京都
夜の京都は日常と、非日常の境目が曖昧となる。
この街は一〇〇〇年以上もの歳月で、多くの怪異の舞台となり、また戦乱の中心地とも相成った。
そもそも、この古都はその成立の際に風水により選ばれた、という由縁がある。
つまりは、この地そのものに大いなる力が集いやすいとも云える。そうした土地に更に無数の仏閣や神社が建立され、そうした力は蓄積されていく。
そしていつの頃からか、この都は二つの顔を持つに至ったのだ。
即ち、日中は国の政の中枢を担う土地。
日没後は、様々な怪異の巣窟たる一種の魔界。
この古き都に闇は時を経るにつれ、その昏さは増していく。
様々な怪異はやがて妖と化し、跋扈するに至る。
人ならざる理によって成り立つ異形にして異様な存在である彼らを打破せしめる為に様々な技法や術式が構築されていく。
かくて、この地に様々な祓い人が住まうのも当然だとも云える。
ここは京の都。
日常と非日常の境目が不安定な、魔の巣窟たる異界の都。
とある山中にて、
「オンギュラカソワカ……」
僧衣を纏い、印を組み、呪法を唱えるは禿頭の僧侶。
とある密教の僧たる彼の目前に急速に炎が集束していく。
それは火の玉へと変化。辺りを照らし出していく。
闇夜に光が浮かび上がる。
だが、それは一つではない。
そうした火の玉が同時に無数に発現。
その火の光に照らし出されるは数十もの僧侶の姿。
いずれも同じ印を組み、呪法を唱えている彼らは今、戦いの最中であった。
その、眼前にいるは体長は一〇メートルはあろうかという巨大な蛞蝓であった。
青みがかった皮膚からは得体の知れない粘液が溢れ出ており、腐臭を漂わせる。
無数の屍を喰らいその身を肥大化させたそれが目指すは、眼前に見える京の街並み。
それはまるで、漆黒の闇の中に浮かび上がる道の様にも見える。
うねうね、と触手を伸ばしながらズルズル、と近付こうと試みる。だがそれは叶わない。
バチバチ、という火花は、火とも雷とも取れる。
ギシャアアアア、という絶叫が轟く。
耳をつんざくような高音域の音は、木々を砕き、薙ぎ倒す。
だが僧侶達は怯みはしない。
何故ならば、彼らはこうした事態に備えていたのだから。
再度バチバチ、と火花が巻き上がる。
そう、これこそは彼ら密教の退魔師による結界。
妖なるモノを外の世界には出さぬ為の断絶の壁。
ジュワワワ、と耳にするだに不快な音は結界により、獲物が手傷を負った証左に他ならぬ。
バタバタ、とその身を地面に幾度も打ち付けるのは怒りの発露であろう。
ぎろり、とその飛び出した双眸が睨み付けるは自身を閉じ込めたであろう、小さき人間達の姿。
≪ソトニデレヌナラキサマラヲクラッテヤル!!≫
禍々しき呪詛の様な言葉を吐きながら憎い敵へとその身を突進させる。
「唖ッッッッ」
気合いのこもった声と共に、僧侶達は火の玉を放つ。
幾重もの火の玉は途中で互いに結び付き、巨大な火の塊と変わり、目の前の妖を火で包み込む。
≪グギャアアアアアアアアアア≫
凄まじいまでの絶叫が轟く。
その巨体を身悶えさせ、自身を覆う炎を消そうと試みるが、既に時遅し。炎が体内をも焼いていく。それでもしばらくは動き回っていたのだが、それも僧侶達の想定内に過ぎない。
やがて蛞蝓はその身を縮めていき、……燃え尽き、果てた。
「やぁやぁ、お見事でした」
事が終わったのを見計らい、僧侶達の前に姿を見せるのは”案内屋”の身空晋だ。
如何にも遊び人風のその見た目と、砕けた口調から彼の事をこの僧侶達は嫌悪していた。
