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最初の町についた日から1週間が過ぎた。アロイスの話では、彼の家はもうすぐのはずだ。
ここへ来るまで、わたしはさまざまなことをアロイスに質問した。「知らないことを知る」というのはとても楽しい。今まで書物でしか知らなかったこと、書物にもなかったこと、さまざまなことを知った。世界は本当に広い。
しかし、アロイスは、屋敷が近づくに連れて何か心に重くかかることができているように見えた。明らかに口数が少なくなっている。
「アロイス、何か心配なことでもあるのか?」
「いや、何も……少し気になってることがあるだけだ」
「気になることとは?」
「いや……。それよりも、ほら、あれがマンスフェルダーの町だ」
彼がごまかすように前を指差すと、示された小高い丘の上には町があった。
近づくと、町の周囲はぐるりと城壁に囲まれ、その入り口には2つの紋章……ひとつはこの町を示す紋章と、それにならんでアロイスの盾に描かれたものと同じ、鳥と花の紋章が掲げられていた。
「……アロイス、もしかして、お前は領主なのか?」
町の入り口でアロイスが警備の人間に声をかけると、ちょっとした大騒ぎになった。どうやら、アロイスは死んだものと思われていたらしい。死んだはずの者が戻ってきたのだから騒ぎになるのは当然で、それが領主の血縁であるならなおさらだろう。
紋章持ちは血筋の明らかな人間であるとは知っていたが、なるほど、“血筋が明らか”というのはこういうことなのか。
そのままあれよあれよという間にアロイスの言う屋敷へと連れて行かれ、なぜ今まで便りを寄越さなかったのかと問われたが、それについてはアロイスが説明をしていたようだ。
少し困ったのは、彼の屋敷で部屋に通されたあと、使用人の人間にやたらと世話を焼かれたことだった。わたしは母の残したローブを着ていたのだが、この家の人間たちには、随分とみすぼらしく見えたようだ。
寄って集って半ば強引に身を清められ、アロイスの妹のものであるという服を着せられ、髪や顔を弄られ、それだけでここまでの旅程以上に疲れてしまった。
* * *
久しぶりの家は、蜂の巣を突付いたような大騒ぎだった。
無理もない、黒森へ行ったまま誰も戻らず、死んだと思っていた俺が半月ぶりに無事戻ったのだから。さすがの父も言葉はなく、母と弟妹は泣き崩れていた。
シャスは瀕死だった俺を癒しここへ戻るのを助けてくれた魔法使いとして、我が家の客人という扱いになった。
「……このような場は初めてだ。おかしな振る舞いをしてしまっても許してほしい」
身支度が終わり使用人たちに手伝われ着飾ったシャスを部屋へ迎えに行くと、緊張し、少し困った顔をしてそう言った。
人間の姿を取ったままだが、これが本来の姿であったらどうだったのだろうかと想像する。
「父も母もそれほど作法には煩くないから安心してくれ。それよりも、疲れているのにつきあわせてしまって申し訳ない」
「構わない。お前が元気で戻ったのだ、家族が喜ぶのも無理はないだろう」
少し儚い笑顔を浮かべて彼女は言うが、その心中はどうなのか……彼女の家族は戻らなかったのだ。
「それにしても、ここへ来るまでにも何度か見かけたが、これほどまでに動きづらい服だとは思わなかった。見た目はきれいなのだがな。あちこち締め付けられていて苦しいくらいだ。よくも毎日着ていられるものだと感心する。靴もずいぶんと歩きにくい」
「そんなにか。よく似合っているんだがな」
「初めてだから、よくわからない。髪もかなり弄られたし、顔も随分塗られたぞ」
「ああ、そうだな。それも似合っている。きれいだ」
