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日の光もまともに差しこまないほどに厚く茂った木々の、古い森。
だからこの森は「黒森」と呼ばれているのだと、昔、父さまが話していた。
その頃、静かに、穏やかに、わたしと母さまと父さまの3人でこの黒森の奥深くで暮らしていた。わたしは毎日無邪気に、父さまと母さまと明日はどうしようという話をしながら眠りに着いたものだった。
ある日、わたしは母さまに手を引かれ、絶対にここを出てはいけないと言い含められて小さな部屋に閉じ込められた。いったい何故なのか、父さまと母さまはどうするのかと問うと、心配ないから父と母がいいと言うまでここでじっとしていなさいと言われた。
その小さな部屋は父さまの魔法で完全に隠されていて、内から外の様子は何もわからないようになっていた。今考えると、それは父さまがせめてわたしが不安にならないように、絶対に安全でいられるようにと思っての処置だったのだろう。
そしてまる一日以上、ひたすら、母さまとの約束だからと、父さまと母さまが扉を開けてくれるのを待ったのだが、いつまで待っても扉が開くことはなかった。いい加減限界だったわたしが恐る恐る扉を開けると、そこにあったのは荒らされ、誰もいなくなった、わたしと父さまと母さまの暮らしていた家だけで。
──わたしはその日からひとりになった。
* * *
あれから、わたしはひとりで静かにここで暮らしている。
父さまの教えてくれた魔法のおかげで生活に困ることはない。しかしあの日何があったのか知ることも、森の外を知らないわたしがここを離れることもできなかった。
それに、いつか父さまと母さまが戻ってくるかもしれないと、今でも少し期待していた。ただ、この家を守り、父さまと母さまが戻るまで静かに暮らすことがわたしの目的になっていた。
その静かな暮らしが破られたのは、父さまと母さまがいなくなって10年が過ぎたある日のことだった。
「?」
誰かが魔法の守りの内側に入ったことに気づき、見に行くと、見知らぬ誰かが倒れていた。
ひどい怪我を負い、身体からかなりの血を流していたが、触るとまだ暖かく息もあるようだ。少しゆすってみたらうめき声をもらすところを見ると、完全に意識がないというわけでもなさそうだった。
「生きてる?」
「……助け、を……」
少し考えて、どうやら助けてほしいのだと判断して治癒の魔法をかけると、それは意識を失くしてしまったようだった。傷が塞がったあたりで、ここに置いたままではよくないだろうと魔法でその身体を運んだ。全身を覆う鎧はどう見ても窮屈そうだったので、適当に外してから家の空いた寝台に寝かせた。
しかし、他の生き物の世話などしたことがない。どうすればいいのかがわからない。父さまや母さまはどうしていたっけと考える。
この誰かが自分とさほど変わらない種族であれば、水、だろうか。食べるものは自分と同じでも大丈夫なのだろうか。とりあえず、用意して様子を見てみよう。ああ、そういえば、大きな怪我をした後は熱が出るのだと、父さまの本に書いてあった。ならば、頭を冷やしたほうがよいだろう。手桶に水を用意し、布をぬらして額に当てた。
これで、問題はないだろうか?
