笠場庵
森の中を影が駆け抜ける。かなりの速度を出しつつも、息一つ乱さない。
一直線に森を駆けていき、向かうは標的の現在位置。
それは一つの”賭け”であった。
彼はこの”結界”をよく知っている。何故なら、以前この結界には苦い思い出があるのだから。
本来であれば、危険を冒してまでこの中にまで足を踏み入れる必要性等ない。
プランBで充分に目的を達する事は可能であると、既に試算済みでもあった。
それでも、敢えて、そう敢えてこの中に入ったのは何故だろうか?
恐らくは、決着をこの手で付けたかったのだ。
第三者による始末は元より望んでいない。
他の事であるのならば、何とでも妥協なり何なりとしたって構いやしない。
だが、そう。これだけは譲れない。
あの憎き魔術師の始末は、それだけは自身が直接手を下す。そう誓ったのだから。
だから、急がねばならなかった。
あの魔術師が何を求め、欲しているのかはよく知っている。
今回これだけ派手な事態を引き起こしたのも、要因の一つとしては彼がそうなる様に裏で手を回した部分もあったのだが、それ以上に恐らくはもうあまり”猶予”が無くなってきたからに違いない。
だからこそ、今が、今こそが最大の好機なのだ。
今晩で決着を付けてみせる。
様子を見ていた甲斐もあった。
あの憎き魔術師は今、油断している。
屍肉人形のあの厄介極まりない能力で獲物を、少女を捉えた。
もうすぐあの魔術師は少女へと近付くはずだ。”アレ”を行う為に。
忌まわしい記憶が脳裏をよぎる。しかし、その時こそが最大の好機が到来する時でもあるのだ。
断言出来る、この好機を逸すれば相手はまた地下へと潜ってしまうと。
だから、今こそが、仕留める最大の好機だ。
幸いにも、あの魔術師はこちらには気付いていない。”処置”した甲斐があったらしい。
逆に彼はずっと魔術師の現在位置を把握している。
このアドバンテージを生かして確実に仕留める。
そう、そのはずであった。
「………………!!」
思わず彼はその足を止める。
そう、今、目の前に立ち塞がらんとする何者かが姿を現すまでは。
彼はまず何者かにそう問う。人数は二人。
「何の用だ?」
「ここは危険な場所です、ここから先には行ってはいけない」
「そういう事、悪いけどさ、引き返してくれないかい?」
それは井藤と田島であった。彼らがここにいたのは単なる偶然ではない。
ここは美影とあの魔術師が今、戦っているであろう地点からおよそ五〇〇メートル程離れた場所。
彼らはさっき、美影にこう言われたのだ「誰かがこっちへ向かって来る」と。
彼女の熱探知眼は零二のそれよりも追跡等の面では劣っているが、彼よりも広範囲を視る事が出来る。だから、彼女には微かにだが視えていた。誰かが遠くから、およそ一キロ先からこちらの様子を窺っている、と。
さらに彼女はこうも言った「でも多分、普通の相手じゃない」と。彼女の目に視えた相手には明らかな異常も見て取れたのだ。
だからこそ、井藤は即座に決めたのだ。その何者かには自分と田島で当たろう、と。
美影を見捨てるつもりはない、ただ、井藤も田島も決定打を持たない以上、あの場では美影の足を引っ張りかねない。そう判断したからこその現在。
井藤の目に映るその男は、一見すると普通であった。
中肉中背、背丈は大体一七〇センチを少し超えた位、体重は六〇キロといった所だろう。
この暗闇に溶け込むかの様な漆黒のバトルスーツを纏っている。
顔立ちは精悍というよりも中性的で、その頬に深々と刻まれた恐らくは刀傷と思しき傷さえ付いていなければ、女性にすら見える程の優男。
だが、そういった要素を全てぶち壊すかの如き眼光の強さは、彼が決して見た目通りの人物ではないのだ、とこれ以上なく雄弁に物語っていた。
