激情の初撃――インテンスファースト
それは……これ迄感じた事のない痛みだった。
殴られたり、切られた事ならマイノリティになる前も多かったし、裏社会で生きる様になってからは――そう、殺し屋になってからは尚の事そうだった。
しかし今、彼を蝕む痛みはそういった物とは全くの別物だった。
例えるなら、自分を熱した鍋に焚べてグツグツ、と煮ているというのが適当だろうか? 火傷とは明らかに異質の痛みだ。
彼は自分の胸部を標的の拳が突き通したのを目視した。
そして、そのまま瞬間――全身が、熱せられたのだ。
全身のありとあらゆる水分が沸騰していく。体液全てが蒸発していこうとしているのが瞬時に理解出来た。
もうほんの数秒、或いはもっと短い時間で自分は死ぬ、と理解した。
今までの彼であれば、生も死も結果でしかない、とそのまま受け入れていた事だろう。
しかし──。
(まだだ、まだ出来る、殺し足りない)
彼は渇えていた。戦いに渇えていたのだ。もう何年もの間感じる事の無かった充実した殺し合いをもっと、もっと。
そして彼の中で、自分をこうした相手への敬意とそれ以上に純粋な”殺意”が溢れ出していく。その本能の声に彼は動かされた。
何を思ったか、自分の残された左手……鉞を勢いよく振り降ろした。
ダン、という音は──肉を斬り、骨を断つ音。
そして彼は生き延びた。
それは時間に換算すればたった一秒か二秒の出来事。
だが、この鉞という名を持つ殺し屋にして武侠にすればこれ迄の人生で最高に濃密な時間だった。
「くははは、はははは」
十数年間、笑った事も殆ど無くなっていた彼が笑う。
自分がより強くなる都度、心が死んでいく様な感覚を感じてきた。それもまた、武を追求する上では仕方がない、と思ってきた。
だが今、それが間違っていたと確信出来た。
自分は殺し屋であり、武侠である以前に”化け物”なのだ。
ならば、それを抑え付けて如何とするか?
そう思えた時、彼の欠損した肉体は新たに再生。より強靭に発達していく。肉体そのものが変異していくのが実感出来る。
「くははは……いいぞ」
こうしてここに鉞という名の新たな怪物が誕生したのだった。
「こそこそすンなよオッサン。生きてンだろ?」
零二には相手の殺気がハッキリ感じ取れていた。
さっきの一撃には確かに手応えがあった。普通ならもう手遅れだったはずだ。
だが、あくまでそれは相手が普通ならの話。そもそもマイノリティという段階で、人という範疇に納まらないのだ。
人外である以上、相手がどんなイレギュラーを持っていてもおかしくは無いのだ。
ガララ、と建築現場から出てきたその姿はまさに”異形”。
冴えない中年と勘違いしかねない風貌はどこへやら。
全身の筋肉は隆起しており、その背丈はおよそ二メートル。重量は軽く数百キロ以上はあるだろう。
何よりも特徴的なのは、その上半身及びに肥大化した両腕の筋肉で、まるでそこだけは別の生き物と交換したのでは? と思える程だった。
「おいおい、そりゃ変わり過ぎだろ」
零二は半ば呆れた声をあげる。
微かに前傾姿勢を取った……その次の瞬間。
目の前に相手は肉薄していた。
不意を突かれた零二にそのまま鉞が肩を突きだし、ぶちかます。
「くっっ」
小さく呻きつつ、それを受け止める。全身から吹き出す熱が蒸気の様に身体を覆う。そして鉞にそのまま襲いかかる。
「うがあああああ」
だが、フリークと化した敵は止まらない。身体がシュウシュウと熱で火傷しようと構う事なくそのまま力押し……零二の身体は遂には後方へ弾き飛ばされた。
地面に一度、二度と跳ねておよそ十メートル近くは飛ばされる。
「つぅっっっ」
即座に起き上がり、向き直る。そして鉞が、その左手をその場で振るうのを目にした。
「くっそっっ」
