災いをもたらす者
時刻は深夜二時から三時になろうかという黄昏時。
ある街、ある廃病院。放棄されて幾年も経過し、すっかり老朽化が進んだかつては大勢の関係者や患者が往来したであろうフロアを闊歩するのは、もはやネズミやそれを狙う野良猫。そこはもう人の住む場所ではない。
最近ではこの病院跡を発端とする不気味な怪談もあるらしく、不気味な雰囲気も手伝い、地元の住人ですら近付かない。
だが、そんな場所で。
「くくく、はははは」
笑い声が轟く。
相手の心からの笑い声に、WGエージェントである笠場庵は苦虫を押し潰した様な表情を浮かべる。
笠場庵が自分の周囲を見回す。
そこにあったのは、無造作に転がされた人形、マネキンの様だ。
だが、その人形にはおかしな点がある。
普通のマネキンと違い、それらはサイズが大小様々。大きいものはおよそ二〇〇センチ位はある様だし、小さいものはまだ三十センチ程。それに、それぞれに肌の色が全然違う。
そして何よりも、それらはまだピく、ピくと脈動している事。
そう、彼らはマネキン等ではなく、間違いなく生きている人間であった。
「どうしたね、笠場庵くん? 今に至り恐ろしくなったのかね?
ならば去るがいい、我輩も暇ではないのだ。
折角の【食事】の邪魔をしないで貰いたいものだ」
声から滲むのは自分を狙う者への侮蔑、嘲笑、そして悦楽。
およそ考えられる限りでの嘲り。
笠場庵は、理解していた。
彼はまだ十五才の少年ではあったが、その実年齢以上に戦い慣れしている。であるからこそ理解していた。
今の自分では相手を倒す事が敵わないのだと。
実力差は歴然である事を。
「どうしたね? 逃げるなら逃げ給え。我輩は追わんよ。
鼠をイチイチ追いかけるのは面倒だからね」
見透かす様な嘲笑混じりの声。
その不快極まる声を聞き、笠羽庵は思わずぎりり、と歯軋り。
その拳を力一杯握り締め、爪が皮膚に食い込み、血が滴る。
そうだ、この相手は”前”にもそう告げたのだ。
忘れもしない。今、思い出してもあれは耐え難い屈辱だった。
あれから一年、今の強くなった自分ならば勝てる、そう思っていた。
だからこそ挑んだのだ。全てはあの男を殺す為に。
だというのに、……この体たらくは一体なんなのだろうか?
(そうだ、僕は負ける訳にはいかない)
笠場庵は、柱に手をかけて身体を起こす。どう見ても少年には余力は残っていない。
対して、その男の様子から窺えるのは、自身の敗北など露程も考えていない、という絶対の自負。
時代錯誤といって差し支えない黒い外套を纏う男。
その笑みを浮かべる口からは、鋭い犬歯が二本覗いていた。
それはまるで、牙の様に見える。
そしてその牙からは赤い筋が延びていた。
笠場庵は突進する。勝ち目がないのは承知だ。
それでも譲れない、目の前の相手に負ける事だけは。
「うおおおおおおおお」
かくして両者は激突。そして…………。
◆◆◆
六月初旬。
九頭龍学園高等部。
いつもの様に授業は滞りなく進んでいく。
まだ梅雨入りはしておらず、かといって春先より気温は高い。
教室内は冷暖房完備なのだが、温度計は二十三度。まだエアコンを入れる様な暑さではない。
授業は六時間目。昼御飯からは二時間と少し経過し、クラス全体に眠気が襲いかかる魔の時間帯。それでも大半の生徒は襲いくる強敵と戦っていたのだが、…………。
「Zzz」
という感じで約一名、完全に爆睡している生徒が一人。
髪はまるで針ネズミの様に逆立っていて、整髪剤を相当使っているとしか思えないが、これはあくまでも地毛だそう。ものすごい直毛の賜物だそう。
「…………おいバカ、」
小さな声がかけられた。
「ムニャムニャ」
爆睡真っ最中の生徒はその程度で目は覚まさない。
平和そうに口をあけ、何やらモゴモゴと動かしている。
「起きろ、バカ」
「…………もう少し、もう少し」
まだまだ絶賛爆睡真っ最中の生徒は一向に起きそうもない。
何かは分からないものの本人的にはいい夢でも見ているのかも知れない、と起こしにかかっている女生徒は思った。
そして、はぁ、とため息。おもむろに手を挙げる。
「はい、先生。申し訳ありませんが…………」
女生徒は教諭、及びにクラスメイトに一言謝った。
あ、今日は最高だな。
え、何がってお前バカ。今日は最高級サーロインステーキを食べ放題のスペシャルディナーなンだぜ。これを喜ばずして他に何を喜ぶってンだよなぁ。
しかもガーリックライスもおかわりし放題てなワケ。こいつぁ絶対に腹一杯になるまで食うぜ、いいぜ、いいぜとことん食ってやるからね、ステーキ共よッッッッ。
そうして気合いを入れまくり、ナプキンを付ける。ソースで汚れちゃ折角の一張羅が大変だからよぉ。
──お客様。お客様。
そんな中で、血気盛んなオレに声をかけてくる誰か。
店員さンだろうか、オレに言ってるのか? だが断る。今は大事な時なのだ。もう少し待っててくれ。
──お客様御電話が入っています。
電話だとぉ、めんどくせェ。
ヤダよ、出ないぞ、出ないぜ、出てたまるかってのさ。
今からなンだぞ、今から待ちに待ったステーキの食べ放題なンだ。だからゼってェ────────。
ガタン、ゴシン。
「いってェェェッッッッっ」
ツンツン頭の少年、零二は激痛で目を覚ました。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
何で、自分がステーキハウスにいないのか?