三人が沈黙のまま対峙する事およそ一〇秒。
男は目を細め、二人をじっと見回すと問う。
「……お前らはWGの関係者だな?」
「そうです」「そうだよ」
「ならば道を開けろ、俺は敵ではない。倒すべき敵はこの向こうにいる」
「って言われてもさ。そう殺気丸出しの目を向けられちゃあ、さ」
動いたのはほぼ同時であった。
咄嗟に彼は身構える腰に備え付けていた自動拳銃に指をかける。田島も同様に腰に手を回している。もしも二人だけであったのならば、即座にここで銃撃戦が始まっていた事であろう。両者がそれを思い留まったのは一重にこの場にもう一人、井藤がいたからだ。
「確かに、向こうには打破しなければならない人物がいます。非常に危険な相手です。
貴方が何者かは分かりませんが、ここに敢えて来たのであれば貴方もマイノリティだという認識で間違いありませんか?」
井藤はゆっくりと、相手を刺激しない様に配慮しながら諭す様な口調で問いかける。
井藤の気配りはどうやら功を奏したらしい。相手は腰に回していた手をゆっくりと離す。
それを認めた田島も同様だ。二人が矛を収めたのを確認した井藤が二人の間に入る。
「まずは話をしましょう。私は井藤と申します。WG九頭龍支部支部長を務めさせていただいております」
「俺は田島一、同じくWG九頭龍支部に所属している。それで、あんたは誰なんだ?」
「田島君!」
その喧嘩腰の態度に思わず窘める井藤だが、田島は改めるつもりはないらしい。
「俺の名は【笠場庵】。故あって今は組織を離れこそはしたがWGにいた事もある」
「笠場庵…………まさか【コールドブラッド】と呼ばれた笠場さんですか?」
いきなり井藤は興奮した声をあげる。
その問いかけに当人はただ一度頷く。
「井藤とか言ったか、……俺があんたらの敵ではない、と分かって貰えたのなら通してくれないか? このままだと、向こうにいる仲間が危険な事態に陥るぞ」
その笠場の目と言葉には嘘とは到底思えない”重み”があった。
「笠場さんは、相手を知っているのですか?」
「ああ、家族の仇ってやつだ、俺がWGに入るキッカケにもなった。
俺は、それからずっとあの魔術師について調べ続けた。……それこそどんなに小さな新聞記事やネットの噂でも関係なくにな。
それで幾つか分かった事がある。
あの男は少なくとも一〇〇年以上前から日本で確認されているらしい。
それで、アイツはどうやら毎回数十人から数百人もの人間を殺し、…………さらっている」
「それは何の為なんですか?」
「………………」
「訳知りって訳だ。でもさ、自分を信じろっていうんならさ、そこいらを説明してくれなきゃさ」
田島はまだ目の前の男を信じた訳ではない。
今、三人は静かに移動しているのだが、それには理由がある。
笠場庵が言ったのだ。
「奴の張ったフィールドは文字通りの【結界】だ。およそ一キロの範囲内は奴の庭も同然、……蠢く対象は全て襲われるぞ。
以前、俺は何も知らずに向こう見ずにただ向かっていって失敗した。無残にな、だから今度はもう」
そう言いながら俯いたのが印象的であった。
だが、確かに笠場庵の言う通りに移動していると、さっきまでの様に不気味な圧迫感を感じなくなっていた。
確かに生き物の気配の無い、森は相変わらずの不気味さでこそあったが、あの魔術師が醸していた纏わりつく様な殺意を感じない今は、僅かに違和感こそあれ、吐き気を覚える様な気分の悪さはない。
だからだろう、さっきまでは露骨に不信感を抱いた視線を隠そうともしなかった田島も、今は黙って歩を進めている。
そうして、来た道を戻る事、数分後。
彼らは目にする。
発狂したかの様な声と表情を浮かべている魔術師と、その目前で膝を付く美影の姿を。