何もない
「ふん、ふーん、ふーんふん♪」
思わず鼻歌が混じっていた。
蟻のフリークは、今まさしく我が世の春を迎えた心地であった。
自分が何よりも強いのだと確信し、歓喜にうち震えていた。
視線の先には今から壊す相手の怯えきった姿。
ゾクゾクする。
自分の姿を目の当たりにした奴をこわすのが。
もう相手は誰でも良かった。
どうせ、こんな場所、こんな界隈にいるやつらにマトモなやつ等いやしないのだ。
動けなくなっている獲物を適当に一人、また一人と引き裂いて、潰して、噛み砕く。
そして、敢えて何匹かは放置しておく。
あの恐怖に満ちた表情が堪らない。小便をちびって、失神し、痙攣する様を見下ろすのが堪らない。そしてひとしきり壊したらまた戻って来て壊す。そこからさらに数人を残して――その怯える表情を眺めつつ、壊す。一人か二人は残そう、その方が面白そうだ。
「く、はへへへへ」
笑いが止まらない。この手をちょっと振るうだけ、それだけで簡単に壊せるのだ。まさに蟻を踏み潰すかの様に。
これ迄ずっと蟻扱いされ、踏み潰されそうな日々だった。
それが今やどうだ? その蟻に踏み潰される気分は?
今や……何もかも、壊してやれる、殺してやれる。
「も、もっどぉ、もっどこわしてやる、ころしてころしてやるぅ」
まともな知性等持たず、只の己の欲求のみに破壊と殺戮を行う、彼は確かにフリークそのものであった。
「待てよ、てめェ」
背後からかけられたその声にピクリ、とその動きを止める。
ゆっくりと振り返ると、そこにいたのは零二であった。
蟻のフリークはぎょろり、とした目を向ける。
確かに壊したはずだった。なのに立っている。
殺した、そう思えたからこそほったらかしにしてきたのに。
まだ、生きている。そう、まだ生きているのだ。
「ぐふえへへっへ」
蟻の姿をしたフリークは嬉しそうな声を挙げつつ、零二へと向かっていく。その速度は三メートル程もある体躯に似つかわず素早く鋭い。
彼は興奮していた。
零二を、目の前の相手がまた壊されに来たのだから。
今度は腕を落とそう、そう思った彼は凶器たるその腕を振るいつつ、襲いかかった。
その勢いは圧倒的。間違いなくこれ迄で最高の一撃、まさしく渾身の一撃と言える。零二にこの圧倒的な一撃に対抗し得る術等あり得ない、そう思えた事だろう。そう、さっきまでならば。
零二はというと、無造作に手を差し出し……掴みかかる。
(ぐふえへへっへ、おまえバカだな)
そう彼は思ったに違いない。
だが、
ジュウウウウウワッッッ。煙、いや、蒸気が挙がった。
それは蟻のフリークの唾液、いや体液による溶解作用に基づく結果ではない。何故ならば――――
「ぐにゃああああああああ」
彼が発したのは苦悶に伴う叫び声であったのだから。
わからない、何があったのかが分からない。
一体、何が起きたというのだろうか?
