教育と鍛練
カツ、カツと規則正しく音を刻むのは、古風ゆかしき柱時計。
その部屋は日中だと言うのにやや薄暗い。
部屋の中では少年が一人で何かに取り組む姿。
その表情は何かを深く考えているらしく、眉間には皺が寄っている。そんな中で時間だけが経過していく。
そして暫くして、
「ええ、と。これは――――こうか、やった!」
少年こと、武藤零二は嬉々とした表情と声を挙げる。
今、彼が取り組んでいるのは数学の問題集。
そう、零二が取り組んでいたのは勉強だったのだ。
これで今日は二冊目に突入。
あとは化学の問題集を片付ければ今日の課せられたノルマは終了となる。
そうして数十分後。
「あー、疲れたぁ」
ようやく問題集から解放された零二は、思わず机に突っ伏す。
ここは武藤の家、零二の為に用意された部屋。
部屋には無数の本や写真、それ以外はベッドと時計だけ。とても一〇代の少年の部屋には思えず、まるで人生に達観した老人か、もしくは清貧に生きる事を誓った賢者かの様な生活感も何もない殺風景な部屋。
普通ならあまりの物の無さに怒り出すかも知れないそんな簡素な部屋に不満が爆発しても不思議ではないのだが、零二にとってはこういった部屋こそが普通であった為、特に不満はなかった。
「あー、しっかしアレだな。勉強ってのは覚えるだけッつうか、何て言うか……楽なモンだな」
それは一見独り言の様な言葉だったが、そうではない。
「はい。そうですな、若」
その言葉はいつの間にか室内に入っていた後見人であり、執事でもある加藤秀二に向けた言葉であった。
「しかし、私の気配によく気付かれましたな」
「いやいや、散々【不意打ち】を喰らいまくってたからな、いい加減覚えるってもンだよ、そりゃあさ」
そう言うと、零二はバツの悪そうな表情を浮かべた。
ここに、武藤の家にて暮らす様になってからかれこれ、一ヶ月が経とうとしていた。
とりあえずまずは外に出る前の段階。
何せ、生まれてこの方、一四年間まともに外に出た事が無かった為か、この少年は一般常識に著しく欠けた部分が目立っている。
例えば、それまでは研究施設の、それも同じ被験者同士である物資が欲しい際には力づくで解決していた。
例えばそう、どうしても読みたい本があって、それを別の相手も読みたい時などはそうして読む順番を決めていた。
普通の社会であれば、そんなのはまさに犯罪者の手法でしかない。しかし、それがあの研究施設の中での常識だったし、万事がそういう調子であった。
そういった感覚がどうにも抜け切れない為に、先日街に出た際に大変な事になった結果として、零二にはまずは一般常識を身に付けさせる事と相成ったのだ。
それと同時に零二には学力を身に付けて貰う事になった。
これは目の前にいる後見人たっての願いであり、九条羽鳥もそれを了承。そうして届いたのが、山のように大量の、件の問題集だった。
当分の間は自宅での自主学習に専念。それと平行して最低限の一般常識に礼儀作法を身に付けさせ、ゆくゆくは学園生活をさせるのが、秀じい及びに九条の考えだった。
今、零二がとりくんでいるのはその為の準備。最低限の学力を付ける為だったのだが…………。
意外な事に零二はこの一ヶ月で中学どころか高校レベルの問題集をクリアしていたのだった。
秀じいや九条は知らなかったのだが、下地はあの研究施設で培われたもので、あそこでこの少年は図書室での読書を暇潰しにしていた事でざっくりと、大まかではあったのだが既に大学レベルの知識を持っていたのだ。
勿論、読書だけなのでその知識は偏っている。だが、それまでは断片的で理解しきれていなかった様々な知識がここに来て問題集を解くという行為によって、一つ一つ繋がっていき、理解出来る様になったのだ。
それに零二は良くも悪くも熱中しやすい性格だったのもこの場合は幸いした。
知らなかった事を知る、そういう当たり前の事を彼は今、堪能していた。
もっとも、例外もあったのだが。
「いってェ――――!!」
零二は叫び声をあげながら膝を抱え、芝生を転がっている。
