闇夜に蠢くモノ
ホー、ホーホー。
梟の鳴き声が森の中に響いていた。
その光る目だけが暗闇の中で浮かび上がっている。
そんな森の中を歩く一団がいた。その一団は、深夜の森の中をライトもなしに進んでいく。
「それにしても、だ……」
深い森だな、と思ったのはWG岐阜支部の支部長である藤田田熊。
その一団の中でも頭一つ図抜けた身長は二〇〇センチをゆうに超え、体重も一三〇キロはある巨漢だ。
更に顔には、もう何年も剃っていないと思われる髭が伸び放題。その様相は、名に冠した熊という文字に相応しく、否、熊そのものを思わせる。
彼らがこうして夜も更けた黄昏時に森を歩く羽目に陥ったのは、一本の通信からであった。
岐阜県と九頭龍との境目近辺で怪物を見た、というのがその内容。その通信はWDの物で、それを傍受した藤田は即座に行動を決意。
深い理由があった訳ではない。何だか嫌な予感を覚えたから、つまりは直感。
昔から何か起きる度に、藤田は自分の直感に従う事で常に生き延びて来た。
その直感が何かを感じ取ったのだ、この何でもない通信が何かとんでもない災いの前兆の様に思えてならない。
だからこそ、である。支部長自らがこうして深夜の森を歩いているのは。
支部のエージェント達も異論を挟まないのは、藤田のこうした直感が外れた事が無いからだ。
出来れば杞憂であって欲しかった。直感が間違っていればどんなにか良かった事であろうか、と。
だが、嫌な予感はますます強まっていく。
一緒に随行している支部のエージェント達も何かを感じ始めているらしく森に踏み入った頃とは違い、今は無言で押し黙り、静かに一歩一歩を踏みしめていた。
徐々に異常を感じ始めるエージェントの表情に緊張の色がはっきりと浮かびあがっていく。
ざ、ざ、ざ、ざさっ。
腐葉土を踏みしめていく。その柔らかい地面の感触も普段であれば全く気にもならないであろう。
だが今は事情が違う。微かな月明りすら差さぬ深い深い森の中、嫌が応にも慎重にならざるを得ないその歩み。
一歩一歩とその柔らかい土に沈み込む足。ズブ、ズブリとした足の感触はまるで生き物の死骸を踏みつけているかの様でもあり、何とも言えない不安感を誘引する。
「…………………」
誰一人として言葉を発しない。ただ無言で歩んでいく。
森の様子はいよいよ異様な雰囲気を醸し出す。奥に行く毎に森の中にいて然るべき動物達の気配が減っていく。死んだ訳ではない。
何の事はない。彼らは単に一足も二足も早く逃げ出しただけの事だ。森を抜けた先から漂う異様な雰囲気を────禍々しい殺意を明敏に感じ取って。
そしていよいよWG岐阜支部の面々は目的地へと辿り着く。
藤田が掲げた右手を一度広げると、ぐっと握り締める。それはハンドサインの一種で散開の合図だ。
支部長の指示を見たエージェント達は何一つ反論も無駄口も叩く事無く即座に展開。円状に広がり、周囲を警戒しながら慎重に歩を進め出す。彼らとてエージェントである以上、いざとなれば心を切り替える。
だが、
「ううっ」
その惨状は彼らのそうした意識を揺らがせる程に陰惨であった。
そこにいたのは、無数の、物言わぬ骸。
その血の匂いは吐き気を催させる程に濃厚。
誰一人として、生存者等はいないであろう事はこの場にいる全員分かっていた。
これだけの死の世界に生者がいられるはずもない。
「酷いものだな、こいつは」
ううう、と藤田もまた深いため息を付く。
それでも一体何があったのかをWG支部長として知る必要があった。
だから、続けてこの集落の調査を命じた。
酷い惨状ではあったが、疑問もまたあったからだ。
そもそもこの集落は近々消滅するはずだった。
理由は簡単で、あまりにも交通の便が悪い為だ。
集落から一番近い車道に辿り着くまで直線距離にしておよそ三キロ。
それもここに来る前に通り抜けたあの深い深い森を突っ切って。
恐らくは日中であっても薄暗いあの森をだ。
交通手段らしいものもろくになく、電気や水道こそ何とか繋がってはいるものの、その生活水準は五十年前といって差し支えないレベルの集落。
かつては国境という事でそれなりに人の往き来もあったそうだが、それも今は昔の事。
こんな場所に今時の若者が残りたがるはずもない。