それから初めて、まじまじとその誰かを観察した。自分と同じ人型。髪の色は明るい茶。目の色はわからない。耳は尖っていないし、角もない。それほど大きな魔力も感じないから、おそらくこれが母さまと同じ種族……人間なのだろうか。
人間なら、食べるものも水も、自分と同じものでよいはずだ。怪我はもうなさそうだし、呼吸も安定しているようだ。
そこでようやく思いついて、この人間が倒れていた場所へもう一度戻り、持っていたと思われる荷物を拾い集めた。剣と、壊れた盾と、いろいろな道具らしきものが入った袋がいくつか。盾には紋章が描いてあった。大きな鳥と花を模った紋章だ。ただ、これが人間のどこの血筋を示しているかはわからないのだが。
見つけたものを全て集め終えた後、それにしてもいったい何故人間がここへ来たのだろうかと考えながら、家に戻った。
* * *
ぼんやりと目を開けながら、ここはどこだろうと考える。魔物に追われ、供の者とはぐれ、ひどい怪我を負い、とうとう歩けなくなって自分は倒れたはずだ。
そこまで考えて、自分が今柔らかな寝台に寝かされていることに気づいた。慌てて起き上がろうとして、酷い頭痛と眩暈に襲われて、頭を抱え込む。
「血がかなり流れていた。まだ寝ていたほうがいい」
横から、声がかけられた。聞いたことのない、まだ幼いくらいの女の声に驚いて、頭を抱えながらもそちらを見る。
小柄で細い身体に白銀の髪、赤い目……そして、額の小さな角に長く尖った耳……魔族、なのか? けれど、魔族の髪は黒いはずだ。どういうことだ?
呆気に取られている俺を見て、その魔族……彼女は首を傾げた。
「失った血は治癒の魔法でも戻せない。しばらく休む必要がある。……水は飲むか?」
頷いて差し出されたカップを受け取り、中を覗くと、たしかに水が入っていた。
「先ほど汲んだばかりだから、まだ冷たいはずだ。何か食べるか?」
「あ、ああ……」
「では少し待て」
彼女は俺の返事を待って、部屋を出た。水は新鮮で冷たく、おいしかった。
……魔族とは、魔力に長けて気まぐれで恐ろしい、魔王を頂点に戴く人に害をなす種族と聞いていたが、彼女の様子はずいぶんと異なる。彼女は魔族ではないのだろうか? 話に聞く魔族と髪色が異なるのも気になる。
「待たせた」
盆にいくつかの皿……スープと何かを煮たものを載せて、彼女が戻ってきた。
「スープはいくつかの野菜と肉を煮込んだものだ。こちらは果実を煮たものだ。これは栄養価が高く、消化もよい。人間が食べても問題はないはずだし、今のお前にちょうどいいだろう。ゆっくり食べろ」
「……お前は、何者だ?」
俺が問うと、彼女は盆を寝台横のテーブルに置きながら、首を傾げた。
「それはこちらの台詞だ、人間。なぜここへ来た? わたしが知っている限り、ここへ来た人間はお前が初めてだと思うのだが」
「……初めて? では、お前は“黒森の魔”ではないのか」
「? 黒森の魔?」
彼女は、怪訝そうに、俺の言葉の意味がわからないという顔をする。
「ここは黒森ではないのか?」
「いや、ここは黒森だが……?」
「黒森には魔族がいたが、10年ほど前、とある姫君を救うために黒森に入った剣士に討伐されたと聞いた。お前がその“黒森の魔”と呼ばれる魔族で、討伐は間違いだったのかと考えたのだが、違うのなら新たにここに棲み付いた魔族というわけか?」
「黒森の魔……討……伐?」
訝しむように考えていた彼女の顔が色を失った。何故だか、彼女は酷く衝撃を受けているように見えた。
「10年前……魔族は、討伐、されたと? では、その、“姫君”、とは……人間、なのか?」
「? もちろん、姫君は人間だ。話では、魔族の毒が回っていたために程なくして亡くなったと聞いているが」
「人間……なく、なった……なく……」
今度こそ、彼女は崩れるようにへなへなと座り込んでしまう。
「……どうした?」
俺は慌てて寝台から降りて手を伸ばした、が、「さわ、るな」彼女はそれを振り払い、ふらふらと立ち上がると部屋から出て行ってしまった。
* * *
──10年前、黒森に住む魔族は、討伐された。
あの人間はそう言った。では、あの日の出来事は? 討伐? 父さまが、討伐? 何故? 何をした? 人間も亡くなった? 母さまが、姫君で、亡くなった? 何故だ? 何故? 何故父さまと母さまが?
