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抱きかかえ背を撫でていると、彼女はまるで小さな子供のようだった。
そして、10年前に何があったのかと尋ねても、彼女に話せることは多くなかった。
結局、今となっては俺の叔父のみがそれを知っているということか。
「……何があったのか、本当のことを知りたいか?」
腕に抱いたまま俺が問うと、彼女はゆっくりと頷いた。
おそらく、何があったかを知ることは、彼女にとってとても厳しいことになるはずだ。それでも彼女は知るべきなのだろう。
「俺はアロイスだ。お前のことは何と呼べばいい?」
「……シャス」
「わかった。ではシャス、“黒森の魔”を討伐したのは俺の叔父だ。彼に聞けば、ここで何があったのかを知ることはできると思う。
……だが、叔父が本当のことを話すかどうかはわからないし、叔父が真実だと考えることが、お前の知っていることと違うかもしれない。お前の両親の話と、俺が叔父から聞いた話は全く違っている」
違うどころか、真実はもっと悪いことかもしれない。
「叔父に、どうにかして事実を全て話させなければならないだろう」
シャスは俺の肩に顔を埋めたまま、また頷く。
「──シャス、お前の魔法は人に真実を語らせることができるか?」
「わからない。父さまならできたかもしれない。けれど、わたしは父さまほどたくさんの魔法を知らない……父さまの魔道書を探せば、そういう魔法があるかもしれないけれど」
「では、準備をしよう。俺もまだ身体が完全ではない。体力が戻るまで時間が必要だ。その間に、方法を探そう」
「わかった。……アロイス、よろしく頼む」
シャスは顔を上げて俺を見つめた。泣き腫らした目には強さが宿っていた。本当は禍々しいと感じるはずの彼女の深紅の目を、俺はなぜだか美しいと思い、彼女を抱く腕に力を込めた。
彼女は俺を見ながら不思議そうに首を傾げていた。
* * *
アロイスが完全に身体を回復するまで、10日あまりの期間が必要だった。
準備をしながら、わたしはしばしば、父さまと母さまが死んだ理由を考えた。アロイスは、手を下したという叔父が真実だと考えていることが事実と違うかもしれないと言った。
ほんとうはどんなことが起きたのかを知りたい。なぜ父さまと母さまが死ぬ必要があったのか……不幸な行き違いのせいだったのか。
それから、わたしは、知ってどうしたいのか。
その間にも、わたしは父さまの魔道書を総ざらいし、目当ての魔法とその他にもいくつか役に立つかもしれない魔法を見つけ、習得した。
この家を留守にするための用意もした。
もう一つ、アロイスに渡さなければならないものも作った。
そうして、ようやくすべての準備が整ったその日。
「アロイス、これを」
わたしがアロイスに作ったものを差し出すと、彼は不思議そうに取り上げた。
「なんだ? 指輪か?」
「これには守りの魔法がかかっている。黒森の魔物は、これをつけていればアロイスには近寄らない……はずだ」
「はず?」
「父さまの守りの魔法なら確実だけど、わたしの守りの魔法だから……もしかしたら、強い魔物には効かないかもしれない。魔物は、魔法をかけたものの強さを推し量るから」
「なるほど……ありがとう、シャス」
アロイスは笑い、すぐに指輪をはめた。
父さまと母さまがいなくなり、わたしの名前が呼ばれなくなって久しかったが、アロイスが現れてまたわたしの名前が呼ばれるようになった。不思議だと思う。
「これで準備は終わりだな。お前の身体も大丈夫なようだ。明日、出よう」
「ああ……シャス」
「何だ?」
「叔父が剣士として相当な腕であることは確かだ……だが、お前には危害が及ばないようにする。お前は俺の生命の恩人だ。生命の恩は、生命で返す」
「アロイス、わたしはただ、何があったかを聞きにいくだけだ。わたしは生まれてこのかた森を出ていないし、人間に何かしたこともない。危害を受ける理由はないと思うのだが。
それに、わたしは別にお前を危険にさらしたくて助けたわけではない。そんなに気負わなくていい。だが、ありがとう」
生真面目そうなアロイスの顔を見て、父さまと母さまがいなくなって以来の笑みがこぼれた。
* * *
並んで歩きながら、姿変えの魔法によって人間のような外見になったシャスに少し違和感を感じる。「母さまの色を真似てみた」という彼女は、今、本来よりももう少し灰がかった銀髪に淡い紫の目となっていた。生粋の魔族のように尖っていた耳も今は丸く、額の角は跡形もなく消えている。
本当なら、魔族としての姿のほうにこそ違和感や恐れを感じるべきなのに、とも考えた。
「……この黒森を出てから、だいたい南に徒歩で1週間ほどでマンスフェルダーの屋敷に着くと思う」
「マンスフェルダー?」