「……そうか?」
シャスは何故だか憮然とした顔になった。少し赤味が差したと思うのは、気のせいだろうか。
「さ、ここで食事だ。改めて皆に紹介する」
食堂の入り口を開き、シャスを席までエスコートした。
「父上、母上。改めて紹介します。魔法使いシャス殿です。優秀な癒しの魔法の使い手であり、彼女に助けられなければ私はここへ戻ることは叶わなかったでしょう」
シャスが一礼し、席に着く。待ちきれないという様子で、早速母や弟妹たちが彼女に質問を浴びせ、彼女はそれにそつなく答えていった。
* * *
「わたしは世間知らずなので、あまり作法に則った受け答えの仕方がよくわからないのだ。その、幼い頃に母さまが亡くなって、女性らしい口調というものを学ぶ機会がなかったのも原因と思う。自分でもわかっているのだが、気に障ったなら申し訳ない」
なぜ男性のように話すのかと、アロイスの妹君……エーリカ嬢に尋ねられた。たしかに、改めて比べればアロイスとわたしの口調にそれほど差はないのだが、妹君と母君の口調はずいぶんと柔らかく聞こえ、わたしとは違う。
そして、父君には今後何か予定はあるかと聞かれ、わたしはかねてより決めてあった通りに……アロイスの叔父に、魔族討伐の話を聞きたいと答えた。もともと、アロイスについてここへ来たのはそれが目的なのだ。
「ベルトラム叔父上はとてもすごい剣士なのです!」
「ああ、そうだな」
アロイスとは大分年の離れた弟君であるハラルト殿が、とても子供らしく目を輝かせながら叔父の剣術の腕前について語るのを受けて、アロイスは少し困ったような顔で笑った。その表情に、わたしは何か引っかかるものを感じた。
だが、この場でそれをアロイスに問うことはできず、翌日までその機会は訪れなかった。
翌日、早速アロイスの叔父である、ベルトラム・マンスフェルダーを訪れることとなった。歩くには多少距離があるため、父君の厚意に甘え、馬車を使っての訪問だ。
「……アロイス、率直に聞く。お前がずっと思い悩んでいるのは、叔父に何か含むことがあるからなのか?」
「シャス……」
「わたしも、ここに来るまでは随分考えた。最初の町に入るとき、お前はわたしに魔族については絶対に口に出すなと言っただろう? あれは何故だろうと不思議だったのだが……人間は魔族を信用どころか、恐怖の対象としているのだと知ったからな。
昨夜のハラルトの話でも感じたが、そうだな、最初こそ何か誤解があったのかも知れないと考えていたけれど、今はもう、そうではないのだろうとは理解しているし、覚悟もしている。
だが、わたしは大丈夫だ」
アロイスは、黙ってわたしの頭を抱き寄せた。
「それだけではないんだが……気を遣わせてしまってすまない」
「アロイス?」
それきり、アロイスはまた黙り込んでしまった。
そのまま馬車は走り続け、叔父の住むという別館の前に到着すると、既に屋敷の前には出迎えが出ていた。
歳は10~15ほど上だろうか。身長こそアロイスとほぼ変わらないが、身体つきや身のこなしからも、彼は随分とよく鍛えられているように思えた。
「ようこそ、ベルトラム・マンスフェルダーです」
その男が、アロイスの叔父だった。
* * *
出迎えた叔父に通されたサロンで、シャスが息を呑む。シャスの視線に気づき、叔父が「これがかの“黒森の魔”の角だ」と言う。
つまり、そこにはあるのはシャスの父親の角なのだ。彼女は、ぐっと手を握り締めていた。
茶を出され、表面上はとても和やかに、叔父の話を聞いた。
俺がかつて子供の頃、何度も聞いたのと同じように、あちこちが曖昧な「魔族討伐」の話だ。
しかし、今、話を聞いているのは子供ではない。
