ブリューナク
声が聴こえる。音が聴こえる。
ふと、下の世界に目を向ける。
街は今日も喧騒に満ちていて、ビルのネオンや街の明かり、行き交う車のライトがとても眩しくて、綺麗だ。
大勢の人が今日を楽しみ、明日を迎える事だろう。そう何事もなく昨日と同じ明日を。
でも、今日も誰かは明日を迎えずに”終わる”。いえ、終わらせられるのだ。私の手によって。
それが私の仕事。言うなれば死神の代行者みたいな物だ。
私の名は雑賀美月。コードネームは”ブリューナク”。
傍らにかけているバッグに収めているスナイパーライフルでの狙撃が私にとっての投擲槍。
時に無防備な相手を、また時に警戒している相手を視認できない距離から一発で命を摘み取る。
私はただ仕事をこなすだけ。
ただ静かに相手をスコープ越しに見つめて……トリガーを引く。たったこれだけの事で人が一人明日を迎えずに終わってしまう。
他に道が無かったのかを考える事もある。
でもそんな事を考えるのは失礼だ。
今の自分を否定する事は即ち、今まで私が殺めてきた人達の最期をも否定する事になる。
様々な人がいた。
悪い人も、とてもいい人も、どちらとも言えない人も、どちらとも言える人も、誰一人として逃す事なく撃って、命を奪った。
だから分かっている。
私がいつか死ぬ時、その最期はきっとろくでもない。
因果応報、自業自得、さぞかし酷い死に様を晒す事だろう。
でも、構わない。私にあるのは、出来る事は、人を銃で撃つ事だけなのだから。
◆◆◆
「以上が貴女の今回の標的です。何か質問はありますか?」
九条羽鳥は目の前にいる相手に問いかける。
「…………いえ、」
その相手、雑賀美月は小さい、消え入りそうに小さい声でそう返事を返した。決して怯えている訳ではないのは、彼女の緑色の瞳が九条へと真っ直ぐに向けられている事からも明らかだった。
ただし普通の人ならば、向けられた視線に対して、思わず身じろぎしてしまう事だろう。何故なら微かに、だが確実に明確な”殺意”が美月の視線から発せられていたのだから。
「では動いて下さい。今回は【チーム】での任務ですので」
九条はそんな視線にも動じる気配もなく、いつも通りに淡々とした口調で命じる。
美月はチラリと横目を自分の傍らにいるダークスーツの男へと向けた。その男、即ち九条羽鳥の右腕とも称されるエージェントであるシャドウは押し黙ったまま、しかし確実に自分を視ている、そう思った。
「分かりました、では報酬はいつもの口座に」
美月もシャドウからの視線にも動じる事なく、努めて冷静にそう小さな声で言うと部屋を辞した。
バタン、とドアが閉められた後。およそ数秒後。ダークスーツの男がようやく口を開いた。
「宜しかったのですか? ブリューナクを動員して?」
右腕たる男は上司に問いかける。
ここ数日で起こった味方側のマイノリティの死亡、その手口はいずれも遠距離からの狙撃で射殺されている。
証拠こそ残っていないが、高確率で今、部屋を辞したエージェントが実行犯に違いないだろう。
実際、彼女が九頭龍に戻ったのは一週間前。
以来、狙撃事件が起きている。
彼女は行く先々で同様の行動に出ているという情報もちらほらとは入っている。
シャドウの本心はこの直属チームを即刻解散したい、この一点に尽きた。このチームの面子の入れ替わりは激しい。それは九条から与えられる任務が高難度の物ばかりである為に、死亡率も高くなるから、という点。それから腹に一物持った連中を集めた為に、同士討ち等も得てして起こるから。多額の報酬を少しでも多く受け取る為だ。
このチームは九条羽鳥が直々に指名する。
条件はごく単純で、それぞれが何かしらの能力に、特化した怪物が任命される。
いずれ劣らぬ曲者揃いのメンツの中には、あろう事か九条をすら狙う者までいる始末だ。そんな愚者は勿論、シャドウが始末した訳だが。
九条とて無敵という訳ではないし、イレギュラーの種類によってはどんなに警戒しようが無意味な物も実在する。
密かにこういう噂もある、チームのメンツは実は処刑台に送られたのに等しいのだ、と。
確かにチームに選ばれて一年以上も在籍している者はシャドウが知っている限りで、あの武藤零二に桜音次歌音の二人位か。
零二に関してはそもそも存在自体が機密だから、ある意味仕方がなく、歌音に関しては、その零二の監視役であり云わば”首輪”の役割を与えられた存在。
