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静止した時の中で

 

 田島はそれを目にした。いや、正確には目に入っただけだった。

 何せ、現在の彼の視界は最悪だったから。

 魔術師の肉片が降り注ぎ、井藤が展開した毒の傘の下に入る事で何とか事なきを得てはいた。

 目の前に映るのは腐った肉片による降雨。その凄まじい腐臭と死臭で涙が出そうにすらなる。

 この腐肉がどう危険なのかは、足元を見れば一目瞭然。

 刺激臭と共に煙が上がっているのだから。

 井藤の表情が歪むのを横目で見た。

 だが、今の田島には何も出来ない。

 彼に出来るのは、そう。

「支部長、もう少しです。この雨だってイレギュラーの一種なんだ、いずれ止みますから」

 そう言って少しでも味方の気を紛らわせる位だ。

「ええ、そうですね。もう少しの辛抱です」

 井藤は微かに笑う。それが強がりであり、虚勢であるのは分かり切っている。それでも、まだ。

 まだ井藤は抗おうとしている。

(なら、俺も諦めない。そうだ、もう少し。あともう少しで……)

 何も起きないかも知れなくても、それでも少しでも生きてやる、とそう思った時の事だった。

 ほんの数メートル先すら定まらない視界に、人影が見えたのは。


 周囲一面が腐臭漂う雨が降り注ぐ中で、

 彼女は極々当たり前の様に立っていた。

 その姿が見えたのも一瞬だった、瞬き程のほんの一瞬の事。

 あの腐肉の雨霰が彼女の前には無力であった。燃えるのは当然だ、だが、何故か地面に転がる物も見受けられた。


 何が起きたのか全く把握出来なかった。

 これでも田島は、視力や観察力には自信を抱いていた。

 支援、それも幻覚による戦闘支援が役割である以上、田島に求められるのは冷静さと、洞察力だ。

 冷静に物事の推移を観測し、迅速に判断を下す事を日頃から意識するのを日課にもした。

 その結果だろうか、いつしか彼は一瞬で見た物事を推測する事に習熟していった。

 だからこそだろう、決して肉体操作能力ボディの系統のイレギュラーを扱うマイノリティならおのずと身体能力も強化されるからか、総じて視力に嗅覚、聴力も強化されるのだが、田島の場合はその五感で劣っていようとも長年培った抜群の洞察力で、彼らにも劣らず、或いはそれ以上の結果を出して来た。

 だが、………いやだからこそ、今の状況は理解の範疇を完全に越えていた。

 何が起きようとしているのかも分からない。こんなの久々だった。だが、少なくとも一つだけ確信を抱いていた。

 それは美影を一瞬とは言え目にした感想は、彼女に負けという結末は似合わない というモノだった。




 それは本当に僅かな時間だった。

 時計の秒針が一つ、ほんのそれだけ動く位に僅かな逡巡。

 その場にいた誰もがそこで今、何が起きようとしていたのかを把握する事は叶わない。そう、当事者である美影以外には。


「いいわよ、アンタの言う通りにしてやるわ。…………どうしろっていうの?」


 その問いかけは完全に独り言であった。美影には分かっていた、あの謎の声の主が恐らくはこれ以上の手助けをするつもりがない事を。

 足元には無数の燃え尽きていく肉片や、恐らくは凍て付いたであろう無数の肉片。

 美影は無意識でこれを行ったとは思わない。これを実行したのはあの声の主に違いない。

 だがそれをどの様にして行ったのかについては、今は気にしても仕方がない。

 表情にこそ出さないが、美影は今、心底から驚いていた。

 何もかもがまるで静止したかの様に見えたし、そう思えた。

 熱探知眼(サーモアイ)は使っても仕方がない。周囲全てを覆う様に、腐肉の雨霰が降り注がんとしていたのだから。

 普通であれば決して躱せるはずのない、そう思えるだけの無数の悪意に満ちたモノが、まるでコマ送りだ。

 例えるならばそう、クレイアニメ等の様にある動きを撮影する為に、ほんの少しずつ動かしている、そんな感覚だった。

 意識が完全に戻る前から、ボヤけた意識の中で、何となく目にした。自分が周囲を”凍らせた”のを。

 冗談みたいな話だった、使った事もないイレギュラーなのに。

 まるで、昔からずっと使っていたのではないのか? そう思う程に滑らかに違和感もない。

 矛盾した二つの事象。

 でも、その矛盾を今、自分は間違いなく扱っている。

(そう、細かいコトはこれが終わってからでも充分)

 美影の思考は目の前にある脅威にのみ向けられる。

 黒髪の少女はただ目の前の事にのみ、意識を振り向けた。

 誰がそう言った訳でもない、

 だけど、

 ただそうするのが当然だと本能的に理解し、ただ確信していた。


 意識をただ一点に。

 相手を、周囲を見るのではなく、自分自身を。視るのではなく、観る。

 どういう理屈だとか、そういう事には一切気を回したりはしない。ただただ、意識を一点に引き絞る。

(もっと、もっと――!!)