叔父があいまいに濁したところを、「魔法使いとして、どういうことなのかが気になるのだ」とシャスが突っ込んだ質問をしていく。叔父はやはり曖昧にぼやかしたまま相変わらず詳しく語ろうとはしないのだが。
そして、俺は以前なら気づかなかっただろう叔父の細かい表情や様子に、やはりそうなのかもしれないと考えていた。
……たん、ととんと、いつの間にか彼女の足が小さくリズムを刻んでいることに気づいた。それに合わせるように、彼女の言葉にも歌うような抑揚がつけられる。おそらく、魔法の素養があるものなら、魔力の流れも感じることができただろう。
「叔父上殿……いや、ベルトラム・マンスフェルダーよ。
もう一度お前に聞く。なぜ“黒森の魔”と呼ぶ魔族を殺し、お前が姫君と呼ぶ女を殺した。お前の知る真実を述べろ」
叔父の目に、ぎらりと嫌な光が浮かんだように感じた。
「……魔族だぞ。討伐して、殺して何が悪いというのだ。奴らは人を害する、人に仇なすものだ。その魔族に肩入れする人間も同罪だ。魔に魅入られた哀れな人間を救ってやっただけではないか」
「“黒森の魔”は、お前たちに何もしていない。何の害も与えていなかった。なぜ殺さねばならない?」
「今、害でないことで、何故安心できると? 魔族は邪悪だ。魔族に魅入られた人間も同じく邪悪だ。おぞましいものだ。排除しなければならない」
俺を振り返ったシャスは絶句した様子で、人間は、やはり魔族というだけで憎み殺すのかと、……そして、もしやお前も同じなのかとその目が言っていた。
俺は頭を振る。少なくとも俺は違うと、彼女に信じてほしい。
「……叔父上、己の名声のためだと言ったらどうですか」
「アロイス?」
叔父が怪訝な顔で俺を見る。俺は、まっすぐに叔父を見詰め、そして。
「叔父上は剣士として一流だったが、名声を得るために……名を上げるためには少々足りないものがあった。
叔父上にとって、“黒森の魔”はうってつけだったのでしょう?
“黒森の魔”としてそこに住む魔族を倒し、一緒にいた女性を囚われていた姫君として連れ帰れば魔族討伐の名声が得られると、そう考えたのでしょう?」
「……」
「それが、魔族であっても何の害も為さない、害を為す気もない家族を殺すことであったとしても」
叔父は黙り込んだまま、何も言わない。
「叔父上、俺からもひとつ、質問があります」
「……なんだ」
「黒森に、新たな魔が棲みついたという話を俺にしたのは何故ですか」
「……」
「マンスフェルダーまで戻る間ずっと考えていました。叔父上は明らかに、俺が黒森へ行くよう仕向けていた」
叔父は、睨みつけるようにじっと俺を見る。
「叔父上は、マンスフェルダーもほしいのですか」
弟はまだ10にも満たない子供だ。俺が戻らず父に何かがあれば、叔父がマンスフェルダーの当主となるだろう。
「黒森で、俺はたしかに魔物に襲われ死にかけました。供のものも、皆恐らくは魔物にやられたことに間違いないでしょう。
だが……黒森で最初に俺を襲ったのは人間だったのです。
叔父上、あなたが是非にと紹介してくれた、バルドゥルなのです」
……俺は叔父を尊敬していた。剣の腕はもちろん、恐ろしい魔族にもひるまず立ち向かえる勇敢さも持っているのだと。
だが。
「叔父上、俺はこれまで呆れるくらい無邪気にあなたを信じ、尊敬していました。けれど、これは……。
俺の魔族に対する認識も間違っていた。魔族も家族を守ろうとするのだと、家族を思って泣くのだということを知ったんです」
「アロイス」
なぜか、とても静かに叔父上が俺の名前を呼んだ。
「お前も、魔に魅入られたというのか」
「叔父上、何を?」
「……アロイス、危ない!」
シャスが俺の腕を引く。
叔父上がいつの間にか抜き放った剣を、俺に突きつけていた。
