水滴
ひたひたひた。
床を誰かが歩いている。
静かだ、リビングの床の板はかなり老朽化が進んでいたはずなのに、軋む事もない。
「ん、…………………」
暗い。一寸先すら見えない。
確かに滅多にここには来ない。
自分の所有している別荘だと言うのに。
この別荘を使うのは大抵の場合、表沙汰には出来ない”話し合い”の為だ。地元の友人との。
今夜もそのはずであった。つい一時間前までは。
突如、友人の市長が今日は別荘に来れない、と言ってきた。
そんな事は初めての事だった。
市長にはこちらに歯向かえる様な気概はない、ならば本当に公務の関係で今日は来れないのだろう。
構わない、たまには一人でくつろぐのも悪くない。
そう思っていた、数分前まで。
それはあっという間の事であった。
それこそ瞬き程の時間。
それで、事が起きていた。
ガタン、という音がした。
近くにいる。誰かがすぐ近くにいる。
「はぁ、はぁはぁ、はぁ――!!」
心臓の脈動が早まっていく。
とくん、とくん、と今にも破裂しそうな勢いで鼓動が早まっていくのが分かる。
「…………」
誰かが周囲を見回しているのがそのシルエットで分かる。
きょろきょろと首を振り、探している。
(来るな、来るな来るな……)
祈る様な気持ちだった。
神様をこれ迄信じた事など一度たりとも無かったが、今は、今だけは違う。心底その存在を信じたかった。
息を殺し、物音を立てずに自分の存在を知られない様に。
今だけは、自分の事は人形みたいな物だと思い込む。
人形だから、息はしない。人形だから、心臓の脈動なんか有り得ない。人形だから、決して誰にも気付かれはしない。
無理矢理にでもそう思い込む。
みし、みしみし。
足音が離れていく。どうやら相手は諦めてくれたらしい。
ホッとした次の瞬間だった。
しゅん、という風切り音と共に。
視界が突如グルグルと回って見えた。
一体何が起きたのか分からない。
ただ、妙に身体を軽く感じた。そうまるで自分の身体が外れたみたいに。
そして目撃する。
自分の首から上だけが宙を舞っている、と。
そしてそれを行ったらしき何者かと、白く輝くなにかを。
「────────あれ?」
それが最期の言葉となる。意識は途絶し、二度と目を覚ます事はなかった。男はそうしてアッサリとその命を散らした。
ごろ、ごろん。
飛んだそれが床に転がる。
「…………」
何者かは無言で今、事切れた相手を一瞥。
即座に場を離れる事にした。
その右手には一振りの刀。それは白く輝き、切っ先から何かがぱた、ぽたっ。と水滴が落ちている。
不思議な事に刀には一滴たりとも血は付着していない。
では、何が滴り落ちるのか?
無色透明、無味無臭。
その正体は文字通りの水滴、何故かその刀からは滴がぽたぽたと落ちる。
「………………」
死んだ男はとある一族、藤原の一員。
権力者であり、この辺りでは名士として名も通っている。
だからWGなりWDなり、男の知り合いがその内にここに大挙して駆け付けるだろう。
だが、彼らにも彼を特定する事は叶わない。
何故なら、彼は既に死んだとされているマイノリティ。
さらに付け加えるなら、ある研究施設にしか記録はない。
その研究施設も二年前に焼け落ちた。
だから今や彼を知る術は数少なく、そう簡単には分からないだろう。
ざっ、ざっ、ざっ。
外に出ると、そこには別荘の中にいた男と同様の手口にて斬殺された無数の骸が転がっている。無論、男の護衛だ。
彼は無言でその場を立ち去る。
一人静かに森を歩いていく。夜中の森は視界が悪い。だが彼には支障はない。
ふと、月夜に照らされたその顔。
端整な顔立ちだった。何処か中性的な面持ち。女装しても気付かれないかも知れない。
髪は銀髪、白髪ではなく、キラキラとした艶を持っている。
肩に届く程の男性としては長髪のその髪を無造作に後ろで結っているのが男らしさの発露なのかも知れない。
「もう少しだ。あと少しで再会出来る、…………【零二】」
と、一人誰もいない森の中で、月に向かって話しかけた。
その表情からは凄絶な覚悟が窺えるのみ。
まだ零二は知らない。
自分の知らない所で、”過去という名の死神”がその命を奪い去ろうと、その鎌首を静かに喉元へ突き付けようとしている事を。