外套を纏う男
獣の如き叫びを発しながら桐栄青年は、否、桐栄だったそれはすぐ側に佇む獲物へと飛び掛かる。
一見すると然程変わった様子はない。
明らかに藤田と比べると子供の様なその体躯。そして無駄の多い動作。正直に言って脅威となるほどではない。
だが、
藤田は咄嗟に後ろへと僅かに飛び退いた。
灰色熊たる大男の目は油断なく見ていたのだ、相手の口から覗く異常なまでに伸びた牙を。
まるで狼の様な鋭い牙がいつの間にか飛び出しつつあった。
だが、藤田はあくまで冷静だった。
まずその突進を相手の額に左手を押し付けて遮る。
その勢いのある獣の様な突進も、そもそもの体格差とパワー不足を覆すには不十分。
それに、藤田は肉体操作能力者。それもパワー重視の。
正面からの突進では倒すのは困難な相手だ。
「ぐるるあああああ」
桐栄だった獣が唸り声をあげる。何とか状況を打破せんと体重を乗せ、足を動かす。
だが、無駄だった。同時に藤田も体重を乗せつつ前に荷重をかけて相手の目論みを妨害する。
そして前のめりになった襲撃者のその側頭部めがけて右で張り手を喰らわせた。
ばちぃん、という音こそ平手打ちの様に僅かに甲高い響きであったが、実際の威力は比較するだけ無駄だ。
言うなれば金槌で殴られた様なもの。
それは脳震盪ものの一撃。
現に桐栄だったそれはがくり、と膝を屈している。
「君に恨みはないけど、話して貰えるかな?」
藤田は相手を悠然と見下ろしつつ、話しかけた。
対して、
「あぐるるエウゥゥゥ」
素早く跳ね起きて四肢を地面に付けて、獰猛に唸るそれはまさしく獣。
さっきまで、ほんの少し前まで、彼は普通の青年であった。
それが今はどうだ。
その口からは牙が覗いており、涎が垂れている。もはや理性の欠片さえそこからは感じ取れない。
そのあまりの豹変ぶりに歴戦のベテランマイノリティも驚きを隠せなかった。
そしてその僅かな逡巡を獣は見逃さずに飛び掛かって来る。
もっとも、双方はその戦闘能力に於いて雲泥の差が開いており、その奇襲も功は奏さない。
無数の獣が相手であればいざ知らず、"灰色熊"の異名は伊達ではない。一対一での戦い、まして真正面からのぶつかり合いで熊に狼は太刀打ち出来ない。
結果は明らかであった。
藤田は苦もなく、相手を組み伏せる事に成功した。
(コイツは一体、どういう事だ?)
その長く長く伸びた髭を触りながら藤田は考える。
桐栄青年だった獣は、藤田が持参していた特殊仕様のワイヤーで手足を拘束した。
このワイヤーは切れ味こそ殆ど有してはいないものの、その分、強い剛性を持つ。つまりは切れにくいのだ。だから、これを切るには単純な力では困難だ。藤田が本気を出せば切る事は可能ではあったが、少なくとも拘束した獣は速さこそかなりの物でこそあれ、筋力、腕力は然程高くはない。だから、ワイヤーはまず切られる心配はないだろう。
その上で相手を観察してみた。
彼はまず間違いなくフリークだ。
という事は、桐栄青年はマイノリティだという事になる。
彼の目に理性は宿ってはおらず、ついさっきまでとは完全に別の存在だとしか思えない。
(彼がマイノリティだったとして、何故一気にフリークと化したのだ?)
その変化は殆ど一瞬のことであった。
一気に理性を喪失し、獰猛さをむき出しにした結果として、怪物になった。
(そもそも彼はいつからマイノリティだったのだ?)
