3.ふぇみにすと?
頬を撫でる冷たさに瞳を開けた。平素から目覚めのよい自分だ。今度はもう迷わなかった。
男の闇色の瞳をまっすぐに捉えて話す。
「すまない、もう大丈夫だ」
昨夜までと立場が逆転し、寝床から男を見上げる。男は大きな体を丸めて心配げにこちらを見ていた。
想像していたよりもずっと若い。
柔らかな光を瞳にたたえて男が口を開いた。
「ーーーーーーー」
やっぱりな。
言葉はただの音としか聞こえなかった。
異国人と推察していたとおり、男の言葉は理解できなかった。しかたなく、まだだるい体を引きずるように起こそうとすれば、横から手が伸びてきて助けてくれる。助けたはずの男に看病され、少なからず自尊心が傷きながらも、たしかな力に甘えてしまう。
けれど、壁と背の間に枕を滑らせてくれる男に驚く。少なくとも自分の周りに女の世話をやける男はいなかった。あまりのことに、じっと見つめていると視線をふいと逸されてしまった。
隣国では女性を丁重に扱うことを美徳とする文化があるというが……慣れないせいかどうも不気味である。
男の手が離れた。
あれ……なぜだ?起き上がることに苦労したのに、もう身体が軽い。
目の前に上げた掌をゆっくり開きまた閉じる。
術が無事成功したからだろうか?
ひとり考えていると、男の視線が戻ってきた。
「ーーーー?」
大丈夫か?だろうな。
重くしっかりと頷きを返す。
「あんたは大丈夫なのか?体、痛くないか?」
手振りを加えて聞けばなんとか通じたのだろう。相手が頷いて、やっとほっと息をつけた。
「かわる。ここに、寝ろ」
寝台から降りようとすれば、気付いた男に手で遮られてしまう。何かしゃべっているが、分からないので無視をする。
さっさと立ち上がり軽く伸びをして見せた。うん、異常はなさそうだ。じゃあ次は
「おまえだな」
くるりと男を振り返って、ぐいと体を寝台へと倒す。予想外のことだったのか呆気なく大きな体は揺らいだ。
だが。すぐに起き上がろうと身をよじった。
「待て、私よりもお前の方が危険なんだ。診てやるから大人しくしてろ、っておい!」
どれだけ、言葉で、身振りで、説明しても男は首を振り続け、私を寝台へ寝かそうとする。
らちが明かねぇ。
男の両肩を掴む。黒い瞳が揺らぐのも気に留めず、そのまま寝台へ叩きつけた。
「私は薬司だ!生きたいなら言うことを聞け!」
あ、やっちまった。
思ったが言ってしまったものはもう遅い。
意味は通じないものの、怒鳴られたことは分かっただろう。丸くなった目が私を見ていた。
『女のくせに』
何度となく向けられた言葉が浮かんだ。
女のくせにーー
こいつも、そう思ったんだろうな。
ところが反応は予想外のものだった。
少しの間固まった後で、男はぺこりと頭を下げた。短く何かを言ったあとは大人しく寝台にのぼりこちらが動くのを待っているようだった。
怒らないのか?侮辱されたと手を上げる奴さえいたのに、こいつは逆に素直にいうことを聞いてしまった。
さっきのことといい、はじめての反応に戸惑う。
私がいつまでも動き出さないので、男は首をかしげていた。
はっとして、慌てて目診をはじめる。
まず、薄く陽炎に似た揺らめきが見えた。透明のそれが次第に色を帯び対象者を衣でくるむように包む。
へぇ。
中心に確かな核の気配があった。
本当に成功したのか……。
授魂とは理論でいえば、沈殿物のある液体を攪拌し、空の容器へ移す作業だ。欠片の混じった液体は移った先でまた集まり核となる。
けれど今、男から溢れる気配はほんのりと黄金色に輝いている。自分のもつ桃色と異なる。
ただ、移しただけではないのか、なんらかの反応があったようだが検討もつかない。
きっと老師なら何故かを明らかにしてくれるのに……いや、もう会えないんだった。
じわじわと喜びが腹の底から湧くその一方で、罪の大きさに慄く自分がいた。
ゆらゆらとやじろべえが揺れるように明暗が揺れていた。
「とりあえず、異常はなさそうだ。でも、寝てろ」
さっと立ち上がって、上掛けをわたす。
目診は寧ろ良好を示していた。自分の体調が好転しているのもあって油断しそうになるが、禁物だ。
と、男の眉間に深く皺が寄っていた。
「どうした?」
「ーーーー?」
視線をあげ何かを問うた。何?何度か繰り返して、同じ音に気付いた。
「トゥーキィ?」
国の東部にある地域かと聞けば首を振る。よく耳をすます。
「とうきょう?」
問い返すと、大きく頷いて指で地を指し示した。
ここが『とうきょう』か、と聞いているのか?それなら
「ここは両国、ツェルト村だ」
『とうきょう』なんて聞いたこともない。知らないと首を振ると眉間の皺が深くなった。
「にほん?」
知らんな。首を振る。
「ちきゅう?」
聞いたこともない。
また、首を振る。
おい、それ以上力むと強張って人相が歪むぞ。
男は険しい表情のまま固まってしまった。
「そこから来たのか?」
意味は通じたのか頷いた。
「すまない、どれも私は知らない」
恐らくそれも通じたのだろう、頭を抱え込んでうずくまってしまった。
異国人とは思ったが、金髪に黒い瞳なんてちぐはぐな民族は知らない。しかも、こいつは聞いたこともない言語で話しているようだし、混乱するばかりだ。
そういえば旅装でもなく街道に倒れていたと言ってたな……。こいつ、何者だ?
小さな疑心が生まれた。が、すぐに打ち消す。
……まぁ、今考えることじゃないか。
「とりあえず、なんか食べろ」
悩む男の肩に軽く手を置いた。つられるように上げた瞳に笑いかけてやる。
「できることなら、私は協力してやるから」
台所へ向かおうと背を向けた。
その後ろ手を捉えられた。
「なんだ?」
「ヤマト」
「だから……」
「ヤマト、ヤマト」
自らを示して繰り返し言うのにようやく気付いた。ああ、そうか
「名前か。ヤマトって言うんだな」
名を呼ぶと、初めて笑顔をこぼした。
くしゃりと目尻に皺を寄せた笑顔は無垢な子どものようだった。
くるっと指先がこちらに向けられる。
「ーーーーーーーーーー?」
そっか、わかった。
「私はシェンナだ。シェンナ」
「しぇんな?」
拙い言葉も子どものよう。さらに小首をかしげて問うた。その図体に似合わない仕草に噴き出してしまう。
なぜ、私がひどく笑うのか分からないのだろう。ヤマトはきょとんと目を丸くしていた。
学舎を出て以来、こんなに笑ったのは初めてかもしれない。
それでもなんとか呼吸を整えて言った。
「そう。よろしく、ヤマト」