(それに、認めたくはないが……)
あの二人はその言動はともかく、エージェントとしては極めて優秀だ。二人で対処した任務達成率はこれ迄の所、驚異の九十%以上であり、文句の付けようもない。
零二の事は決して評価したくはないが、結果を見る限り間違いなくこの支部のエース。
だからこそ、シャドウもまだあの少年を”始末”していない。
そう、このダークスーツの青年には”権限”がある。
彼独自の判断で脅威だと見なした人員を”処分”出来る、つまりは死刑宣告及びにその執行を行使出来るのだ。
九条がどういう意図でこの権限を与えたのかは処刑人たる自身にも分からない。だが、そんな事は些事だ。
九条羽鳥が何も言わない、それはあの女狐をまだ排除する意思がない。そういう事だろう。
(今は、腹の中で納めてやる、だが──)
何かしら失点を犯せば、もしくは明確な証拠を残さば──その時こそは。
影の様に仕える青年は、我知らずその口角を歪めていた。
◆◆◆
「………………」
雑賀美月はスコープ越しに繁華街を観ていた。
通常では見えない遠くの人々の顔、そこに浮かぶ様々な悲喜交々を無心で観測している。
「……………………いいな」
つい漏れ出たその言葉に如何なる意図があったのか。
声の抑揚もなく、ポツリと出た呟きを理解する事は余人には出来ないだろう。
ピピピピピ、腕時計のアラーム音。
ソレで観測者は、その目付きを一変させる、冷徹な狙撃者のそれへと。
時刻は一分前。いつも通りだ。
ジャコン、という金属音。
スナイパーライフルの撃鉄を引いた音だ。
依頼は写真の人物の狙撃による排除だと聞いている。
つまりは、いつも通りの仕事だ。
標的は、建物から決して出ないと聞き及んでいる。
だが、標的以外には手を出すな、とも聞き及んでいる。
それはある意味当然だ。
マイノリティ以外の一般人を彼女は狙撃しない。
例え依頼があろうとそれは同じだ。
「────」
意識を集中。
微かにノイズを感じる。微弱ながら何か電磁波を肌に感じる。
「ん、」
意識をそのノイズへと向ける。
すぐに正体が判明した、それはドローン。ステルス性を重視し、静音性にも優れた最新機体。
それが発する、電気の流れを”読み取る”。
一本の小さな線を手繰っていく感覚。
すぐに答えが出る、標的だった。
そう言えば、標的である姶良適時という人物は今、九条から九頭龍で連日起きた狙撃事件の調査を受け持っていたらしい。
このドローンもその一環なのかも知れない。
「…………手間が省けた」
そう、手順は簡略化された。今ので、店内の様子は把握した。
標的がいる場所、その部屋までの順路、無関係の店員の現在位置。その全てを、ものの数秒で彼女は完全に脳内に叩き込んだ。
そして迷わずに引き金を引く。
パッ、とした光が放たれた。
消音器でも付けているのか、音は極めて小さく、屋上からの狙撃に気付く者はまずいないだろう。
雑賀美月は意識を今、放った銃弾に向ける。
その軌道をトレースし、向かうべきルートを想起。
まずは、店内に入る。”予定通り”に入り口は解放されている。
そこから一直線にフロアを抜ける。
途端、壁が立ち塞がる。そう、この店には三重の壁が立ち塞がる。それも中には特殊鋼板を仕込んだ壁が、だ。
通常であれば、この壁を撃ち抜くのは不可能だ。
姶良適時もまた、マイノリティ。
異常に気付けば、即座に逃げに徹する。
チャンスは一度のみ、この一弾だけ。
異様な光景、そう形容するしかない。
銃弾は曲がった。クイ、と方向転換した。まるで”意思”を持ってるかの様に。
その後も同様の事が繰り返された。
意思持つ銃弾は、曲がり角を曲がり、スイスイと店内の奥を進む。仮にソレを目撃しても何が起きているかを見極めは出来ないだろう。それは文字通りの意味で目にも止まらぬ高速なのだから。
そうして銃弾は遂に標的のいる奥の部屋に辿り着く。
地面スレスレだった銃弾がそこで急に角度を変えた。
急上昇し、その先には何も気付かない標的の後頭部へ。
音はない。
銃弾もない。
だが、標的の後頭部から眉間にかけては穴が穿かれている。
時刻は今、深夜十二時になる。依頼通りに。
「摘み取ったわ」
その一部始終を見届けた雑賀美月は、独り囁くように呟くと、スナイパーライフルを慣れた手付きで片付けて立ち去る。
そこにはもう誰もいない。
ドローンはただその場で滞空し、誰もいない屋上を監視していた。