今度は横っ飛び。すると、地面にピピシシ、と亀裂が入り、あっという間に今彼がいた場所を通過。そのまま向かいのプレハブ小屋を真っ二つにした。
「くははは、はははは……素晴らしい。スバラシイ」
その声には自分に酔っている響きがあり、さっきまでの様な冷静さとは無縁だった。長年抑え付けていた感情が溢れ出している。
気分が高揚していくのが堪らなく心地いいのか歪んだものではあったが、笑みを浮かべているのが分かる。
「死ね、しね、シネエッッッッッッッ」
口元を綻ばせながら、左右の鉞を次々と敵に向けて振るう。
上下左右へとその場から放たれた斬撃の余波が襲いかかり、零二の身体を徐々に……しかし確実に切り刻んでいく。
「くはははは……死ね、死ねっっっ」
鉞は哄笑しながら、己の異名でもあるその凶器じみた腕を繰り出していく。そこから発せられる斬撃の余波が遂に標的──零二を捉えた。
「調子に乗ってンじゃねェぞ、こらァ!!!」
怒気を露に叫ぶと零二は白く輝く右拳を構え……突き出す。
バアアン、という轟音が響き渡り、余波を相殺する。
そしてそのまま熱を解放し……一気に加速。肉薄していく。
「バカメ、しね」
鉞は両腕を、その最早見るまでもなく巨大な両腕を繰り出す。それはまるで巨大な鋏の様に、向かってくる相手を両断するべく襲いかかる。
それに対し零二は一言呟いた。
「──おっせぇンだよ」
「ナッッ」
鉞は判断を誤った。目の前にいる少年の熱操作により飛躍的に向上するその身体能力を。彼の想像を遥かに越える速度だった。
それにこの少年の踏み込みの深さ、躊躇いなく自分から間合いに入る度胸、そして自分へと向け放たれる拳の威力を。
さっきまでのフリークと化する前の彼であれば、もう少し対応の仕様もあった事だろう。
今の彼は自分の長所を活かせていない。
彼が、師匠から学んだ武技の特徴は、両の手を文字通りに刃に変える事による接近戦闘。にも関わらず、今の彼の鉞は接近戦闘で用いるには余りにも長大であり、迫る相手を迎撃出来ない。
これでは相手に肉薄された時に対応出来ない。
急激なフリークへの変異が、溢れ出す能力への愉悦感が、彼から冷静な思考能力を奪い去っていたのだ。
しかし、もう遅い。
全身から蒸気の様に湯気を吹き出す少年は左足を一歩踏み込む。
ズシン、とした震脚の様なその動作から拳を……必殺の、絶殺の拳を喰らわせる。それは鉞の顔面を直撃。巨体などお構い無しに吹き飛ばす。
「ぐがあああ」
叫び声をあげながら彼の全身が瞬時に蒸発を始めていく。
「バ、バ、バカナあああああ」
さっきとはまるでその威力が違う事に驚愕する。
さっきは胸部を貫かれた事で相手の熱が全身を伝わったのだと思っていたのに。今度は殆ど間髪なく全身が一気に……。
そして、そのまま消え失せる直前彼が今際の際に理解した事、それは。
(ま、まるで違う――私などとは化け物としての格が)
「──激情の初撃」
全身に熱を纏わせた少年がそう言葉を発するとほぼ同時に、哀れなフリークは消え失せた。
全身の熱量を拳に集中させ叩き込む。ただそれだけの技。その威力は圧倒的ではあるが欠点もある。
それは、相手に与える熱量が安定しない、という事だ。
訓練をどれだけしても自分自身の熱操作については向上していったものの、相手に伝える、という段階になると安定しないのだ。
その結果を目にした九条羽鳥はこう結論を出した。
”感情に大きく影響される”
とどのつまり、零二の感情が大きく振れている時とそうでない時とでは威力が違うのだ。
だから自分で名付けたのだ。”激情”と。
自分自身のその時の感情によりその威力を大きく変える一撃。
それにその言葉こそ、不安定な自分を象徴している、と思えるから。
「楽しかったぜ、オッサン。でも悪ぃ……」
彼は手向けの言葉を消えた相手にかけた。