「く、ひぎゃああああああ」
思わず地面に転げ、そのまま身悶えする。
特段何かをした訳ではない。
零二がした事は、――向かって来たその腕を掴んだだけだ。
本来であれば、掴まれた所でそのまま力押しでぶった斬る事も可能だったはず、なのに。
掴んだその手からは強烈な、蒸せ返る様な熱を感じた。たったそれだけの事で、今の状況に陥っていたのだ。
「悪ぃな、もう効かねぇよ。アンタの攻撃はよ」
少年は地面に転がるフリークを見下ろす。
その表情にはもう、何の感情も浮かんではいない。
その目も同様だ、一切の怯えも、恐怖も灯してはいない。
「ぐききぃぃぃぃ」
蟻のフリークが無事な左腕を振るう。
もはや、自身の身が傷付いても構わない。この年下の少年を殺せさえすればそれで一向に構わない。
狙うはその首。勢い余って右腕をも切断しかねないがお構い無し。死神が振るう鎌の様な死を招くその一撃で決着は着くはずだ。
人間の速度を凌駕した一手は確実に獲物を弑するはず。
だと言うのに。
「ぎにゃあ」
ミシ、と言う音。
そして、…………強烈な衝撃が腹部に響いた。
「ば、かな」
自分の最速の攻撃よりも速い、一撃だった。速く、そして重い。
その腹部へと届く拳から生じるのは”熱”。
まるで、そう、まるで熱の塊がそこにはあるかの様だ。
「もう、終わりだぜ」
零二は呟く。彼は確信していた。
今の自分が目の前の相手には負けない、と。
過信や慢心からではない、厳然たる事実として。
◆◆◆
零二は知る由ないが、彼が目覚めたのは、ほんの一分前。
まるで零二の叫びに、激情に応じたかの様に、全身が熱く感じた。真夏の陽射しだとか、焚き火に当たる様な熱さではない。
まさしく自身の身を焦がす様な――圧倒的な熱量が体内から溢れ出す。
「う、……あああアアアアアアアア」
抑え切れないナニかが体内、血となって駆け巡り、それがさらに指、目、口、耳、心臓、肺、あらゆる臓腑をも灼熱に包み込んでいく。
「はァ、はァ、ハアアアアアアッッッッ…………!!」
猛烈な、いや、絶大なナニカが細胞一つ一つに至るまでを、覆っていき、喰らい尽くす。
この感覚には覚えがある、そう……何だろうか?
そこで、意識が途切れ――――。
「はっっ……」
正気に戻った時には、自分に起きた変化を、察知した。
自分の体内が熱い。まるで、燻った火の様に。こんなのは初めてだった。
そして、不意に気付く。さっきまでの全身の痛みが、綺麗サッパリ消えている事に。
手で触れてみれば傷口が完全に塞がっている。あれだけの重傷だったのに、だ。
リカバー、いや、そんなモノではない。
(オレの、この【熱さ】が原因なのか?)
物思いに耽りそうなその思考を遮断したのは、少し離れた場所からの絶叫。
「ち、うっかりしてたぜ、あの蟻ヤローをブッ倒さなきゃな」
そうして彼は走った。声の方へ。身体は不思議と以前よりも軽く感じた。
「ち、ひでェな。……くそ」
思わず目を背けたくなった。
彼は目にしたのは、惨状と言う他有り得ない光景だ。
通りに倒れる十数人の一般人はその悉くが、惨殺されている。
首を千切られ、頭部が頸部へとめり込み、両断され、あの唾液を喰らったらしく、骨になっていた。
ついさっき死んだばかりの彼らの姿を零二は目にした。
ズキリ、とした痛みを覚える。同時に何かが込み上げる。全身が熱く感じる。
「そっか、これが秀じいが言ってたコトか」
後見人が幾度も幾度も言った言葉を思い出す。
力ある者には責任が生じる、そう何度も言われた。
だから、決してその持った力は弱い者に使ってはならぬ、その力はもっと大事な物を守り、手に入れる時にこそ使え。
それはこういう意味であったのだ、と理解した。
だから少年は真っ直ぐに見た。この場で死した全ての人を。もう何も出来る事はない。だが、それでも彼らの姿を目に焼き付ける。
自分の非力さが、何を招くのかを理解する為に。
自分が正義だとか何とかと言うつもり等ない。
自分とて、これ迄多くの命を奪い灼き尽くしたのだから。
だからこれは、戒めだ。
自分は決してもう怪物にはなってはいけないのだ、と確認する為の。自分の中に確実に存在しているであろう、ソイツに対する零二からの宣戦布告であった。
そして……何故か、ソイツが笑った様に思った。
それはほんの僅かな時間であった。だが、充分だった。
零二は肌で感じていた。
あの殺戮者となった怪物がどっちにいるのかを。その殺意から明敏に。
ふぅ、と息を吐く。そして、その頬をぱちん、と両の掌で叩く。
「オレが今やるコトなンて決まってるよな」
そう一人呟くと、顔を上げる。
その目に宿ったのは覚悟であった。