「俺の家だ。叔父は、そこから少し離れた場所にある別館に住んでいる」
「……広いのだな」
ふ、と溜息を吐きながらシャスが言う。
「外に出て、さらに1週間か。
森の外がこんなに広いとは思わなかった。わたしは本当に狭いところしか知らなかったのだな。
……アロイスには少し感謝をしている。お前が持ち込んだものはよい知らせではなかったが、お前が来なかったら、たぶんわたしはあのまま何十年でも、ひとりで父さまと母さまを待ち続けていたと思う。お前は、わたしに機会をくれた」
考えてもいなかった彼女の言葉に驚く。
「わたしは、父さまの蔵書でしか世界を知らなかった。父さまと母さまとあの家だけで、わたしの世界は終わっていたからな」
シャスは俺を仰ぎ見て笑った。……だが、なぜ、彼女はそんな風に笑えるのか。
「……感謝はまだ早い。忘れたのか? お前の両親を殺したのは人間で、俺の叔父だ」
「でも、お前ではないのだろう? お前は言った、叔父が信じていることと、わたしの知っていることに食い違いがあると……父さまと母さまが死んだことはとても悲しいし、今も辛い。だが、誤解ゆえのことであれば、恨むわけにはいかない。恨みは世界を歪め、よくないものを産む」
「……聞いていなかったけれど、お前、歳はいくつなんだ?」
「ええと、もうすぐ16だと思う」
「ずっとひとりだと言ったが、今まで本だけで学んできたのか?」
「そうだ。父さまの蔵書は多岐に渡っているから、学ぶことにあまり不自由はしなかったが……何かおかしなところはあるか?」
もしかしたらとは思っていたが、彼女の、呆れるほどの善意に満ちた見方に驚いた。
彼女は知識でしか外を知らないが故に、他の人間を知らないが故に、これほどまでに無邪気でいられるのだろうか。本当に知らなさ過ぎる。人間が魔族に対して持っている恐怖や嫌悪も、世の中にはもっと理不尽な感情が溢れていることも。
「お前は筋金入りの箱入りなんだなと思っただけだ。……それに、人間はもっとずるい」
「箱入り? ずるい?」
「いや、町へ行ったら俺から離れないほうがいい」
* * *
森を出て、初めての町に着いた。
アロイスから、わたしはこれから魔法使いと名乗ること、“魔族”のことは絶対口に出さないことを約束させられた。わたしの風体なら魔法使いと名乗ったほうがよいらしい。
彼から、この町はこれで小さいほうなのだと説明されたが、それでも十分、人間がたくさんいるように思えた。誰かにぶつからないように歩くだけで一苦労だ。
ともすれば周りを見るのに夢中になって、何度もアロイスからはぐれそうになったためか、まるで小さな子供に対するように、彼はわたしの手をずっと握っていた。
当然ながら、わたしは町で何かを買うことも、宿屋に泊まることも初めてだった。書物に載っていないことが多く、わたしは始終戸惑っていた。お金が必要なのではないかと聞いたら、アロイスの荷物にあった路銀で十分事足りるのだと返された。
「こんなに人間がたくさんいるとは思わなかった。それに、書物ではわからなかったことだらけだ」
「当たり前だ。本だけで全てを知ることができたら苦労はないだろう?」
「たしかにそうだな。……わたしは大丈夫だろうか。何かおかしなことはしていないか? わたしが話すと、何か微妙な顔をされている気がするんだ」
父さまや母さま、そしてアロイス以外の者と話すのも初めてなのだ。何故わたしが話すと相手が妙な表情を浮かべるのか、理由がよくわからない。
「口調だな。お前の口調は歳のわりに古臭くて固いし女らしくない。だから相手が驚いている。だがそれだけだ、おかしくはない」
「そうか……」
宿屋はアロイスと同室にしてもらった。アロイスは仮にも男女なのだから別室がよいのではないかと言ったが、わたしが不慣れであることを理由に挙げ、寝台は2つで衝立もあるのだから問題ないだろうと返したら、納得してくれた。
正直なところ、人間がこれほど多く周りにいるという初めての状況に、不安のほうが大きかったのだ。
町での買い物の後、宿の部屋に戻り、寝台に座ったところで、身体全体が重たく感じるほどの疲労感に襲われた。自分は、思っていたよりもずっと疲れていたようだった。
衝立の向こうのアロイスは、それほど疲れた様子を見せていなかったというのに。
「アロイス、人間が多いだけでこんなに疲れるとは思わなかった」
「そのうち慣れると思うが……嫌になったか?」
「嫌というほどではない。だがどうも落ち着かない。用が済んで森へ戻るまでの辛抱とは思うが」
「……森へ戻るまでか」
「そうだ。やはりあの家が落ち着く」
衝立の向こうから、アロイスの溜息が聞こえた。
「けれど、たまに町へ出るのは悪くないかもしれないな」
「そうか」
「アロイス、町へ来て思ったのだが、わたしが初めてあった人間がお前なのは、幸運だったのかもしれない」
「……そうか」