「ベルトラム、お前は血を分けたものも殺そうというのか。何故だ」
シャスが立ち上がり、俺を庇うように片手を上げる。
「……魔に魅入られたものもまた邪悪だと、言っただろう」
「お前の言う魔とはなんだ」
シャスが叔父に問う。
「お前の言う邪悪とはなんだ。
父さまも母さまも、あの森を出るつもりはなかった。人間とも関わろうとしていなかった。ただ、静かに暮らしていただけだ。わたしにとっては、お前こそがわたしの暮らしを破壊した邪悪だ。
お前の理屈では、ならば、わたしは自分を守るために人間をすべて滅ぼさなくてはならないということになるぞ!」
叔父が怪訝な顔でシャスを見た。「お前……まさか、魔族か!?」
俺はとっさに剣を抜き、シャスを背に隠す。
「──アロイスを取り込んだのか! 穢れた魔族め!」
「なぜ、お前の理屈が人間だけに許されると考えるのだ。何故だ。人間は特別だと言うのか! ベルトラム!」
* * *
わたしの問いに、ベルトラムは答えなかった。
ただ、剣を振るい、わたしを斬ろうとしたのみだった……アロイスの剣がそれを止めたのだが。
「これが、人間のやり方なのか?」
小さく震えるわたしの声に、アロイスは違うと言う。これだけが人間のすべてであると思わないでくれ、とアロイスが言う。
わたしは、初めて真正面から受けた悪意に竦み、恐れていたのだ。アロイスの言葉を信じたいが、人間の持つ、魔族への恐怖と悪意。ベルトラムがわたしに向けている感情こそが、人間の魔族に対する真実の感情なのではないか。
父さま、わたしはどうすべきなのだろうか。壁に掲げられた父さまの角を見上げる。きちんと話せばよいのだとばかり考えていたわたしは、あまりに何も知らな過ぎた。
ぎりぎりと合わせられた剣を挟み、ベルトラムとアロイスが睨み合う。
ガキンという音とともに合わせた剣を弾き、ベルトラムが鋭く踏み込む。2人の間にあったテーブルはとうに蹴り飛ばされてない。
何事かと駆けつけた使用人が悲鳴を上げ、その間にもベルトラムとアロイスは激しく剣を討ち合わせていた……いや、さすが一流と讃えられる剣士であるベルトラムが、一方的にアロイスを押していた。
このままではアロイスは斬り捨てられ、“魔に魅入られて道を誤ったもの”にされてしまう……それだけは起こってはならない
父さま、わたしを助けてくれ。
壁に掲げられた父さまの角……今でも少しだけ、父さまの魔力を漂わせる角を、手元に引き寄せた。
「ベルトラム、これはわたしの父のものだ。返してもらう」
守りの障壁を張りながら、父さまの角を手に言い放ち、後ろへと下がる。
ベルトラムがわたしの様子に気づいて切り掛かり、アロイスが防ごうとして間に合わない。
しかしベルトラムの剣は障壁に阻まれて届かなかった。
「ベルトラム。お前には“黒森の魔”を殺めた人間として、相応の報いを受けてもらおう」
わたしが姿変えの魔法を解くと、再び使用人たちから悲鳴が上がった。アロイスが息を呑み、シャス、やめろと呟いた。
父さま、母さま、うまくいくように、わたしを助けてくれ。
……わたしは魔力を込めた言葉を放つ。
「ベルトラムよ。お前のその手はもう剣を持つこと能わぬ。その口は偽りを申すこと能わぬ。それが、お前が我が父を殺めた報いだ。
……アロイス、お前はこの者の血縁で黒森を侵した者ではあるが、わたしにまんまと騙されたその素直さに免じて今だけは見逃してやる。だが次はない」
ベルトラムの手が震え、剣が滑り落ち、カランと音を立てた。
「シャ……ス……」
アロイスが掠れた声でわたしの名を呼んだ。
「よいか人間ども。二度と黒森に近寄るな。黒森に入ろうなどと考えるな」
そうして、わたしはこの場から姿を消した。