一つの決着と動き出す者
何もかもが爽快だった。
こんな感覚ははじめてだ。
風が肌を切る感覚というのはこういう事ナノだろうか。
まるで自分じゃないみたいだ。
自分のカラダはこんなにも軽やかだったとはシラナカッタ。
見える景色、セカイが一変するとはこういうことなのだろうか?
その辺りは正直ワカラナイ。
だって、他のセカイだなんて知らないのだから。
そう、
気が付けばセカイは大きく変わっていた。
それまで知っていた世界といえば自分の周りだけだった。
思えば、これまでの自分には”選択肢”という項目が抜け落ちていた。何かを選ぶ、それをこれまで知らずにいた。
常に自分以外の誰かの言う事にだけ従っていればそれで良かった。
楽だったのかも知れない。
何故なら、結果はともかくとして、行き先を他人に任せきりで良かったのだから。
自分では何も考えなくていいというのは慣れてしまうと存外気楽なものだったりするのだ。
自分の意思で何かをした経験というのに覚えがない。
常に他者任せだった。朝の起床時間も、夜の就寝時間も全てを他者に任せきり。
色々な場所を転々としてきたが、その事だけは何処にあ行こうとも変わらない。
自分の意思で何かをする事はなく、ただ、言われた事にだけ忠実に動く。
だって、こう思っていた。自分の意思など必要じゃない。大事な事は自分の存在意義とは神の供物だという事だから。
あの日もそうだった。
それは、ここに来る前だった。
そこが何処にあったのかは知らない。移動中はいつも目隠しされる。理由は場所の経路を見てしまえば万が一の可能性で逃げられるかも知れないから、だそう。そんな事をして何になるというのだろう。神聖なる供物として育てられた者が嫉むかも義務を放棄するだなんてバカげてる。
なのに、
愚かにも前に同じく供物として育てられた奴が聞いていた。
――どうして外を見てはいけないのか?
ソイツはそれからすぐに供物になった。
警告、といった所だろうか。いずれにせよ、関係ない。
だけど…………あの時の光景は脳裏から離れない。
柱にくくりつけられ、その足元には大量の枝や葉っぱを敷き詰めて、そこに火を付けたのだ。
ソイツは生きたまま火にくべられて、焼けていった。
あの時の、今際の際の叫び声と苦悶の表情は本当にヨカッタ。
(いつかは神の供物になれる)
それが供物として育てられた者の神聖なる務めだし、そう信じて来た。そのすぐ後にあの出来事が起きるまでは。
そしてあの日、男は気が付けばそこに立っていた。
そこは海に程近い寂れた村落の跡地。
もう住民は殆ど住んではいない。かつては船を出すその都度に大漁でここも潤ったらしいけど、いつしかこうして寂れたらしい。
いつしか住民は神を信じなくなった。そして、あろうことか信仰を捨てたらしい。
それまで数百年以上に渡った関係を愚かにも住民は反故にしようと試みて、罰を受けたそうだ。
今、ここに住まうのはかつての住民ではなく、自分と同じく神の信奉者。
神との繋がりを信じる者達だ。
神は存在する、そう聞かされてきたし、そう信じて来た。
そうして今、自分はまさに神の使徒になったのだ。
あの魔術師は皆を殺した。
そして瀕死の自分に歩み寄った。
「ふむん、どうやら君は【素養】があるらしいね」
何処か嬉しそうに呟いて、こちらへと近寄る。
身体は動かない。
手足はピクピク、と僅かに震える程度だ。
視界もボヤけている。
そして、ゾワリとした感覚。
体内に何か異物が入り込んだ感覚。
それが臓をまさぐり、抜けた。
「さて、処置は終わった。これで君は我輩の、いや【神の使徒】だよ。喜び給え」
その言葉と共に今度こそ意識は途切れた。
その直前、臓に何か違和感が拡がっていく様だった。
◆◆◆
思い出した。
そう、自分は神の使徒だった。
その目的は至極単純で、神の意思に抗う者を罰する事。
前夜もそうだ。
あの連中は神の信奉者等ではなかった。
彼らはあろうことか神の神聖なる供物を捧げるべき、この場で淫蕩に耽った。
汚らわしかった、ただ汚らわしかった。
そう思い、心底から蔑視した。
そして、その時にあの事を思い出したのだ。
魔術師はこう言った「君は君の意思で神へ供物を捧げてもいい」と確かに言った。
なれば、今、この心得違いの愚者を罰するのもいいのだ、と思った。
そう、思い出した。
その為に神の使徒となった。
神へ供物を捧げよう。
愚かなる不心得者にもその程度には役立って貰わねば。
それくらいしか役に立たないのだから。
事が終わった後、魔術師は姿を見せた。
彼はいつも通りの黒い外套を纏いながら愉しげだった。
「ふむん、なかなかにいい手際だね。素晴らしい」
「もっと供物を捧げないと、ここは愚か者の不埒な行いで汚されましたから」
「それなら大丈夫だ、もう間も無くここにまた新たな供物となるべき者達が来る。ただし、彼らは只者ではない。そこに転がる者達とは違ってね、だから」
少し記憶を封じさせて貰うよ、と言葉がかけられてそこで意識は途切れた。
確かにその後ここを訪れたのは武装した連中だった。
彼らは神の使徒である自分と似た力を持っている様だった。
だが、彼らは神を信じてはいない。
それどころか、彼らは脅威に成り得る。
そう、感じた瞬間に記憶は戻った。
数は多いが問題はないだろう。どうせ彼らは自分よりもずっと遅いのだから。