「……アンタが生きてきた証を、オレは──全部ブッ飛ばす」
(クキャッキャ、死ねガキがよぉぉぉ)
その一連の戦闘を傍観していた木島秀助が、獲物へと襲いかかるべく上から音もなく降りていく。これこそが彼の得意とする戦法。人間は上からの、空中からの襲撃に弱い。それに付け込んでの暗殺。相手は、零二は上には一切気付く様子も無い。
その八本の手足を槍状に変異させ、一気に全身を貫く。
いくら化け物でも、自分の八本もの槍をその身に受ければ無事では済まない。確実に殺せるだろう、と。仮に即死じゃなくとも、その五体を引き裂けばいいだけだ。
しかし、相手は不意にこう呟く。
「っで、てめェはなンだ?」と。気付かれていたのだ。
「!?」
だが、もう止まれない。相手に気付かれていようが関係無い。
八本の槍を突き立てる寸前、相手はその場を一歩後ろに下がる。
ガガン、鈍い音を立てて槍は地面に突き刺さった。
その木島を、零二は冷ややかな目で睨みつけている。”狂った蜘蛛”は理解していなかった。
目の前で自分を凝視している生意気な少年にとっくに自分の存在を察知されていた事を。
確かに、物音は殆ど立ててはいなかった。
しかし、零二にはハッキリと感じ取れていた。
この連戦を遠くから覗き込む何者かの気配を。自分を眺めるその下卑た気配に。
この少年は、自分がWDを始めとした数多くの組織から懸賞金を付けられている事をよく理解している。
その上で彼は外の世界で生きていく事を決めた。その時から、彼は常にその首を狙われる狩りの獲物として生きるしか選択肢がなかった。
だからこそだろうか、彼を拾い上げた九条羽鳥はそんな少年に生きる術を教える為に”教師”を付けた。
それが今の彼の後見人であり、お目付け役でもある加藤秀二であった。
その後見人が最初に教え込んだのは、それまでの戦い方を捨てさせる事。
それまでの零二は、ただ本能だけで、自分のイレギュラーを頼みに戦っていた。それでも充分に強かったからだ。
しかし、その強さの源泉であった焔を封じられた以上、それまでの様な力押し一辺倒ではもう通用しない。
加藤秀二、秀じぃは生き抜く為の必要最低限の事を文字通りに叩き込んだ。
その中で真っ先に徹底的に教え込まれた事は”気配”を感じる事だった。どんな相手であっても気配を完全に断つ事は出来ない。
例え、姿は見えなくとも相手の存在を認識する事が出来れば、不意打ちにも備える事が出来る、とそう言われて。
だが、零二が相手に対して怒気を露にしているのは、自分が狙われたからではない。暗殺者に狙われる身としてはいちいち不意打ちが起きる度に怒りを抱いていたのではキリがない。
この不良少年が最も嫌う事、軽蔑する事が一つだけある。
それは、イレギュラーを一般人に対して行使する事。
無論、全てを否定するつもりはない、例えば見てはいけない現場を、情報を知ってしまった者の記憶の改竄、消去についてはやむを得ないと理解しているつもりだ。
彼が嫌うのは、自分達の様なマイノリティが自分の為に、自身の欲望、悦楽の為にイレギュラーを用いて蹂躙する事だ。
その点に於いて、今、彼の目の前にいる狂った蜘蛛の通称を持つこの連続猟奇殺人犯はまさにその軽蔑の対象だった。
自分の快楽の為だけに一般人にを嬲り殺している事はWD内でも、いや正確にはWD九頭龍でも問題視されている。
他の支部であれば特に問題視されはしないだろう。
武藤零二という少年にとってマイノリティとは、化け物に片足を突っ込んだ存在だ。そしてイレギュラーとは化け物が化け物に対抗する為の武器。肉食獣が別の肉食獣に対抗する為に用いるべき牙であり爪で在るべき物だ。
この考えもまた、後見人である秀じぃの受け売りではあったが、素直に納得出来たのは、自分自身が二年前にイレギュラーの暴走であの”白い箱庭”を壊滅させた際、そこにいた全ての人員を”消してしまった”からだ。