そうした疑問を思い浮かべた時であった。
「うむ、まずは君から戴くとしようか」
と、声がかけられた。
藤田が振り向くとそこには黒い外套を纏った男の姿。
「な、何だお前は?」
そう問いかける髭面の大男の全身をゾクリ、とした悪寒が駆け巡る。
その男はまさしく異装、と言うべき存在だった。
その全身全て漆黒で染め抜いた服装に、佇まいはこの一面の暗闇の一部であるかの様だ。
そんな中で目を引いたのは生きているとは思えない程に白い肌と、赤い二つの瞳。
その年の頃は三十代の後半から四十代始めといった所に見える。顔立ちは整っており若い頃は美青年であったのだろう事を容易に想起させる。
それはまるで古典的なホラー映画にでも出てきそうな存在。
そんな男がそこにいた。
「我輩が何者であるか、そう問うたかね?」
どこか時代がかったその口調も時代錯誤といっても過言ではない。
生きている世界が違うかの様な印象だ。
しかしその表情、服装等を見る限り、その立ち振舞い全てが目の前にいる相手にピタリと適合していた。
「……そうだ」
自然と全身が強張る。この相手は危険であると、藤田の直感は警鐘を鳴らしていた。
彼の直感はこれまで常に正しかった、……良くも悪くもだ。
直感はこう告げている、"今すぐにここから逃げ出せ"と。
だが、身体がいう事を利かない。
本能では理解していた。だが、彼の理性がそれを認めない。
彼の直感はこうも告げている。
この男は紛れもなく"邪悪"な存在であると。ここで見過ごせば、とてつもなく悪い事が起こるに違いないと。
つまりは、生き延びたければ逃走しろ。
だが世界を守りたければ戦え、という二択。
そして藤田田熊の選択肢は、自身の生存ではなくここで相手を倒す、であった。
藤田は即座に動いた。相手が何者であるかそんな事はいまは後回しだ。戦う、そう決めた以上は勝つ。始めから全力あるのみ。
両者の距離はおよそ十メートル程。
全身の筋力を解放した藤田であれば二歩で届く。時間は一秒にも満たない。
振うべき武器は己が左腕。瞬時に隆起した筋肉の塊を相手の首へと叩き込む。
まずは一歩目。左足を踏み出す。姿勢は前傾。
相手は虚を突かれでもしたのか微動だにしない。
続いて二歩目。右足を踏み込む。右肩を前に押し出す様な姿勢から左腕を一気に振り切る。
勢いのついた腕刀での一撃、一般的にはラリアットともいう打撃技。
相手は全く反応が間に合わないのかその一撃は狙い通りに首へと直撃せしめた。
ゴキャ、メキ。
何かが折れて、破砕した音と感触。
そのまま左腕を振り切る。相手の身体は冗談の様に吹っ飛んでいく。
バキバキ、と何本もの樹木の幹をへし折りつつ、一際大きな樹齢は数百年以上はあるだろう大木に激突。その幹を背にしてようやくズルズルと崩れ落ちた。
「ふう、ふう」
藤田が息をつく。まさしく秒殺。灰色熊の最強の一撃を初撃で叩き込んだ。
それは相手によっては全身全てを破壊出来る一撃。
衝撃に換算すると数十トンものトラックに匹敵する強打を超えた猛打。
最新鋭の戦車砲にも劣らないだけの一撃を首に集中させたのだ。例えマイノリティであろうとも即死しても何もおかしくはない。それほどの攻撃を相手はまともに喰らったのだ。
これで終わっても何もおかしくはない。
「よし、行くか」
藤田が奥へと足を向ける。無論、相手の死亡を確認する為に。
目が慣れたとは言え、やはり不気味な森だった。
へし折れた樹木には悪い事をしたとは思う。だが、長引かせるのだけは避けたかった。
何せ相手のイレギュラーが全くの不明であったのだから。
地面からは微かながらも血の臭い。そして相手が地面を擦った事で付いたらしき筋が伸びている。
そうして数十メートル程奥で、相手を発見したはず――であった。
しかし、居るべき相手の姿はそこには無かった。
藤田は思わず「馬鹿な」と声をあげた。
左腕での一撃は完璧に決まっていた。手応えも充分にあった。少なく見積もっても間違いなく相手は重傷を負っていなければならないはずだ。
その大木の幹には大きなひび割れと、べったりとした血痕が付着している。相当の出血量だ、リカバーを用いてもすぐに回復出来ないはずだ。
(にも関わらず一体何処に?)
焦燥感に囚われた藤田は周囲を見回す。
上下左右、四方八方を注意深く。
だが、
「我輩に傷を負わせるとはなかなかに有望だね、君は」
その声に気付いた瞬間、藤田の意識はプツン、と断ち切られた。
黒い外套の男に「くはははは」という笑い声だけが響き轟いた。