だが、これでも彼の存在はこの京の都では貴重である。
案内屋とは、文字通りに案内をする者を指す。
ただし、彼らが案内するのは単なる観光名所ではない。
彼らは縄張りが決まっていて、自身の張った結界内で起こり得る、もしくは起こった怪異を調査。
そしてそれが人に仇なすものであれば、即座に祓いの要請を出し、これを排除。
それが案内屋の仕事。
身空晋もそうした案内屋の家業を継いだ者の一人。
今日の仕事もこれにてつつがなく終わり、あとは花街にでも繰り出して馴染みの店で遊ぼうかと考えを巡らせた時だ。
「ぐああああああああ」
闇を切り裂く絶叫が結界内で轟き、掻き消えた。
「あ、ああ」
恐る恐る振り返る。何が起きたのかを知る為に。
本能では分かっている、ここから逃げ出すべきだとは。
だが、どうしても抗えなかった。
何故ならば、既に彼はその身を絡め取られていたのだから。
自身の意思とは無関係に、その身体が動き、振り向かされる。
「――ヒィッッッ!!」
恐怖に身を押し潰される。
そこにあったのは、つい、ほんのつい今まで生きていたモノ達の成れの果て。
五体は千切れ、無惨に果てている。
一体何がどうしたのかが分からない。
そもそも、ここは自分の縄張り。これ程の力を持った妖を何故見逃したのかが理解出来ない。
それは耳元で何事かを囁く。
身空晋の表情が凍り付く。恐怖で――!
そして、
「ひぎゃああああああああ」
この夜、この地で命を絶たれる者がもう一人。
◆◆◆
「ふあー、あ。眠いなぁ」
大あくびをしながら、零二は目を擦る。
時間は昼の一時。
今、彼がいるのは京都駅。
正確には駅の外にある階段だった。
「しっかし、長い階段だよなぁ……」
マジマジと上へと延びるかの様な階段を眺める。
京都に来てまず彼が思ったのはその人の多さだった。
実際には今や九頭龍の方が居住人口は多いはずだが、それでもここを往き来する人の数は目を引く。
それは考えてみれば簡単な理由であった。
何故なら、京都駅は文字通りに京都観光の拠点。
電車でここに来た観光客はここを起点にして、電車を乗り継ぎ、バスに乗り、または歩き出すのだから。
零二もその結論に行き着いたらしく、ああそっか、と呑気な声を出す。
WD九頭龍支部の、正確には九条羽鳥からの命令で零二は一時的な九頭龍からの撤去を受けた。
それで今、こうして京都に来たのだが、かれこれ一時間。こうして待ち合わせ場所のはずのこの階段待っていた訳だが、で秀じいの言っていた知人は待てども待てども未だ来たらず。
既にマスターから貰ったカツサンドは食べ尽くし、空腹でこそないが少々口が寂しくなってきた。
「なンか食いたいなぁ……」
そんな事を言いつつ、首を回して周囲を見回す。
すると、何やら香ばしい良い匂いが鼻を突いた。
「う、っ美味そう……」
途端に目の色が変わり、真剣な目で周囲を見回すと、どうやらその匂いは階段沿いの店かららしい。
そこで零二は考える。
ここで待ち合わせ、……そう、だからここから離れてはいけない。
しかし、あの素晴らしく美味しそうな香り、恐らくはたい焼きにちがいない、が自分を待っている。待ち合わせ場所から離れてはいけない。
だがしかし、階段から離れなければいい。
あの店は階段沿いにある。つまりはあの店に入ってもまだそれは階段にいる事にはならないだろうか? いや、なるに違いない、うン。
と言った感じで都合よく結論に至った食欲魔神は思い立ったが吉日、とばかりに軽い足取りで階段をテンポよく登っていく。
「いっただっきまぁーーーす」