サーロインステーキの食べ放題は何処にいったのか?
様々な事が脳裏を高速で駆け巡り、一つの結論を導き出す。
「あ、ガッコだった」
と。
「武藤くん、ようやくお目覚めかしらぁ?」
そう声を発し、顔を上げた零二の眼前にいたのは悠然とした様子で席にかけているお隣の席の女生徒。容姿端麗、今時の美人とは少し面持ちが違う少女。
ファニーフェイス、個性的とも云われ、決して誉め言葉とも言えない場合もある言葉。
だが、同時に往年の名女優の様な普遍的な美しさをも指すその言葉が、お隣さんには似合うのだと周囲の生徒達は思っていた。
実際、一見すると腰まで届くその黒髪は隅々まで手入れされているのだろうか、艶やかで美しい。
彼女がこの学園に編入したのはつい二ヶ月前の事。
エスカレーター式に進学していくこの学園の生徒はその殆どが初等部ないし中等部からのエスカレーター組だ。
初等部から高等部まで十二年間、大学や院生までいれると更に数年を用いての一貫教育を行う事を公言しているこの学園に、彼女の様に高等部から編入してくる者は極めて稀だ。
そのくせ、編入試験の成績は過去最高、という触れ込みで入った彼女は注目されており、そして今やクラスに限らず、学園でも注目の的でもあ。
だが、大多数の人は知らない。
いつもはクラス委員として穏やかな笑みを絶やさずにまるでたおやかな花のように可憐な彼女が、別人みたいに豹変する時がある事を。
それが隣の席の男子生徒とのやり取りだ。
誰にでも分け隔てなく優しく、まさにアイドルの彼女が零二にだけは別人の様に凶悪化する。
それも、その相手は学園でも最高の問題児。数々の悪い意味での伝説をたった一年で築いた不良少年なのだから。
誰もが驚愕した。二人は完全に五分五分だった。
勿論、互いにイレギュラーを用いる様な事はしない。
それでも一般人から見ればとんでもないレベルでのケンカに見えるのではあるが。
別に彼女がクラスメイトに口止めを要求した訳ではない。
寧ろ、彼女からすればいい加減自分を特別扱いしているのを止めて欲しいので、短絡的な方法ではあったが好都合ですらあった。
だというのに。
何を気を利かせるのか、クラスメイトは自分達のアイドルの女性のイメージを尊重し、表立っては公言しなかった。
一部では他のクラスにも広まっているそうではあるらしいが、他のクラスの男子は「まっさかぁー」とそうした話を一笑。殆ど真に受けないらしい。
(どうやら最初にいいイメージを印象付けし過ぎたか)
と、最近になって後悔したがもう後の祭りであった。
というワケで半ば開き直った感のあるお隣さんの形相に、零二は思わず悪寒が走った。
(ヤバイ、ヤられる)
実際には殺られるかどうか等全く未知数なのだが、今の零二は寝惚け気味。対して、お隣さん、つまりはWGエージェントであるファニーフェイスのコードネームを持つ怒羅美影は完全臨戦態勢。
起き上がる前にあっちにどつかれる事は既に必定。まずもって勝ち目は皆無だ。
衆目監視の中で、きちんと正座した不良少年。
そして零二は、一言だけ言う。
「すンませンしたぁ」
と美影に平謝り。これで事態の収束を願った。
そして当の謝れた当人はと言うと――ニッコリとした穏やかな笑みを称えたまま、
「先生に謝れやバカたれッッッッ」
と強烈な拳骨をかましたのであった。
「あ、あの授業……」
怯えながら担当教諭が呟くが、
「この、バカ女ッッッ。いいぜ、やるってンだな」
「はん、うっさいバカ猿。吠えてろってのよ」
勃発した戦争の前に押し黙る。
こうして祭りの様な騒ぎはまた数十分続き、授業は終わる。
哀れな教諭はしゅん、とした表情で教室を後にするのだった。