 それはただただ、本能的にそう思いながら、

 そうして、いつしか美影の意識は薄れ途切れていく。




 直後に脳裏に浮かんだのは無数の光景。

 まるで写真でも撮ったかの様な、断片的な無数の光景。

 それらはいずれも見覚えはない。

 その光景では、誰かが死していた。

 そして、弑した誰かが、もはや命の尽きた誰かを見下ろしている。


 そして、その死した誰かを見下ろしていたのは自分であると美影は理解する。


 さらに浮かんでいく光景。

 そこで美影は、自身が氷雪を手繰る姿を観た。

 覚えのない場所で、彼女は、まだ幼さを残す黒髪の少女は、多くの誰かを凍て付かせ、砕いている。

 信じ難い事だったがそこでは、その氷雪こそが自分のイレギュラーの様である。


 さらに、不思議なモノを目の当たりにした。


 全てが静止したかのような風景。

 銃弾も、爪先も、牙も槍の穂先も彼女へと向けられた無数の敵意の全てが止まって見えていた。

 不思議な光景だった。

 だが、それらは静止していたのではない。

 僅かながらも、確実に動いていた。

 だから、世界が静止したのではない。

 何もかもがゆっくりに視えて、感じられたに過ぎないのだろう。


 そこから先はまるでコマ送り、パラパラ漫画の様だった。

 幼い美影は相手を、凍り付かせて、その鼓動を止めていく。

 心なしか、笑みすら浮かべながら。




(な、によ。今のは――)

 美影は思わず困惑した。

 目の前には無数の腐肉の降雨が迫りつつある。

 それらは未だ自分の目の前でゆっくり降り注がんとしていた。

 どうやら、あの奇妙な光景による経過時間は殆ど一瞬だったのかも知れない。

(あれは、何だったの? でも、あれは、あの子は間違いなくアタシだった)

 覚えのない光景にイレギュラー。

 だが、紛れもなくあれは、自身の手によるものだった。

 大勢の誰かを、マイノリティ、もしくはフリーク達をこの手で斃していた。

 そして、今の光景。

 この静止したかの様な世界は、間違いなくあの見覚えのない風景と同じ。つまりは、そういう事。

 この静止した世界は、間違いなく美影自身の何らかのイレギュラーに起因するモノであり、今もそれが発動している。

(何でもいい、生き延びるならどんなコトだって構わないし、どんな手段だって厭わない)

 そう、美影の信条、とは自身の”生存”。

 その為であるならば、どんな屈辱にも耐えられる。

 大事な事は最後に自分が立っている事なのだ。


 だからなのか、美影は今の状況にも然程動揺してはいなかった。


 この状況を、この得体の知れないイレギュラーによる結果をも黒髪の少女は受け入れていた。


 不思議な事に、美影の全身から微かながら、だが間違いなく冷気が流れ出している。

 炎は矛、氷は盾とでも言えばいいのか。

 とにかく、今はそれが実現しているのだ、受け入れるしかない。


 降雨はもう、恐れるに足りない。

 だが、問題はどうすれば敵を倒せるか、だった。

 相手の姿が見えない。

 これでは倒せない、勝てない。


 だが、その気配はハッキリと感じる。

 下卑た悪意の塊が何処かに存在する。


 ”集中しろ、お前さんの本領はそっからだ――ミカゲ。お前には見えなくとも、視えるし観えるはずだぜ”


 またあの声が聴こえる。

 だが、美影は素直に従う。

 息を整え、そして意識を一点に。

 すると、だ。

 美影はその肌で感じた。

 邪悪なナニカの気配を。

 それは地面から美影へと手を伸ばして今にも掴みかからんと。

 実体は見えない。だが、間違いない靄の様なナニカがそこにはいる。

 そこに魔術師はいる。

「これで終わりよ――!」

 美影は迷わずに炎の鞭を槍状に変化。自身の十八番である、炎による槍を”激怒レイジスピア”を目前へと投げ放つ。



≪ば、ばかな≫

 魔術師は信じられないモノを見た。

 器にしようと鑑みた少女が躱すなど不可能だったはずの肉片の雨、肉片の散弾を潜り抜けていた。

 そして、今。

 彼女の放った炎の槍が目前へと迫っていた。

(まさか、観えるとでも云うのか? 有り得ぬ)

 だが、現実として炎の槍を器たらんとした少女は、その目は真っ直ぐに摩周を見据えている。

 この降雨そのものと化した摩周の中身を、その気配を感じ取ったに相違なかった。

 魔術師の思考は目前の破滅よりも、何故自身の存在が露見したかについて注がれていた。


 そして、ソレに気付いた。

 美影の腹部に埋め込み、消されたはずの肉片のほんの一欠片が、最後に燃え尽きる前に感知したのだ。

 器としようとしたあの少女の奥底に、深層にナニカがいた。

 そして、途方もない魔力を感じ取る。

(バカな、何だこの魔力量は――)

 愕然とせざるを得なかった。その何かが彼女の中にいる。

 それは圧倒的だった。

 魔術師よりも遥かに高みの存在、そうとしか思えない。

≪何だお前は――我が輩よりも高次元等認めぬぞ。よくも、よくもぉぉ。ぐぎゃあああああああ≫

 そしてそれが魔術師の最期の言葉であった。

 摩周は炎の槍にその姿なき実体を射抜かれ、燃え尽きる。瞬時に魂そのものを灼かれ為す術なく消えていった。


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