自分が知っている限り、ここで3人で静かに暮らしていただけだ。それ以外、何もなかった。人間が、何故父さまを殺しにくる必要がある? 父さまが母さまを浚った? そんな馬鹿な。
母さまはあの時ここを開けるまで待つようにと言った。自分は隠れなければよかったのか。そうすれば、父さまや母さまと今も一緒にいられたのだろうか。
疑問ばかりがぐるぐると頭を回り、考えがまとまらない。けれど、なぜ父さまも母さまもいなくなったのか、いつまで待っても戻ってこないのか、それだけはすとんと腑に落ちていた。
自室の寝台に潜り込み、頭からシーツを被って蹲る。
自分はこれからどうすればいいのだろう。もう、父さまも母さまも、待っていても戻ってこないのか。なら、自分がここに居続ける意味はあるのだろうか。自分はどうやって生きていけばいいのだろうか。
これからもひとりで生きなければならないとは、考えたことなどなかった。いつか父さまと母さまが帰ってくるのだと、また3人で暮らすのだと信じていた。
……いや、あの人間が嘘を吐いている可能性だってある。そう、人間は嘘を吐くじゃないか。なら、遠見の魔法を試してみればいい。きっと父さまや母さまが映るはずだ。どこか遠い場所にいて、今すぐ戻って来られないだけだ。
そろそろと寝台を降り、地下室へと向かった。あそこに、遠見の魔法のための水盤が仕舞ってあるのだ。
埃を被った水盤を引っ張り出し、井戸から汲んだばかりの澄んだ水を満たすと、わたしは父さまの蔵書から遠見の魔法の載った魔術書を探して、もう一度呪文の確認をした。
* * *
がしゃんという、何かをぶちまけるような大きな音に驚いて、俺は飛び起きた。多少マシにはなったが、まだ頭がふらついている。しかし、さっき部屋を出て行ったときの彼女の様子とただ事ではない音が気になり、そっと足音を忍ばせて階下へと向かった。
階段を下りて、音がしたと思しき部屋を覗くと、ひっくり返された水盤が転がりあたり一面水浸しとなっていた。
その横で、彼女が小さく蹲って震えている。
「どうした?」
「……と言え」
「なに?」
「嘘だと言え、人間」
何のことなのか理解できず首を捻ると、彼女ががばっと顔を上げ、噛み付きそうな勢いで縋り付き、俺に迫った。
「さっきお前が言ったことだ! 嘘だと言え! 討伐などなかったと! でたらめだと言え!」
「さっき? 討伐?」
「嘘だと言うんだ! でないと、父さまも、母さまも、戻ってこな……!!」
叫ぶように彼女は言うがその言葉は続かず、その目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始めた。彼女に掴まれた腕に爪が食い込む。
「……ない……映らなかった……水鏡に、何も、映らな……」
「何がだ? 父? 母?」
そこまで言われてようやく、彼女が言うのが“黒森の魔”の討伐の話だと理解し……そして、その可能性に思い至った。
「まさか、お前……“黒森の魔”の、娘、なのか? まさか、人間と、“黒森の魔”の?」
俺は、昔何度も聞いた“黒森の魔”の討伐の話を思い出す。
叔父は何といっていた? 姫君を浚った“黒森の魔”を追い詰め倒したが、時既に遅く姫君自身も毒に侵され、魔に取り込まれていたために死んでしまったと。
“毒に侵される”とは、“魔に取り込まれる”とは、つまりどういうことだったのか。そもそも“浚われた姫君”というのはどこの姫君のことなのか。すべては曖昧に語られていて、はっきりしたことが何もわからない。
──叔父は、いったい何をしたのだ?
なぜ、ここに“黒森の魔”の娘がいるのだ?
なぜ、彼女は父と母を呼んで泣いているのだ?
俺に縋って嗚咽を漏らす彼女を抱きしめると、その身体はとても細く頼りなく、これが、人に恐れられる魔族の身体なのだろうかと密かに驚いた。
魔族とは、本当に人に害なす種族なのだろうか?
「……10年前、ここで何があったのか、話してくれないか?」