そして、首尾よくたい焼きを買うと早速食べ始めた。
零二が座っているのは大階段の中腹。ここなら下も見えるから、という理由からだった。
売っていたたい焼きは三種類。
餡子とカスタードと抹茶味。とりあえず三種類とも三つずつ買って食べている。
「うン。美味い、ああ幸せだぁ……」
そうして小さな幸せを噛み締めていた時だった。
気が付くと、誰かに視られていた。
それもかなり強い気配、近くにいる。
(なンだよ、なンだよ……街中でいきなりかよ)
苦笑しつつ、けれどもその口角を吊り上げて笑う。
気配は上から、そう判断した零二が上へと振り向いた時だった。
ビュオン、という風が吹き抜ける。
何かが物凄い速度で駆け抜けたらしい。
「オイオイ、面白いじゃねェか」
そう言いつつ、手にあったたい焼きを頬張ろうとしておかしな事に気付いた。
「あれ? オレのたい焼き?」
あっれー、と思いつつ紙袋に入ったたい焼きを取りだそうと手を伸ばすが、そこに紙袋もない。
「……へ?」
何が起きたのか分からずに、その場を立ち上がって周囲を見回す。真剣だった、これ以上なく彼は真剣だった。
そして、何が起きたのかを理解した。
階段の下だ。
そこに見覚えのある、ついさっき買ったはずのお店の紙袋があった。
「おい」
そう言いながら階段を降りていく。
不意に風が吹く。紙袋はヒラヒラ、と宙を舞う。
「おおい!!」
バカな、という思いだった。
七つあったはずのたい焼きがそこにはない。
愕然とした表情でその空っぽの紙袋を手にした時。
「あーーーー、お腹満足」
という声がした。
紙袋のあったすぐ横にいた誰かからだ。
その姿からどうも少年らしい。
ロゴ入りの白いTシャツに、帽子を被ってはいたがピンク色の髪が覗いている。
「お、お、お前――!!」
今まさに怒り心頭の零二は、ツカツカと階段を降りつつ、その憎き敵へと歩み寄る。その人物の肩に手を置き、「おいコラ」と声をかけた瞬間だった。零二の視点が突然空を見上げ、そのまま落ちて「うげっ」と呻いた。
「もう乱暴だな。これが女の子に対する対応かい、武藤零二君?」
「え、オンナ?」
その声は確かに女のそれ。
「それで、離してくれないか? その手」
「え…………えええっっ」
ふに、ぷに、という感触。
零二はその言葉で気付く。肩を掴んだ手が投げられた拍子でなのか、何故か柔らかい所を掴んでいる事に。
「やれやれだ、どうやったら肩からここに手がいくのかな? 君、真性の変態さんだな」
「あ、あわわわわ」
零二はそれどころじゃない、とばかりに絶賛混乱中だった。
顔は真っ赤どころではなく、蒼白。
完全にパニック。
「うんうん、どうやら真性の変態さんではないらしいね。
そうか、これが俗世間で言うラッキースケベってヤツかぁ。
ま、そんな事は別にいいや、もしもーし?」
彼女の話は零二の耳を素通りしていく。
「しっかたないなぁ」
と、声が聞こえた瞬間。
「くぐえっっ」
ガッツン、という衝撃が零二を襲う。
思わず頭を抱える零二は、自分の脳天にきれいに踵落としが直撃したのを認識。
「お、おのれ、お前――」
「はいそこまで、さっさと行くよ武藤零二」
「お、お前なンだよ一体?」
「あっれーここで待ち合わせなんでしょ? 確かさぁ」
「…………え? お前、何で?」
困惑する零二をよそに彼女は告げる。
「自己紹介するよ、ボクの名前は【士華】。君の待ってた相手だよ」
ニカッ、と笑う彼女に零二は心底思った。
オレ、大丈夫なのかなぁ、と。
かくして、零二の京都での日々は始まるのだった。