だというにも関わらずに、だ。
ここに打ち捨てられている亡骸はどう見ても老人、というには若過ぎる。
二十代から三十代の若者たちが死者の大半であった。
さらに調べが進むに連れて不審な点が浮かび上がった。
住民票の表記上ならそこに住んでいるはずの元々の住人が集落の何処を探しても一向に見つからなかったのだ。確かに廃屋だらけで人の住んでいる住居の方が少なくはあったが、それらの住居は例外なくネット回線等が開設されており、しかもそれらの工法は、一般的な業者の物ではなく、軍隊仕様の特殊な物を用いていたのだ。こうまでする意味が判然としない。
そうして調査が一通り終わり、報告を聞いた上での藤田の結論はというと、
「ここはどうやらWDないし、それらに準ずる連中の拠点だった」
という物だった。
これ以上の調査は日が昇ってからでいいだろうと判断した藤田が仮眠を取るように各々に伝えようとした時だった。
ガザサッッ。
その物音は彼らの丁度背後からだった。
咄嗟に身構えたWGエージェント達の視界に入ったのは一人の青年。
白のツナギ姿の青年は全身が傷だらけで、見るからに重傷である。
「た、助けて……」
青年はふらふらとよろめきながら近付いて来て、倒れる。
「おい、…………」
藤田が近付くと、青年は完全に気を失っていた。
◆◆◆
「う、うう」
呻きつつ、青年は目を覚ました。まず視界に飛び込んだのは青色の天井だった。
起き上がろうと試みる。
「痛っっ」
そして全身に鋭い痛みが走る。
傷にはキチンとした応急処置が施されており、どうやら親切な誰かが手当て等も行ってくれた様だった。
「おお、起きたか?」
そう言いつテントに入って来たのは髭面の巨漢、藤田だった。
その見た目こそ威圧的であったものの、表情は一転して穏やか。
青年は唾をゴクリ、と飲み込み、意を決して尋ねた。
「あ。あなたは?」
「そいつぁ、こちらのセリフだな。…………お前さん一体どこの誰なんだ?」
「そ、それは────」
青年は藤田を悪人だとは思えず、素直に身の上を話す事にした。
数分後。
「何てこった」
藤田は深いため息をつく。
青年の名は桐栄。苗字は無いとの事だった。
この集落に到着しておよそ半日が経とうとしていた。
日が昇り、休息していた岐阜支部の面々は改めてこの集落の調査を再開した。
だがその結果は芳しくない。
何故ならそれは、ここで死亡していた人々のデータが一切分からなかったからだ。
彼らの生きていたという証が、存在証明が裏付けられない。
つまり、ここで亡くなっていた人々はこの世に存在しない人々、そういう事になってしまう。
だからこそ、藤田は密かに期待していたのだ。
唯一の生存者であるこの青年に。彼から話を聞けば、何かしらの突破口が見つかるかも知れないと、そう思って。
そして青年からの話を聞いた結果、それは想像を絶する話だった。
まず、ここの集落の元の住人は既にいない、との事であった。
それから、ここにいた人々についてだが、
◆◆◆
「じゃ、つまりそこは」
「その通りです、【存在しない】はずの集落という事です」
美影は九頭龍支部からの呼び出しを受け、現在はエレベーターに支部長である井藤と二人で移動していた。
二人共に無駄口等は一切ない。
そして井藤がある資料を美影に見せながら任務の説明をしていた。
そこは九頭龍と岐阜県の境界上にあった古い集落。
殆ど住人もおらず、更に彼らの希望との理由で地図から抹消された場所。
その辺りから岐阜支部が通信を傍受したのだ。
そこで、集落に到着したのだが、どうにも調査状況が良くないらしい。更にはWDエージェントから攻撃まで受けているらしい。現在は持ち堪えているものの相手のほうが数が上らしく劣勢を強いられている。
それで緊急で九頭龍支部に救援要請が入ったのだ。
そこで美影と田島一の二人が救援任務へと向かう事になった。
美影は日中は特務で動けないが、夜間はこうして緊急性の高い任務に当たる事もある。
時刻は間もなく深夜の一時。
「時間がありません、詳細は機上で話します」
エレベーターのドアが開き、耳に入ったのはバラバラバラ、というヘリのローター音。
「了解しました」
美影はそれだけ言うとヘリへと乗り込んでいった。