、半ば日本とは思えない光景だと言える。
彼らは脛に傷を持つ者同士、互いに程よい距離を保ちながら時に敵対し、時に和合してきた。
身寄りなどない、遠い異国の地で生き抜くのは並大抵の事では無い。
特にこの小さな通りは、昼間であっても筋モノが通りを堂々と往来をしている様な場所だ。
その為に彼らは暴力や血の”臭い”には目敏い。だから住人はそれぞれの家に入り、鍵を閉める。自分の身を守らなければいけないとばかりに一斉に。
往来にいたヤクザ者は血塗れにされ、転がされていた。
彼をやられた事で、事務所からは組員達が表に出ていた。
「おうおう、兄さん達よ。ここがどういう場所か分かってやがるのか?」
そう凄むのは、恐らくは彼らの中で一番荒事に慣れ親しんでいるらしき禿頭の筋肉質な男。顔つきこそ凶悪さを感じさせなかったものの、その手には拳ダコが出来ている。
修羅場にも慣れているらしく、身内の惨事にも動揺する気配は感じさせない。
「いや、すみません」
そう言いながら黒服達の前に進み出たのは、白スーツの男こと、藤原慎二。その表情こそ穏やかそうだったが、口調は冷淡であり、目の前にいる禿頭の男にも怯む様子は伺えない。
「少し道を尋ねたのですが、答えてもらえなくて、つい」
「はあん? 舐めとんのかおま……」
言い終わる前だった。藤原の手が動く。
バアアン。
まるで車に撥ねられた様な音。それに合わせ、哀れな男の身体は宙を舞いながら自分達の事務所へと突っ込んでいく。
「教えてくれませんか? 人を探してるんです」
平然とした口調で藤原慎二はそう言いながら、サングラスの位置を調整した。