一面綺麗な緑色の芝生は、ここがキチンと手入れされた場所である事を示している。
「若、この程度で喚かれるとは情けない」
秀じいは杖を手にしたまま、悠然と立っている。
その服装は作務衣であり、動きやすさを重視している。
変わらないのは、と言うとサングラスに後はいつも手放さない杖位の物だ。
ここは武藤の家の敷地。より具体的に言うなら庭だ。
今、零二はここで勉強と平行してのもう一つの”日課”に勤しんで……はいない。寧ろ投げ出したい気分であった。
今の零二にはマイノリティとして致命的な欠点がある。
それは彼本来のイレギュラーである”炎”が扱えない事だ。
理由はあの白い箱庭での暴走に伴った結果。
零二が外の世界へと出るに当たって、零二自身の強い希望で自身のイレギュラー、同時に彼自身とも云える能力を”封印”した為だ。零二はもう炎を見たくはなかった。
あの何もかもを構わずに全てを焼き尽くす地獄の様な……いや、まさしく地獄そのものと思えた光景。
それを招いた自身を、その根源たる炎を忌み嫌った結果だ。
だから、今。
零二が使えるイレギュラーは、マイノリティであれば共通の物のみ。つまりは、一種の人払いである”フィールド”及びに超回復能力である”リカバー”のみ。
もしも今、零二が何者かに狙われたら、きっと為す術もなく殺されていた事だろう。
だから、今。
零二には自衛手段が必要だった。
そして、その為に零二は現在こうして”手合わせ”を行っているのであった。
「いっててて、ったく少しは手加減ってコトバ知らないのかよ?」
愚痴を洩らしつつ、零二はゆっくりと起き上がる。
ズキズキとした痛み、が膝裏を襲う。
理由は簡単で、つい今さっき、秀じいの手にあるあの杖で膝裏を打たれたから。
「何を仰るのですか、これは若の希望で行っている事。ここで手加減等してしまえば若の為にはなりませぬぞ。さぁ、来なされ……」
「ちぇ、…………ったくマジメなンだよな秀じいは、さ」
顔を背け、いかにもやる気の無さを見せた次の瞬間。零二は、起き上がる際にコッソリと拳にて握り締めていた泥を振り返り様に相手の目元へと投げつける。一歩踏み込んだ事で勢いに乗った泥は完全に不意打ちとなったのか、標的のサングラスへと直撃。
してやったりとばかりの笑みを浮かべ、「もらいだぜッッ」叫びながら零二は突進。
体当たりで押し倒そうと試みる。そしてその目論見が達せられるのも目前だと確信していたのだが、
「おわっっ?」
思わず驚きの声をあげたのは零二の方であった。
相手は膝を曲げると身体を捻って――、そこまでだった。
何をされたのかも分からないままに、思いっきり前方へと飛び出し――そのまま勢いよく地面を、芝を滑っていく。
「あぐ、ぐくく」
顔面から着地した事で顔がヒリヒリと熱い。
顔を両手で押さえながら、かぶりを幾度も振って痛みと摩擦熱を紛らわせようと試みる。
その様子を目にした秀じいは、はぁ、と嘆息しながら言う。
「やれやれ、若。不意打ち自体はよかったです。しかし、詰めが甘いですぞ。私はこの程度で動じませぬ。それよりも、猪突猛進するだけでは私には通用しませぬぞ」
そう言いながら杖をクルリと回した。
どうやら、体当たりに対して身体を横に避ける様にしつつ、足を出して零二の足に引っかけたらしい。そう、万事この調子であった。のらりくらりといなされる。
これで今日は何回目になるだろうか、
零二は何度となく、目の前老人へ向かっていっては投げられ、飛ばされ、杖で叩かれ、まるで子供扱い。てんで歯が立たない。
「くっそ、ったくさぁ。強いよな、ホント」
だが、不思議と零二は笑っていた。
自分が弱い、そう思えるのがこうも心地よいとは思ってもみなかった。あの白い箱庭で、散々自分やあの人を痛め付けたあの大男の時の様な惨めさは全く感じない。
「さ、来なされ。まだまだですぞ」
「へッ、だな。行くか――」
そう手招きする老人に、零二は応じて向かっていくのだった。
そう、勉強とは違ってこちらは難しかった。