ある異界で
異界での時の経過は、通常の時間とはその流れが大いに異なる。
ここでの一秒が、本来の時間では五分であったり、一日が一〇年であったりもする。
かように不安定な異次元、それがこの異界の本質。
迷い込んだ者の命を喰らい、吸い尽くす事で存在し得る異形なる存在。どういう理なのかは分からないが、ともかく空間そのものが生きているのだ。
ここで生きていく、という事は人である事を捨て去るのと同義でもある。
藤原曹元がこの地にまつわる噂を耳にしたのは、彼がまだ己が運命に惑っていた頃の事だ。
当事、彼は己を呪っていた。この手で大事な物を壊した故に。
それが止むを得ない事で有ったとは、理解している。
理性では分かっている、だが、それでも許せなかった。
他に手立てがなかったのかを考えない日は一日とて無く、罪悪感に苛まれ、かといって自刃する度胸もない。
気が付けば屋敷を飛び出し、一族を捨てていた。
当てどもなく諸国を流離い、彷徨い、その果てに辿り着いたのがこの異界であった。
そこに足を踏み入れた時に感じたのは、ここが何かの腑なのだ、という事であった。
(ここであれば、この命とて失えよう)
そう思うと心地よさすら感じた。
どうやらこの地は曹元をすぐに喰らい尽くすつもりは無いらしい。長丁場になるかも知れない、そう思った若人は木材を集め、粗末な小屋を拵えた。終の住み処としては粗末なものであったが、どうせこの地は己が朽ち果てる場。だからこれで充分だと思った。
その時は思いもしなかった、それから元の世界で一〇〇〇年以上もの時をここで過ごす事になろうとは。
時折、異界には歪みが発生する。その歪みからは外の世界の様子が伺えた。退屈しのぎに、とその様子を伺ってみると、すぐにおかしな点に気が付いた。
己がここに立ち入った際には存在していなかった集落がいつの間にかそこにはあった。
山の木々は以前よりも伐採され、開墾も進んでいる。
まるで数年、いやそれ以上の時を経たとでも言わぬばかりに。
時の経過かなりの誤差があると知った時、曹元は笑わずにはいられなかった。己が死を望み辿り着いたこの地は、己と周囲の時の繋がりをも断ち切ったのだ。
いずれは死せるという事は理解していた。
だが、それは当分先になると分かった。
いつしかこの異界と、自分は一つと化していたのだ。
皮肉な事に、強い異能を保持した故に一族から羨望と嫉妬を一身に受けたこの身は人とは理を異にする存在に求められたのだ。
そして、彼は一族へ己の生存を伝えた。一族は益々の発展を遂げ、気が付けば国の中枢に影響を与えるまでに肥大化。今や世界にすら影響力を及ぼせるまでに肥え太った。
そして、幾星霜もの時は流れていった。
多くの一族の末裔を見送り、そうして今に至る。
アレを手にした者は藤原の歴史でも数人に過ぎない。
その殆どは悲劇的な末路を辿った。
もはや生きる屍の様に成った今に至っても、藤原の歴史でアレを使いこなしたのは一人だけ。
誰もが強過ぎる力を前に心を奪われ、心を砕かれ、他者に嫉妬され、貶められ、最後には獣と化し、討たれた。一族の手によって。歴史は繰り返す、と言うのは事実だ。
いつしか一族はアレを使いこなす者を生み出す事に執着するようになった。
あの力は呪いに等しいのに。あんな物を求めても仕方ないと言うのに。
――長老、大丈夫ですか?
