死と覚悟
木の枝に腰掛けていた相手から漂うのは、明確な害意。
だが、そこから感じるのは自分の方が格上であり、自分達三人を見下す男の蔑視を伴う視線。
それが酷く気に食わなかった。
だから少女は右の指先をパチン、と高らかに鳴らす。
その小さな火花で魔術師を害するつもりは無かった。
ただ、気に食わなかった。
上から見下ろされるのに。
ばきっ、と音を立て折れたのは一本の木の枝。
弱い火花でも的確にその狙いを違わねば、木の枝にダメージを、軋みを与える事は可能だ。一度軋んだ気に枝は脆い。のし掛かっていた体重の重みによりあっさりと折れたのだ。
そして、どざ、という大きなモノが地面に着地した音。
そこにいたのは黒い塊。外套で自身の身体を覆ったナニカ。
美影はそれに問いかけた。今度は自身が見下す様に。
「どう、地面から対等の目線でこちらを見る気分は?」
するとそれは、魔術師を称する男は即座に立ち上がる。
フルフルと全身を震わせていた。浮かんでいるのは明確な怒り。
何に怒っているかはよく分かる。さっきまで見下していた相手とこうして同じ視線になった、否、視線にさせられたのだ。
「貴様、……器にするからといってただで済むと思わない事だ」
男は明らかに敵意を自分に向けている。
だから、美影は笑った。そして「ようやく本性見せたわね」と言うと真っ直ぐに見据えた、いや、睨んだ。
美影は今、腹を立てていた。
それは、木の枝からこちらを見下すあの男の所業。つまりは、この森に生き物がいない理由が分かったからだ。
ここにいたはずの生き物達はこの外套を纏いし男の手で悉く弑されたのだから。
それもその理由は自分達を取り囲んでいた、醜悪な人形とする為だけに。そう思うと美影の中で怒りが沸々と煮え上がる。
彼女自身が一番驚いていた。
彼女は自分が正義の味方等とはこれまでに一度も思った事はない。WGという組織の理念は理解してしたし、組織の現在の方針にも概ね共感してもいる。
だが、だからといって自分自身は組織の掲げる理念からは外れた者である事を彼女は理解してもいた。
自分の手はこれまでに多くの同類を殺してきた。
彼女の炎はどんな相手をも焼き尽くした。
何がなんでも生き延びる、そう誓い、彼女は自分自身の全てを費やして敵を倒したのだ。
以前から薄々理解していた。自分が組織の処刑人に過ぎない事を、危険をもたらす可能性があると、そう聞かされる限り、美影は一切の躊躇なく相手を灰に変えた。可能性、そう可能性がある、そう聞いただけで一切迷わなかった。
フリークと化したマイノリティに救いの手段は存在しない。
最早本能の赴くままに破壊し、殺しを楽しむ文字通りの怪物が彼らだ。
だが、それは正しかったのか?
ひょっとしたら誰かは救えたかも知れなかった。
まだ完全にフリークと化していな誰かがいたかも知れなかったし、まだ間に合ったのかも知れない。
だが、彼女はその全てを焼き払い、灰へと変えた。
かも知れない、だとかそんな曖昧な考えで戦いに赴けば、それは死に直結する。
そういう事例を目の前で見て来た。……幾度も幾度も。
彼らは善い人達だった。正義感に満ちた善い人達だった。
でも死んだ、殺された、巻き込まれた。
そこに至る道程こそ違えど辿った末路は共通。
皆死んだ、そして美影だけが残った。
そういう事が幾度も起きる内に、身内からも美影の陰口が囁かれる様になる。つまりは、怒羅美影というエージェントは死神、疫病神なんじゃないか、と。
それは多分に、自分達よりも年少者の少女が他の歴戦のエージェントさえ生きて帰れなかった戦場から生きて還ってくるという事実を素直に認める事が出来なかったからだ。
美影にしても同様だった。何故、自分は生き残れたのかが信じられない。皆、善い人だった。自分よりもずっと善人で、世の中を信じて、正義を、正しい事をしようとしていたのに。
それでも死んでしまった。分からなかった、何であんなに善い人達が死んでしまい、自分の様な”灰色”に、それも限りなく黒に近しい人間が生き延びてしまうのかが。
何で、こんな光景、気持ちを繰り返し味わなければならないのか?