◆◆◆
「アグアアアアア」
野犬が吠えながら襲いかかって来る。
藤田は既に覚悟を定めていた。
自分よりもずっと速い相手に先手を取るのは不可能だ。
どんな攻撃であっても、相手に届く前に躱される事は必定。
(であるなら、もう狙いは一つだけだ)
その目は真っ直ぐに突進してくる獣を見据える。
重要なのはタイミングだ。
下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、という言葉があるが、そんなのはこの場合は嘘っぱちだ。
それが通じるのは同等、或いは少し自分よりも優れた相手に対して当てはまる言葉。
藤田が人であるなら、相手の桐栄青年であった山犬の速度は自然界最速の速度を誇る隼だと言えよう。
せいぜい短距離で時速にして四〇キロ程度の速度の自分で、その速度三〇〇キロにも達する相手を捉えられる道理がない。
だからこそ藤田は黙して待つ。
彼の狙いは後の先、つまりはカウンターだ。
だが、普通のカウンターではお話にもならない。だから、賭けに打って出る。
グルルルル、という相手の呻き声が聞こえて来る。
藤田は目を閉じて、静かにその機を待つ。
相手の速度と反応速度は自分とは桁が違う。どうせ目にも止まらぬ速さなのだ。見えないのであれば見なければいい、余計な事に反応しない為に視覚をシャットする。
聞こえて来るのはダ、ダッという相手の足音。
一歩一歩が確実にこちらへと向かって来るのが実感出来る。
(来い)
そして、待っていた時が訪れた。
ズブリという嫌な感触。
激痛が全身を駆け抜けた。
「う、がが」
相手の戸惑いが伝わる。
それも当然だろう、さっきまで殆ど通用しなかった爪先。斬撃は無駄だと判断した山犬は、攻撃を刺突へと切り替えた。
それが功を奏した、そう思った。
槍の穂先の様に突き出した手は相手の肉体へ突きたった。
あとはその穂先を抜くだけ、であった。
だのに、
その手は抜けなかった。
信じられない事に手刀、或いは槍は相手の肉体、その分厚く、柔らかな筋肉に埋まったまま抜けなくなったのだ。
「ギ、ギカガガガガ」
何を言っているのかはサッパリだったが、焦っているのは想像に難くない。
「さて、ようやく捕まえたな」
藤田が目蓋を開く。まさしく肉を切らせて骨を断つ、という言葉の通りの作戦。わざと筋肉を弛め、相手の一撃をマトモに受ける。そしてそれが致命打になる前、その僅かな時間で相手の手を筋肉でホールドする。その為に集中していたのだ。自分の死の一歩手前の一瞬に賭けて、勝ったのだ。
「ギ、ググガガガギギギ」
桐栄青年だった獣は自分の目前にいる灰色熊の動きが見えていた。なまじその動きがゆっくりに見えていただけに抱く恐怖も凄まじかった。相手がその両腕を動かしてそのまま締め上げる。所謂ベアハグ。シンプルながらも荒々しく、六メートルもの巨躯からの極太の豪腕からのそれはとてつもない膂力で相手の脊柱、背骨、胸骨を瞬時に粉砕、そしてそのまま一気にその保護下にあった主要な臓器をも押し潰した。
ゴキャメキメキブチッ。
その気味の悪い音は死の音。
最早声すらあげる暇もない、山犬は、何も発する事なくそのままガクリと力無く脱力した。
藤田はそれを無造作に放り投げる。
ドザ、という地面に落ちたそれは見るも無残な状態であった。
だが、辛うじて生きていた。瀕死ではあったが。
殺す事は容易かったが、敢えてそうしたのは相手には聞きたい事があったから。
今回の件、部下を殺したのは目前で死にかけているフリークで間違いない。だが、真犯人、黒幕はあの黒い外套の男のはず。
相手が何者かを聞き出すつもりだった。
もしもそれが無意味で、抵抗されたなら迷わずにトドメを刺す。
相手の事情は分からない、彼もまた哀れな被害者かも知れない。
だが、それでも。
藤田にはまだ戦うべき相手がいたのだ。
だが――――!
彼は気付いていなかった、いや、気付いた瞬間には遅かった。
ドン、という全身に響く強烈な衝撃。
藤田の巨体すらアッサリと宙に浮く程の一撃。
「が…………!」
一瞬で意識を断たれ、相手が誰かも分からない。
「…………」
第三者は無言で相手を見下ろす。
その視線には瀕死のフリークと昏倒した灰色熊。
獲物ではなかったが、邪魔者はこれで片付いた。
本来の獲物を仕留めるべく、その場を去ろうとした背後。
山犬がその身体を起こし、襲いかかろうとした。
肉体が回復した訳ではない。既に桐栄青年の意識は断たれていた。これはあの魔術師の゛仕込み゛。死しても尚、最後の抵抗を強制的に行わせる邪悪な一手。
第三者は気付かないのか振り向きすらしない。
山犬は相手の首に牙で噛みつこうとしていた。それは魔術師からの無意識下での刷り込み。
もっとも全身を潰され、まだ殆ど回復していない今、それしか攻撃手段がないのだとも云えたが。
その牙を突き立てようと飛び掛かった時だ。
その顔面に相手の拳が振り向き様に叩き込まれた。
それがトドメとなった。
その一撃は彼の頭蓋を砕き、即死足らしめる。
仮に意識があっても、相手の一撃がよく見えなかっただろう。
それ程の爆発的な速度で拳が叩き込まれた。
意識があったとしても、何をされたかさえ、分からなかっただろう。
第三者はもう確認すらしない。ただ静かにその場を立ち去っていく。