あそこにいた、という事実だけで一般人だろうがクロだっただろう。しかし、あれは一方的な”虐殺”だった。
あの施設には大勢の自分の様な被験者もいたのに、彼らをもこの世から消してしまったのだから。
後悔しても今更遅かった。もう、可能性は閉じられたのだ。生きてさえいれば掴めたかも知れなかった様々な可能性を、感情に飲まれイレギュラーの暴走で全て消したのだ。
だから武藤零二がこの世で一番許せないのは、自分自身。
だからこの考えは、所詮自分のエゴなのだ。
そこにいる殺人鬼よりも遥かに大勢の命を奪っている自分が、殺人をいくら蔑視しても大して意味はない。説得力もないだろう。
それでも、そうだからこそ。
深紅の零という通称、武藤零二という名前を持った彼は、許せない。己の快楽に溺れた”同類”を。
「クキャキャ……何だガキ? 文句でもあるか?」
目の前にいるフリークか発せられる声からは不快な、不快感しか感じない。だから答えるつもりは特にない。
「けっっ、死にやがれっっっ」
木島秀助は、地面から槍の如く鋭利に尖った八本の手足を引き抜く。そして目の前にいる生意気な少年を今度こそ串刺しにすべく放つ。距離にしてほんの一メートル。八本もの槍を全て躱す事など出来ない、そう思っていた。
深紅の零たる少年は一歩も動かなかった。
微動だにせずただ無造作に拳を振るっただけだった。
メキャメキャ。
「ぐぎゃあああああ」
悲鳴をあげたのは木島。彼の槍、手足が三本へし折られていた。
それもたった一発の右フックで横殴りに。
今の今まで零二が相手にしていた鉞に比べれば、蜘蛛の攻撃等は子供の悪戯程度でしかなかった。
「くだンねェな」
吐き捨てる様にそう呟くと、もがく相手の顔面を蹴りつける。
「あぎゃあああ」
相手にする気すら起きない。
所詮は、自分よりも弱い相手を殺すしか、無抵抗な一般人を殺す事ばかりに夢中の相手。こんな相手に遅れを取るはずもない。
「おいクソッタレ野郎。今晩はもう殺しはしねぇ、だが、二度とオレの前にその汚ねェツラを見せンな。次はねェからな」
そう通告すると、零二は藻掻き苦しむフリークを通り過ぎ気を失っている見浦堅の元に近付く。そしてその身体を担ぎ上げ、その場を後にしていく。
その後ろ姿は隙だらけであり、攻撃すれば躱す事は出来なかっただろう。しかし、戦意を喪失した木島はその場で悶えるだけ。
「くそガキがっっっっ」
ただ、そう叫ぶのが精一杯だった。
「んーー、でどうするの? 個人的には始末した方がいいと思うよ、面倒くさいけど」
今の一部始終を見ていたのは桜音次歌音。
零二の仕事上の相棒であり、いざという際には相棒を殺す為の”首輪”の役割を持つ少女。
その姿は暗闇に紛れ見る事は出来ない。
彼女は木島よりも近くから全てを見ていた。
だが、この場に来たのは一番最後。
周辺のビルや建築現場には木島が張り巡らせた”糸”による結界が存在していた。普通ならばその糸に気付かずに触れてしまう事だろう。
しかし”音使い”である彼女には空気に、微かな風に揺れる糸の音をも聞き分けていた。だから木島にも気付かれる事もなくこうして見物出来たのだ。
──クレイジースパイダーはそのまま放置してください。
「……いいの? 多分、誰かに雇われてるよアイツ」
――ええ、構いません。あれの背後にいる者の動きを掴む為にもうしばらくは泳がせておきますので。今日はお疲れ様でした。
そう言って通話を切ったのは、彼女と零二の上司である九条羽鳥。
この時はまだ知るはずもなかったが、この木島秀助は数週間後にある事件を起こす。それはまたこの世界に新たなマイノリティを呼び起こすキッカケに繋がるのだった。