悶々とした気持ちを抱え、悩み、そして。
彼女はいつしか思い至ったのだ。
(理想なんて必要ない。アタシはただ目の前の敵を灰に変えるだけ――何もかもを!!)
単純な回答であった。それは人である何かを放棄した結論。
だが、その時の彼女に他に結論は浮かばなかった。
そして、彼女は様々な場所で実行した、実行し続けた。
理想など自分には必要じゃない。
仲間等必要ない、ただ自分の力を信じるのみ。
ただ、敵を灰にするのみ。
そしてそれがどういう事態を招くかも理解していた。
どの場所でも孤立するのは分かっていた。
身内からでさえ、恐れられ、疎まれた。
(だけど、それがどうかした?)
それで心が乱れる程に彼女の決意は脆弱ではなかった。
だって、
(そうしなくちゃいけない、アタシは生きるんだ。そうしなくちゃダメだから)
彼女の脳裏に刻まれた、苦い苦い敗北の記憶。あの蒼い焔を纏った少年の朧気な姿。
少女は彼に生かされた。
死ぬ、と子供ながらに理解して、でも何故かホッとした感覚を覚えている。
思い返すと惨めな気持ちになる。
今なら分かる、これで楽になれるのだと安心したのだ。
あれは、擬似的な死の体験。
彼女はもう死にたくはなかった。死にそうになるのも嫌だった。
そして、何よりも。
自分よりも善い人が殺されるのが我慢ならなかった。
(だから、)
自分がどれだけ汚れても構わない、そう思った。そう思って生きてきた。
とにかく強くあろう、と誓った。何がなんでも勝つ、相手を倒す。ただそれだけの為に。そうして彼女はその名を上げていった。
その思いも、この九頭龍に来て揺らいでいる。
ここの人達はみんな善い人ばかりだから。
ここにはこれまでに得る事が叶わなかったモノがある。
自分を忌み嫌う人がいない、それどころか自分の事をまるで妹みたいに接してくれる人がいる。
自分と対等に戦える好敵手もいる。
そして、ここには親友がいる。
こんなほんの二ヶ月やそこらでこんなにも大事なモノをここで得てしまった。
正直困惑もした。自分にそんな幸運が来るのはおかしい、と。
でも、それでもそれを手放すのは嫌だった。
前の孤立していた自分に戻るのは嫌だった。
今なら分かる、あの日々が如何に空虚だったかを。
自分というモノが、空っぽだったと。
(でも、それでも――)
変わりつつある自分と、変わらない自分。
自分が、自分の内面が変わりつつある中で、それでも変わらない事がある。
それは”過去”。自分がこれまでに生きてきた証はもう変わらない。それを否定する事は自分をも拒否するのと同義だから。
一方で、変えてはいけないモノもある。
それは”覚悟”。
フリークを必ず倒すという決意。
今、目の前にいる黒い外套を纏いし魔術師は真性の外道だ。その二つの双眸を見れば一目瞭然。
淀みきったそこから伺えるのは底無しの悪意。
この男に出会ってまだ僅かな時間しか経過していない。
事前に聞いていた訳でもないし、顔も名前も全く知らなかった。
それでも分かる。
この男が真に邪悪な存在である、と。
この外道がここにいた生き物達に何をしたのかをこうして目の当たりにすれば、その思いは確信に変わる。
「器だとか、なんだとかそんなのはどうでもいいわ。
ただ、アンタは明日を迎える事はもう二度とない――」
なぜなら、と言いながら美影は改めて相手を見据える。
そして、
「――だってアタシが今日ここで灰にしてやるから」
強い意思のこもった言葉を敵へと向けた。