声が掛けられ、曹元は目を見開く。
どうやら知らず知らずの内に寝入っていたらしい。
側にいたのは九条羽鳥。
その顔を見て思い出す、今自分が珍しい来客と宴席をしている最中であったのだと。
「こここ、これは失礼した」
曹元はそう言うと頭を下げる。ギシギシ、と奇怪な音を立てるその動作には人間らしさの欠片もない。
「いえ、こちらこそ無粋な真似をしましたね」
九条は言いつつ、杯を口へと運ぶ。
かれこれどの位の時間が経過したかは、眠っていた事もあり判然とはしない。だが、空になった徳利が幾つも置いてある事からそれなりの時間は過ぎた事には違いない。
曹元は下戸の為に酒は嗜まない。ここにある酒は全て来客の為の物だった。
「結局、あの少年をどう見定めますか? 藤原の長」
やがて空になった杯を手にしながら九条が問う。彼女にとっての目下の感心事が何であるのかは明々白々。
「こここ、ああ……あの小童か。九条殿はどう思われたかね?」
「質問に質問で返すのは狡いですね。ですがいいでしょう。
私は期待を持っています」
「そうかね、確かにアレを持ってしまった者達の中で鑑みるならば、獣ではないのは良い点かね」
「ええ、その通りです」
「あれを手にした者は例外なく力に魅入られ、獣と成り果てる。
あの小僧の事をどう思うかね?」
「そうですね、……一年前はここまで期待していなかったです。
何せ、彼はイレギュラーを暴走させたのですから。
ですが、同時に彼は暴走させたにも関わらず、未だ人のまま。
あれだけの災禍を引き起こしたのに、精神は健やかそのもの。
ですから私は彼ならば、あれを使いこなせるかも知れない、そう思っていますよ」
「ふむふむ、確かに。あれを最も上手く使役した……あれ以来か」
「ええ、確か藤原一族長年の悲願であったと聞いていますが?」
「少なくとも我の望みではないな、かような再来等は永久に現れなければそれが最上である故に」
曹元の目がギラつく。だが、九条には分かっている。今、この老人の胸中が。その複雑怪奇な人生を知っているが故に。
彼の脳裏に浮かぶのは、かつて自身の手で殺めた誰かなのであろう。仕方が無かったとは言え、それがこの老人がこうして今に至るまで生き永らえるキッカケとなった原因でもある。
全ては”あれ”を持ってしまったが故の悲劇。そう思いを馳せているのだろう。
古来より国の中枢近くに時に裏側から、時に表側から影響力を及ぼし続けて来られたのには理由がある。
藤原一族は、常に幾人もの異能者を輩出していたからだ。
どうして常に異能者が出るのかは分からない。
それは今ここにいる藤原曹元が異界と繋がっているからだ、という意見もある。つまりは、理を異とする世界の力が、世代を越えて子々孫々に至るまで何らかの影響を及ぼしているのでは? という考えだそうだ。
実際、その可能性は考慮に値する物だと九条は思う。
(とは言え、異界に取り込まれないだけの【強さ】が備わっているのが前提ですが)
「さて、随分と長居をしてしまいました」
九条は席を立つ。途方もない量の酒を嗜んだはずだが、全く酔いが回っている様子は見受けられない。顔色も普段通りで、まるっきり素面そのもの。
「こここ、そうかね。もう少しゆっくりしてもいいと思うのだが」
「いいえ、これ以上お暇すると、戻るのが困難ですので」
「それもそうであった、我の住まうこの世界の時間からあちらへと往き来を能うのは九条殿位の者よな」
「往き来するのが得意という事ではないですよ。単にそれが出来る、……それだけの事です」
九条は微かに笑みを浮かべる、些細な事ではあったが普段の能面のような彼女しか知らない者が見れば、驚くに違いない。
「行くかね?」
「ええ、では」
そう言うや否や、九条の姿は突如消えた。
「ではまた、な。あの小僧を今しばらく見守ってくれ」
曹元は空になった杯を掲げ、元の世界へと帰還した友に声をかけるのだった。
◆◆◆
「貴方には当分の間、九頭龍から離れて頂きます。行き先は……」
九条羽鳥はそう淡々と宣告する。
零二は、傷だらけのまま、その言葉を受け止めるのみ。
ギリ、と拳を握り締め、爪が食い込む。血が滲もうが構わない。
微かに身を震わせたのは、悔しさからだ。
不甲斐ない自身に対する悔しさ。
彼はつい数時間前に、敗北を喫したばかり……それも完膚なきまでに。言い訳のしようも無く。
相手は藤原新敷。
そう、あの白い箱庭で零二を、当時は”02”だった彼を訓練の名目で虐げたあの男。
あの日、零二の暴走に伴って片目を抉られ、その身を灼かれたはずのあの男だった。
凶悪な光を宿した左目で睨みながら問うたあの言葉を思い出す。
「その中途半端な強さは何だ?」
見下ろしながら、まるで憐れむ様な口調で問いかけたのを。
今の自分の力が通じなかった。力負けした。
返す言葉も無かった。
その上でこうも言っていた。
「今の貴様のイレギュラーは把握済みだ。その上で断言しておく、今の貴様では俺には勝てん。――――悔しければ【昔の自分】を取り戻すんだな。この右目を奪った時の貴様に戻るなら、或いは勝てるかも知れんぞ」
そう、あの男に勝てたのはあの時だけ。
あの最悪の能力を手繰った――いや、暴走させた時だけ。
(オレは、勝てるのか? あの男に)
一つだけ確信している事がある、それはあの男がそう遠くない内にまた姿を現すという事だ。
それまでにあの男に対抗出来る力を得なければならない。
(上等だ、今度こそブッ飛ばす)
「深紅の零。聞いていましたか?」
「あ、いや、スイマセン聞いてなかったです」
「貴方には少しこの街を離れていただきます」
「え?」
その言葉に零二は唖然とした。
「何処に行けって言うンだよ姐御?」
その問いかけに九条羽鳥は少しの間を置くと、
「京都です」
そう告げるのだった。